第三話「白銀の羽毛と無自覚な癒し」
中庭から差し込む柔らかな冬の陽光が、石造りの作業台を白く照らしていた。
乾燥した薬草の清々しい苦味と、天日干しにした野草の青い匂いが部屋いっぱいに満ちている。
竜王城『ドラグナー天楼』の一角にあてがわれた薬草工房は、ノアにとって夢のような空間だった。
(こんなに広くて、風通しのいい場所を使わせてもらえるなんて……)
帝国での日々を思えば、望外の厚遇だった。
カビ臭い地下の片隅、壊れかけた薬研と錆びたピンセット。
それに引き換え、ここには竜王国特有の精緻な銀細工が施された調合器具が整然と並び、棚には霊峰で採取された希少な鉱石粉や乾燥根が保管されている。
澄んだ蒸留水の瓶や、熱伝導に優れた青銅の小鍋まで揃っていた。
ノアは亜麻色の前髪をかき上げ、エプロンの紐をキュッと結び直した。
目の前には、朝一番に城の庭師から届けられた霊峰特有の薬草が山積みになっている。
細長い葉の縁が銀色に凍りついたように輝く『星霜草』。
過酷な寒冷地にしか育たないこの草は、毒素を散らす強い解毒作用と、昂ぶった神経を鎮める優れた鎮静効果を秘めている。
ノアは一本一本、傷んだ葉を丁寧に取り除き、繊維に沿って小刀を入れた。
傷つけず、組織を押し潰さぬよう、薬草の命をそのまま薬液へ移すような繊細な手捌き。
祖父代わりだった老薬師から叩き込まれた基本を、ノアは愚直なまでに守り続けていた。
薬草の繊維からにじみ出る透明な樹液が、指先に爽やかな若草の匂いを残していく。
「よし、これで下処理は終わり。あとは夕方まで天日干しにして――」
独り言を呟いた瞬間、エプロンの裾にコトリと小さな重みが触れた。
何かが足元を擦るような、微かな気配。
野鼠か小鳥が迷い込んできたのかと思い、ノアは視線を下ろした。
そこにいたのは、今まで見たこともないほど愛らしい生き物だった。
(……えっ……?)
手のひらより少し大きい程度の、白銀の柔毛に覆われた丸っこい身体。
背中には、まだ飛ぶこともできそうにない小さな羽が二枚、パタパタと震えている。
まん丸で見事な翡翠色の瞳が、ノアの顔を不思議そうに見上げていた。
子竜だ。
まだ卵から孵って間もない幼竜が、ノアの作業靴の爪先に前足を揃えてちょこんと座り込んでいる。
真っ白な産毛は綿毛のようにふわふわとしており、光の加減で淡い虹色に輝いていた。
「わあ……可愛い……」
思わず声が漏れた。
子竜はノアの声に怯えるどころか、長くてふわふわした尻尾を左右にパタパタと振った。
そして、器用に爪をエプロンの生地に引っ掛けながら、トコトコとノアの胸元へとよじ登ってくる。
「あ、危ないよ。落っこちちゃう」
ノアは咄嗟に両手を差し出し、小さな身体をそっと手のひらで受け止める。
手に乗せると、羽毛のような柔毛の奥から、トク、トク、と小さな心音と、人間よりも少し温かい体温が伝わってくる。
子竜はノアの手のひらに頬をすり寄せ、喉元を震わせて甘えてきた。
ノアの身体から漂う、微かな白百合と陽だまりのような匂い。
他の誰にも気づかれないほど希薄なその香りが、この幼子にとっては深い安心を与える揺り籠のように作用しているらしかった。
子竜は小さな前足でノアの指をぎゅっと握り、離そうとしない。
「お腹が空いているのかな? ちょっと待ってね」
ノアは小皿を取り出し、調合用に取り分けておいた甘味果の乾燥果肉を、爪の先ほどの大きさにちぎって手のひらに載せた。
子竜の鼻先へ差し出すと、翡翠の瞳を輝かせ、小さな舌で器用にペロリと果肉を巻き取った。
モグモグと小さな口を一生懸命に動かして飲み込むと、満足そうに甘い声で鳴いた。
そして、ノアの胸元のポケットに潜り込み、顎を縁に乗せてうっとりと目を細める。
「ふふ、あったかいね。君はどこから来たの?」
ノアが指の腹で子竜の頭を慈しむようになでていると、工房の開け放たれた扉から、冷たい風が吹き込んできた。
足音が一つ。
床を踏みしめる重々しい気配に、ノアは顔を上げた。
そこに立っていたのは、黒衣のマントを羽織った竜王アグニヴだった。
(アグニヴ様……!)
黄金の瞳が、鋭い光を帯びて工房の中を睥睨している。
その視線が、ノアの胸元ポケットに収まる白銀の毛玉を捉えた瞬間、アグニヴの表情が強張った。
「……貴様、それは何だ」
地を這うような低い声。
ノアは反射的に背筋を正し、ポケットの子竜を守るように両手を添えた。
「も、申し訳ありません! 中庭から迷い込んできたみたいで……勝手に食べ物をあげてしまいました」
だが、アグニヴの視線はノアではなく、その胸元の子竜へと向けられていた。
信じられないものを見るように、黄金の縦瞳が瞠目している。
「ルカが……貴様に懐いているだと?」
「えっ? ルカ……?」
ノアが首を傾げると、扉の陰からヴェルナーが困惑した面持ちで姿を現した。
「王、ルカ様のお姿が見えないと思えば、まさかここに……」
ヴェルナーは眼鏡越しに子竜を見つめ、驚きに満ちたため息をこぼした。
「信じられませんな。ルカ様は先代の遺児であり、周囲を警戒される気性の激しい幼竜です。主の呪いの瘴気に怯えて奥宮に閉じこもり、我ら側近の給餌すら激しく拒絶しておられたというのに……」
あの警戒心の強い子竜が、ノアの胸ポケットで無防備に甘えている。
その光景は、竜王国の者たちにとっては大きな衝撃だった。
「ルカ、こちらへ来い」
アグニヴが厳しい声で命じ、大きな手を差し伸べた。
すると、今までノアにうっとりと甘えていた子竜は、パッと顔を上げ、アグニヴの手を見るなり全身の毛を逆立てた。
子竜は小さな牙を剥き出しにし、喉の奥から威嚇の声を漏らしてアグニヴを睨みつける。
そして、アグニヴの手から逃げるように、ノアの首元へ顔を埋め、小さな翼でノアの服を掴んで離れようとしない。
アグニヴの差し伸べた手が、空中でピタリと静止した。
竜の君主が、手のひらサイズの幼竜に拒絶されたのだ。
「……っ」
アグニヴの眉間に深い溝が刻まれた。
その顔には、先代の遺児に対する困惑だけでなく、明らかな苛立ちが浮かんでいる。
それも、甥が懐かないことへの苛立ちというよりは、ノアの首筋に我が物顔で顔を押し付けている子竜そのものに向けられた、強い睨みだった。
「……貴様、余の番(仮)の首元に、いつまでしがみついているつもりだ」
低く唸るようなアグニヴの声。
部屋の温度が二度ほど下がったような錯覚を覚える。
「あの……アグニヴ様? ルカちゃんは、まだ小さくて不安なんじゃ……」
「甘やかすな。こやつは竜族の血を引く誇り高き幼生体だ。そのような腑抜けた顔を晒すなど言語道断」
口では冷淡に突き放しながらも、アグニヴの黄金の瞳は、ルカがすり寄っているノアの鎖骨のあたりを、穴が開くほど見つめていた。
まるで、自分がまだ触れることを許されていない領域を、幼竜に先取りされたことを本気で不服に思っているかのような目つきだった。
アグニヴの放つ威圧の気に当てられ、ノアのうなじに刻まれた仮の契約印が、チリリと熱を帯びる。
その熱さは、恐ろしさというよりは、どこか胸をくすぐるような微かな疼きを伴っていた。
「……今日は調合の進捗を確認しに来ただけだ」
アグニヴはバサリとマントを翻し、背を向けた。
「夕刻、試作した薬を持って執務室へ参れ。――その毛玉は適当なところで放り出しておけ」
不機嫌さを隠そうともせず、大股で去っていく竜王。
その背中を見送りながら、ノアはぽかんと立ち尽くしていた。
ポケットの中のルカが、誇らしげに鼻を鳴らし、ノアの指先を甘噛みする。
「ふふ……アグニヴ様、怒っちゃったかな。でも、どこか寂しそうだったね」
ノアは小さく笑い、ルカの柔らかな頭を愛おしそうになでた。
窓の外には、夕暮れに染まり始めた霊峰の美しい雪景色がどこまでも広がっていた。




