第四話「黒き呪痕を和らげる指先」
深夜、城の静寂を切り裂くような低い唸り声が、石造りの壁を震わせた。
大地を揺るがす獣の咆哮にも似た、苦悶に満ちた叫び。
薬草工房で『星霜草』の煎じ薬を煮詰めていたノアは、薬匙を取り落としそうになった。
(アグニヴ様……!?)
胸騒ぎが確信に変わる。
今夜は月が隠れる新月の夜だった。
ヴェルナーから聞かされていた通り、新月の引力は太古の邪竜の呪詛を活性化させ、宿主の魂を食い破るほどの激痛をもたらすという。
ノアは出来上がったばかりの軟膏壺を両手でしっかりと抱きかかえた。
調合室の隅で丸くなっていたルカが、不安そうに小さな声を漏らして頭を持ち上げる。
「ルカちゃん、いい子でお留守番していてね。すぐに戻るから」
小さな頭を一度だけ撫で、ノアは工房を飛び出した。
冷たい夜の回廊を、素足に突っ掛けた靴で無我夢中に走る。
石造りの冷気が足の裏から伝わってきたが、寒さを気にしている余裕はなかった。
アグニヴの私室の前には、槍を手にした近衛兵たちが数名、蒼白な顔で立ち往生していた。
重厚な扉の隙間から、紫黒色の瘴気と凍てつくような冷風が漏れ出している。
「ノア先生! いけません、中に入っては!」
兵士の一人が焦りをにじませてノアの前に腕を突き出し、制止した。
「王の呪いが暴走しております! 近づけば、常人なら魔力の余波だけで命を落としますぞ!」
「でも、あんなに苦しんでいるのに、放っておけません!」
「王ご自身が、発作中は誰も近づけるなと厳命されたのです! 万が一、王が理性を失って先生を傷つければ、王は二重に苦しまれることになります!」
兵士の悲痛な訴えに、ノアは唇を噛み締めた。
誰もが王を案じ、同時にその強大すぎる力に怯えている。
だが、扉の奥から響いてくるのは、喉を掻きむしるような痛ましい呻き声だった。
誰も行かないのなら、自分がいくしかない。
そのために、自分はこの城に『番』として迎えられたはずだ。
「大丈夫です。私には、この薬がありますから」
ノアは兵士の腕をすり抜け、迷うことなく重い鉄の扉に手をかけた。
力任せに押し開いた瞬間、吹き荒れる暴風がノアの亜麻色の髪を激しく乱した。
部屋の中は、凄まじい竜の魔力嵐が渦を巻いている。
調度品は壁際に吹き飛ばされ、石の床には鋭い爪痕が幾重にも刻み込まれている。
吹き荒れる風には、氷の刃のような冷気と、焦げ付くような禍々しい魔力の匂いが混ざり合っていた。
部屋の最奥、天蓋付きの寝台の足元に、床に膝をついて前のめりに倒れ伏す男がいた。
シャツの胸元は引き裂かれ、鍛え抜かれた鋼のような肉体があらわになっている。
その左半身は、おぞましい黒い呪痕によって埋め尽くされていた。
呪痕はまるで生き物のようにうごめき、アグニヴの皮膚の下で青黒く脈打っている。
黄金の瞳は血のように赤く濁り、口元からは鋭い犬歯が覗いていた。
「……来るなと……言ったはずだ……!」
地獄の底から響くような、嗄れた警告。
アグニヴの視線がノアを捉え、凄まじい殺気の刃となって突き刺さる。
「失せろ……! 余の視界から消えろ……! 貴様を、噛み砕いてしまう前に……!」
殺戮の衝動に抗うように、アグニヴは床の石畳に竜の爪を深く突き立てた。
メキメキと亀裂を走らせて石が砕け散る。
その唇からは、痛みを必死に耐えるあまり、赤い血がたらりと滴り落ちていた。
普通ならば、腰を抜かして逃げ出すような光景だった。
だが、ノアの足は止まらなかった。
血を流してまで自分を遠ざけようとするその高潔な自制心に、ノアの胸が強く締めつけられる。
一人で抱え込んできた痛みの深さが、痛いほど伝わってくるからだ。
ノアは震える膝に力を込め、冷たい風の中を真っ直ぐに歩み寄った。
アグニヴの荒い呼気が肌を打つ距離まで近づき、すとんと床に膝をつく。
「……貴様……正気か……」
アグニヴのかすれた声に、ノアは何も答えなかった。
代わりに、抱えていた陶器の壺を開け、冷たく澄んだ香りを放つ緑色の軟膏をたっぷりと指先にとった。
そして、ためらうことなく、黒く熱を帯びたアグニヴの左首筋へと両手を伸ばした。
ひやりとした軟膏と、ノアの少し冷たい手のひらが、脈打つ呪痕に触れる。
アグニヴの身体が、雷に打たれたようにびくりと硬直した。
「冷たくて気持ちいい薬を作ったんです……星霜草を丁寧にすり潰して、痛みを散らす薬効を閉じ込めました」
ノアは穏やかに語りかけながら、激しく熱を帯びたアグニヴの首筋から鎖骨にかけて、滑らかに軟膏を塗り広げた。
手のひらを密着させ、皮膚の熱を吸い取るように丁寧に撫で下ろしていく。
「どうか、私を信じてください。もう、一人で耐えなくていいんです」
ノアの翡翠の瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ち、アグニヴの肩に落ちた。
その瞬間、思いがけない変化が訪れた。
ノア自身は薬草の効能だと信じ込んでいたが、ノアの小さな手のひらから、淡い翡翠色の光がほのかににじみ出していた。
それは、傷ついた魂の核を直接包み込み、癒やすノア本来の力に他ならない。
触れられた皮膚から、じゅわりと心地よい清涼感がアグニヴの体内へと浸透していく。
骨を砕き、内臓を焼き尽くすようだった邪竜の激痛が、潮が引くように急速に鎮まっていく。
黒く脈打っていた呪痕が動きを止め、毒々しい赤黒さから薄い墨色へと薄らいでいった。
皮膚を焼くような高熱が下がり、引き攣っていた筋肉が徐々に解けていく。
「……あ……」
アグニヴの喉から、かすれた息が漏れた。
赤く濁っていた瞳から狂気が引いていき、本来の澄み切った黄金の輝きが戻ってくる。
荒れ狂っていた室内の魔力嵐が嘘のように止み、部屋には静寂が戻っていた。
アグニヴは荒い息を吐きながら、自分の首元に触れているノアの小さな手を見つめた。
華奢で、繊細で、薬草の匂いが染み付いた平凡な指先。
その指先が、何年もの間、大陸中の高名な魔導士や治癒師の誰も抑えられなかった呪いの激痛を、瞬く間に鎮めてしまったのだ。
ノアの身体から、白百合と陽だまりの清らかな香りがふわりと立ち上り、アグニヴの疲弊した五感を温もりで包み込む。
その匂いは、アグニヴが生まれて初めて感じる、抗いがたい安らぎそのものだった。
「……ノア……」
初めて呼ばれた自分の名前に、ノアはほっと息を吐き、へたり込むように笑った。
「よかった……効いてくれたんですね。本当によかった……」
安堵のあまり力が抜け、ノアの身体がぐらりと傾く。
倒れかけたノアの腰を、アグニヴの逞しい腕がとっさに抱き止めた。
引き寄せられたノアの身体は、アグニヴの熱い胸板にすっぽりと収まる。
鍛え抜かれた筋肉の硬さと、ドクドクと力強く脈打つ心音。
アグニヴの腕には、箍が外れそうなほどの強い力がこもっていた。
抱きしめられた背中から、アグニヴの激しい体温がじんじんと伝わってくる。
「……阿呆が。余に触れるなと命じたはずだ」
耳元で囁かれた声は低く、しかし先ほどのような冷淡さは微塵もなかった。
そこには、震えるような動揺と、壊れ物を抱きしめるような切実さが混ざり合っていた。
「でも、放っておけませんでしたから」
ノアが腕の中で小さく答えると、アグニヴはギリリと奥歯を噛み締めた。
アグニヴの大きな手がノアの後頭部に添えられ、その細い首筋――仮の封印印が刻まれたうなじのすぐ近くに、熱い吐息が吹きかけられる。
逃がしたくない。
この小さな薬師を、二度と自らの腕の外へ出してはならない。
手放せば、二度とこの温もりを取り戻せないという本能的な恐怖すら感じていた。
そんな強烈な独占欲と衝動が、アグニヴの魂の奥底で重く胎動する。
夜が明けるまで、アグニヴはその腕を解くことはなかった。
窓の外には、新月の暗闇を抜け出し、薄紫色の夜明けを迎える雪峰の稜線が荘厳に佇んでいた。




