第五話「過保護な檻と城のざわめき」
新月の夜の発作から数日が過ぎた頃、ノアを取り巻く城内の環境は急激な変化を遂げていた。
始まりは、工房に届いた荷物の山だった。
朝、工房の扉を開けたノアは、部屋の半分を埋め尽くす木箱の群れを見上げて立ち尽くした。
箱を開けると、極北霊獣の毛皮を贅沢に使った防寒外套や、帝国では王侯貴族専用とされる白銀製蒸留器、さらには南方温暖地から転移魔法で運ばれてきた瑞々しい果物や蜂蜜漬け木の実が、惜しげもなく詰め込まれている。
「あの……ヴェルナー様、これは一体何の手違いでしょうか」
手帳を片手に確認に訪れた宰相ヴェルナーに尋ねると、彼は眼鏡の奥の目を眇め、乾いたため息をこぼす。
「手違いではない。すべて我が主、竜王アグニヴ様からの直々の下げ渡し品だ。『薬師の身体が冷えては調合の効率が落ちる』『痩せ衰えては余の番として体面が悪い』とのことだ」
「で、ですが、私は契約上の仮の身です。このような高価な品々をいただくわけには……」
「主の命だ。返却しようものなら、余計に機嫌を損ねるぞ。大人しく受け取っておくのが賢明だ」
ヴェルナーはそう告げると、肩をすくめて立ち去る。
それだけでは終わらなかった。
ノアが一歩工房の外に出るだけで、鋼の鎧を着込んだ屈強な竜近衛兵が二名、まるで影のように背後に張り付くようになったのだ。
中庭を歩けば右に一人、左に一人。
薬草を摘むためにしゃがみ込めば、背後でカチャリと槍を構え直す音が響く。
(息が詰まる……というより、申し訳なくて落ち着かないよ……)
手厚い保護というよりは、まるで厳重な軟禁だった。
もっとも、ノア自身はそれを、冷徹な竜王が契約上の道具を失わないよう厳格に管理しているのだと解釈していた。
だが、どれほど監視が厳しくなろうと、目の前で苦しんでいる者を見過ごせないのがノアの性分だった。
ある日の昼下がり、散歩を装って護衛を引き連れながら城の訓練場の近くを通りかかったときのことである。
砂煙の上がる広場で、近衛騎士団長イグニスが若い兵士たちの剣術訓練を行っていた。
激しい打ち合いの末、模擬刀で肩や腕を強打した若い兵士たちが、痛みに顔を歪めて地面に座り込んでいる。
「痛たた……団長、相変わらず容赦ねえな」
「甘ったれるな! 戦場じゃ相手は模擬刀を使ってくれねえぞ!」
仁王立ちで怒鳴るイグニス自身も、手首に青黒い打撲の痕を作っていた。
痛ましそうに手首をかばう兵士たちの姿を見て、ノアの薬師としての血が騒いだ。
背後の護衛が制止の声を上げる間もなく、ノアはエプロンのポケットから調合したばかりの湿布薬を取り出し、訓練場の隅へ駆け寄った。
「イグニス様、手首を見せていただけますか」
「あん? ……おお、ノア先生じゃねえか!」
イグニスは赤毛を揺らし、豪快に破顔する。
ノアはイグニスの前にひざまずき、腫れ上がった手首に、冷たい薬草のペーストを塗った麻布を手際よく巻きつけた。
「筋肉の筋に沿って固定しますね。少し冷やっとしますが、すぐに熱が引きますよ」
繊細な指先が手首のツボをそっと押さえ、布の端をしっかりと結ぶ。
その瞬間、イグニスの顔から痛みの色が消え、目を見張るような歓喜へと変わった。
「うおおっ、すげえ! じんわり熱が引いて、痛みが一瞬で消えちまったぞ! 先生の手は魔法の手だな!」
「大げさですよ、ただの星霜草と清涼樹の湿布です」
ノアが控えめに微笑むと、周りにいた若い兵士たちが我先にとノアの周りに集まってきた。
「せ、先生! 俺の太ももの打撲も見てくれませんか!」
「あ、ずるいぞ! 俺の肩の擦り傷が先だ!」
屈強な竜人族の兵士たちが、耳を赤く染めながら競うように腕や脚を差し出してくる。
ノアは嫌な顔一つせず、一人ひとりの傷に丁寧に薬を塗り、包帯を巻いてやった。
手当てを終えると、一人の若い兵士が照れくさそうに、懐から小さな木彫りの小鳥を取り出してノアに手渡した。
「あ、あの! これ、故郷の魔除けの木彫りなんです! 先生にあげます!」
「まあ、可愛い……ありがとうございます。大切にしますね」
ノアが両手で小鳥を受け取り、ふわりと春の陽だまりのような満面の笑みを浮かべた。
その無垢な笑顔に、兵士たちはすっかり骨抜きにされ、広場全体がほんわかとした温かい空気に包まれる。
――だが、その平穏は長くは続かなかった。
突如として、訓練場全体に肌を切り裂くような氷点下の冷気が吹き抜けたのだ。
ビリビリと空気が震え、兵士たちの背筋が硬直する。
広場にいた全員が、無言のまま見上げる。
訓練場を見下ろす城の最上階――竜王執務室の窓辺に、漆黒の短髪を風になびかせたアグニヴが立っていた。
その黄金の瞳は、地獄の業火のように爛々と燃え盛り、広場の中央で兵士たちに囲まれるノアを射殺さんばかりに睨みつけていた。
アグニヴの手が置かれた石造りの窓枠から、ピシリと鋭い亀裂が走り、白い粉塵が舞い落ちる。
アグニヴの背後に立つヴェルナーが、眼鏡を指で直しながら密かにため息を漏らした。
「我が主、窓枠にヒビが入っております。ただの部下への手当てに、そこまでの冷気を放たれますな。兵たちが凍りついて訓練になりません」
「……ヴェルナー」
アグニヴの喉から、低く濁った唸り声が絞り出された。
「イグニスを、明日から北の氷壁警備へ三ヶ月派遣せよ。あの木彫りを渡した小僧は、城壁の外周清掃を百往復だ」
「王、明らかな職権乱用でございます。却下いたします」
ヴェルナーが即座に切り捨てたが、アグニヴの瞳から嫉妬の冷気は消えなかった。
その日の夕刻、ノアはアグニヴの執務室へと呼び出される。
重厚な執務机の前に立たされたノアは、部屋を支配する重苦しい空気に居心地の悪さを感じていた。
机の向こうで肘をつくアグニヴは、氷のように冷たい視線をノアに向けている。
「……ノア」
「は、はい、アグニヴ様」
「貴様は己の立場を弁えているのか」
低く、有無を言わさぬ威圧感。
ノアはびくりと肩を竦めた。
「軽々しく他の男に触れるな。笑顔を振りまき、贈り物を受け取るなど言語道断だ。貴様は余の番(仮)なのだぞ。余の顔に泥を塗る気か」
厳しい叱責。
ノアの胸に、冷たい針がチクリと刺さるような痛みが走った。
(やっぱり……怒らせちゃったんだ)
アグニヴの体面を傷つけてしまった。
自分のような平民の、しかも香りの薄い欠陥オメガが、気安く近衛兵たちと馴れ合っていたことが、誇り高き竜王にとって許しがたい不名誉だったのだと、ノアは思い込んでしまった。
「……申し訳ありませんでした。出過ぎた真似をいたしました」
ノアは深くうつむき、手にした木彫りの小鳥を指先でエプロンのポケットの奥へと隠す。
小さく縮こまるノアの姿を見て、アグニヴは舌打ちを漏らした。
本当は、そんなふうに責めたかったわけではないのだ。
ただ、自分以外の男に無防備な笑顔を向けたノアに、理性が吹き飛ぶほどの嫉妬を覚えたに過ぎない。
だが、不器用な竜王には、その独占欲を素直な言葉で伝える術がなかった。
「……明日から、貴様の部屋を余の寝室の隣へ移す」
「えっ……?」
驚いて顔を上げたノアに、アグニヴは冷淡に言い渡す。
「工房への往復も、余が同伴する。貴様を勝手に歩き回らせるわけにはいかんからな」
反論の余地を与えぬ宣告。
ノアは戸惑いながらも、深く一礼して承諾するしかなかった。
部屋を出ていくノアの華奢な背中を見送りながら、アグニヴは執務机の上で自らの手のひらを強く握りしめた。
あの新月の夜に触れたノアの柔らかな指先の温もりが、今も皮膚の奥でチリチリと疼いていた。




