第二話「氷の瞳の竜王と偽りの番」
目覚めたとき、肌をなでたのは柔らかなシーツの滑らかな感触だった。
重厚な天蓋付きの寝台がある。
部屋の暖炉では薪がパチパチと爆ぜて心地よい熱を放ち、部屋全体を春のような温もりで満たしている。
(ここは……どこだろう)
ノア・エルディアンは身を起こし、清潔なリネンの寝間着に袖を通している自分の手を見つめた。
凍傷寸前だった手足には丁寧に薬油が塗られ、痛みはきれいに引いている。
枕元には、手入れの行き届いた質素だが上質な衣服が畳まれて置かれていた。
衣服に着替え、恐る恐る寝室の重い扉を開けると、そこには昨夜の眼鏡の男――竜王国宰相ヴェルナーが立っていた。
「目覚められたか、ノア殿。体調に異状はないようで何よりだ」
「ヴェルナー様……ここは?」
「我が主、竜王アグニヴ様の居城『ドラグナー天楼』の客室だ。主がお待ちだ。身支度が整い次第、謁見の間へ案内する」
ヴェルナーの促しに従い、ノアは緊張した面持ちで歩き出した。
磨き上げられた黒曜石の回廊を抜ける。
窓の外には、雲海の上にそびえ立つ雄大な雪峰と、天空を舞う巨大な有翼の影が見えた。
本当に、人間が足を踏み入れることのない竜の国へ連れてこられたのだと実感する。
やがて辿り着いたのは、天井の高い石造りの大広間だった。
広間の最奥、一段高い壇上に据えられた黒鉄の玉座。
そこに、一人の男が深く腰掛けていた。
(……あの方が……)
息が詰まるような重圧が、部屋全体を支配していた。
艶やかな漆黒の短髪に、彫刻のように研ぎ澄まされた冷徹な美貌。
その双眸は、夜の闇を射抜くような鋭い黄金の縦瞳だった。
そして何より、男の左首筋から胸元にかけて、毒々しく脈打つ黒いタトゥーのような紋様――呪痕が這い回っている。
そこから、目に見えるかのような黒い瘴気が陽炎となって立ち上っていた。
竜王アグニヴ・ドラグニール。
彼から放たれるアルファの気迫は、宮廷で見下ろしてきたどの帝国の貴族とも比べものにならないほど重厚で、冷たい吹雪そのものを思わせた。
だが、その黄金の瞳の奥底に、ノアはかすかな揺らぎを見る。
苛烈な威圧感の裏に、激痛を必死に噛み殺している痛ましさがにじんでいた。
「……面を上げよ」
低く、低弦の楽器を響かせたような声が大広間に満ちた。
アグニヴの冷たい視線が、ノアの小さな身体を真っ直ぐに射抜く。
「オルディス帝国より連れてこさせた薬師ノアだな。貴様をこの城へ迎えた理由を単刀直入に告げる。――余の『偽りの番』となってもらうためだ」
「……えっ……?」
思いがけない言葉に、ノアは思わず小さな声を漏らした。
偽りの番。
番とは、アルファとオメガが互いの魂と身体を永遠に分かち合う、揺るがぬ絆のはずである。
混乱するノアの傍らで、ヴェルナーが眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
「我が主は今、太古の邪竜の残滓から受けた『魂蝕の黒呪』に侵されておられる。この呪いは魂の核を蝕み、耐え難い激痛と狂気を呼び起こす」
「呪い……」
「主の放つ強大すぎる魔力と呪いの瘴気は、並の人間では数分と持たずに精神を焼き切られる。通常のオメガであれば、その甘いフェロモンが呪詛と反発し、近づくだけで命を落とすだろう。――だが、貴殿は違う」
ヴェルナーの冷徹な観察眼が、ノアの首筋に向けられた。
「帝国での記録を調べさせてもらった。貴殿は、フェロモンが極めて希薄な『香りの薄いオメガ』だ。その特異な体質ゆえに、主の禍々しい瘴気と衝突せず、唯一その側に留まることができる」
ノアは自分の胸元をぎゅっと押さえた。
帝国で欠陥品や役立たずと罵られ、追放の理由にまでされた自らの身体。
その希薄さが、ここでは必要とされる理由になっているというのか。
アグニヴが冷ややかに言葉を継いだ。
「貴様に求める役割は二つだ。一つは、余の激痛を和らげる抑制薬を調合すること。もう一つは、貴族や他国への牽制として、公の場で余の番であると装うことだ」
ヴェルナーが手早く書類を開いた。
「城内に専用の薬草工房と豊富な研究資材を提供し、貴殿の身の安全と衣食住を永久に保証する。契約期間が満了し、呪いの問題が片付いた暁には、市井で生涯不自由なく暮らせるだけの報奨金を支払って解放しよう」
アグニヴの黄金の瞳が、刃物のように鋭く細まった。
「ただし、余に余計な情を抱くな。貴様はただの道具であり、契約上の仮初の番にすぎん。余の身体に触れることも、余の心に踏み込むことも許さぬ」
突き放すような冷徹な声音。
情けを容赦なく切り捨てる君主の言葉だった。
普通ならば、その冷酷さに怯え、縮こまるはずである。
だが、ノアの翡翠の瞳は、アグニヴの左首筋をじっと捉えていた。
黒い呪痕が皮膚の下でうごめき、血管を締め上げるように脈打っている。
アグニヴの両手は、椅子の肘掛けを指先が白くなるほど強く握りしめていた。
冷たい言葉で威嚇しながら、この王は今も、魂を引き裂かれるような苦痛に一人で耐えているのだ。
(痛いんだ……ずっと、誰にも触れてもらえないまま、こんな激痛に耐えてきたんだ)
帝国で誰にも見向きもされず、冷たい地下室で一人泣いていた夜を思い出す。
孤独の冷たさを知っているからこそ、この誇り高き竜王の痩せ我慢が、痛々しくて仕方がなかった。
ノアはすっと姿勢を正し、一歩前へ進み出た。
「アグニヴ様」
「……何だ」
「私のような者で、本当にあなたの苦しみを和らげることができるなら……喜んでお引き受けいたします」
澄んだ声が、静まり返った謁見の間に真っ直ぐに響いた。
打算も恐怖も媚びもない、ただ純粋な翡翠の眼差し。
アグニヴの黄金の双眸が、ほんの一瞬、見開かれた。
竜王の眉根がわずかに寄せられ、冷徹な仮面に微かな亀裂が走る。
「……恐怖はないのか。余は竜であり、呪われた怪物だぞ」
「怪物だなんて思いません。あなたは、痛みに耐えておられるだけです。薬師として、苦しむ方を放っておくことはできません」
アグニヴは唇を引き結び、深く胸の奥の冷気を逃がすように息を漏らした。
「……口の減らぬ薬師だ。ヴェルナー、儀式を」
「はっ」
ヴェルナーが進み出て、紫色の小箱を開けた。
中には、鈍い藍色に光る小さな宝珠――『竜樹の仮封印石』が収められていた。
「ノア殿、うなじをお見せ願いたい。これは一時的に主の魔力印を刻み、対外的に番い済みであることを示すものだ。肉体的な結合ではなく、いつでも解除できる」
「はい」
ノアは素直にうなずき、首元の襟を引いて、白い柔らかなうなじを露わにする。
ヴェルナーから宝珠を受け取ったアグニヴが、玉座から立ち上がり、壇を降りてくる。
大柄な体躯がノアの眼前へ迫った。
冷たい雪峰と白檀の混ざり合う、重厚なアルファの匂いが鼻腔をくすぐる。
アグニヴの大きな手が、ノアの首筋に添えられた。
触れられた瞬間、びくりと身体が跳ねる。
冷たい手のひらかと思いきや、そこには熱い血潮の激しい熱が宿っていた。
アグニヴの指先がわずかに震えている。
「……動くな」
低く囁く声が、ノアの耳元をくすぐる。
冷たい宝珠がうなじの付け根に押し当てられた。
チリッとした微かな熱痛が走り、ノアの白い肌に淡い藍色の竜の紋章が浮かび上がる。
仮の契約印。
これで二人は、名目上の番となった。
アグニヴの手が離れたとき、ノアのうなじには、彼の手のひらの熱い名残がいつまでも消えずに残っていた。
「部屋へ戻り、工房を改めよ。必要な薬草があればヴェルナーに申し出ろ」
アグニヴは背を向け、再び玉座へと戻っていった。
冷たい横顔を崩さないその背中を見つめながら、ノアは深く一礼する。
「ありがとうございます、アグニヴ様。必ず、お役に立つ薬を作ってみせます」
足早に広間を辞去するノアの背中を、アグニヴの黄金の瞳が、いつまでも無言で見つめ続ける。




