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追放された平凡薬師は、冷徹な竜王の偽りの番になり溺愛される 〜呪いを解いたのは、無自覚な奇跡の手でした〜  作者: 水凪しおん


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第一話「冷たい雪峰と追放の薬師」

 刺すような冷気が、呼吸のたびに喉を白く凍らせていく。

 視界を埋め尽くすのは、荒れ狂う純白の吹雪と、天を突くように切り立った灰青色の岩肌だけだった。


(寒い……手足の感覚が、もうほとんどないや)


 ノア・エルディアンは、継ぎ接ぎだらけの薄手の外套を必死にかき合わせた。

 足元は、数年履き古して靴底の薄くなった革靴だった。

 一歩踏み出すごとに、凍てついた雪が容赦なく靴の隙間から侵入し、足先を麻痺させていく。

 首に巻きつけた粗末なマフラーだけが、辛うじて体温の残滓を留めていた。

 手にした麻袋には、わずかな干し肉の切れ端と、愛用の小さな調合匙、そして乾燥させた数株の『星霜草《せいそうそう》』が入っているだけだ。

 帝国を追放された罪人に許された私財は、それだけだった。

 オルディス帝国の国境を越え、竜人族が支配する霊峰へと続く『白氷峡谷』。

 人間が立ち入れば、屈強な冒険者であっても一夜で凍死すると恐れられる極寒の難所である。

 そこに、たった一人で放り出された。


「……諦めちゃ駄目だ。どこか、風を凌げる岩陰を見つけないと」


 紫に変色しかけた唇から漏れた声は、猛烈な風鳴りにかき消された。

 頭上を見上げても、重苦しい雪雲が垂れ込めているばかりで、太陽の光など一筋も届かない。

 意識を保つために、ノアはわざと唇を強く噛み、痛みを呼び起こした。

 口内に広がる微かな鉄の味が、まだ自分が生きていることを教えてくれる。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 痛む頭の片隅で、数日前の出来事が昨日のことのように鮮明に蘇る。

 ノアは、オルディス帝国の宮廷薬草園に仕える下級薬師だった。

 物心ついたときには孤児院の片隅におり、拾ってくれた老薬師から薬草の選別と調合の基礎を教わった。

 第二の性が発現した十五歳の冬、自分が『オメガ』であると判定された。

 だが、ノアの放つフェロモンは、通常のオメガとは比べものにならないほど希薄である。

 アルファを惹きつける甘い香りもなければ、発情期特有の強い熱気も帯びない。

 帝国は、厳格な階級社会とアルファ至上主義に支配された国である。

 強いフェロモンで優れたアルファの血統を残すことこそがオメガの存在価値だと信じる貴族たちにとって、香りの薄いノアは格好の嘲笑の標的だった。

 出来損ないの欠陥オメガ、男を誘う気すらない木偶の坊――そんな心無い陰口を浴びせられながらも、ノアは薬師の仕事を愛していた。

 雑用ばかりを押し付けられ、日の当たらない地下の調合室に追いやられても、薬草と向き合っている時間だけは孤独を忘れられた。

 帝国軍の兵士たちが演習で負った重い傷や、宮廷の侍女たちの原因不明の高熱。

 誰もが匙を投げた難症に対して、ノアは野草の根を丁寧に洗い、繊維を潰さないよう丹念に薬研を回して軟膏を練り上げた。

 ノアが作った薬は、不思議と他の高名な薬師の薬よりも早く傷を塞ぎ、痛みを鎮める。

 ノア自身は、下処理を徹底して薬草の純度を高めたからだと信じ込んでいた。

 だが、その実直さが仇となった。

 宮廷筆頭薬師であるジェラルド――権力欲の塊のような貴族出身のアルファが、ノアの調合した特効薬に目をつけた。

 ジェラルドはノアの調合日誌を強引に取り上げ、自らの名義で皇帝へ献上する。

 万能薬として絶賛を浴びたジェラルドにとって、真の調合者であるノアの存在は、いずれ己の不正を暴きかねない邪魔者に他ならない。


「貴様のような下賤な欠陥オメガが、宮廷の至宝たる霊薬草を横領していたとはな!」


 身に覚えのない罪状。

 ジェラルドの手によってノアの粗末な私室から『発見』された、高価な霊草の枯れ枝。

 誰もノアの弁明に耳を貸さなかった。

 香りの薄い平民のオメガなど、宮廷の誰もが使い捨ての虫けら程度にしか思っていなかったのだ。

 投獄され、形式ばかりの審問を受け、言い渡されたのは国外追放という名の緩慢な死刑宣告だった。


(誰も、信じてくれなかったな……)


 寒さで感覚を失った足が、尖った雪氷に躓く。

 受身も取れず、ノアは雪の斜面へ前のめりに倒れ込む。

 バサリと麻袋が手から離れ、純白の雪の上に数本の乾燥薬草が散らばった。

 冷たい雪が頬に触れ、熱を急速に奪っていく。

 起き上がろうと腕に力を込めたが、肘がガタガタと震えて身体を持ち上げることができない。

 視界が狭窄し、雪の白さが暗い灰色へと溶けていく。


(もう、いいのかな……)


 胸の奥に、ふっと温かい諦念が広がった。

 誰にも必要とされず、誰の役にも立てないまま、こんな見知らぬ雪山で凍りついていく。

 悲しいという感情すら、凍てつく冷気によって麻痺していくようだった。

 重いまぶたが、ゆっくりと落ちていく。

 そのときだった。

 雪を踏みしめる、重厚な足音が響いた。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 一人や二人ではない。

 金属の甲冑が擦れ合う微かな軋みと、巨大な獣の荒い鼻息が風を切り裂いて届く。


(幻覚……? それとも、雪山の魔獣……?)


 ノアは最後の気力を振り絞り、雪に埋もれた顔をわずかに持ち上げた。

 吹雪の向こうから現れたのは、銀色に輝く巨大な二頭の有翼の獣――竜馬が牽く、重厚な漆黒の車輌だった。

 車輌の周囲を固めているのは、毛皮のマントを羽織った屈強な戦士たち。

 その頭部には、人骨よりも硬いとされる見事な漆黒の角が生えていた。

 竜人族。

 大陸の北端、峻険なる霊峰に君臨する、人間を寄せ付けぬ孤高の支配者たち。

 車輌の扉が重々しく開き、一人の男が雪原へと降り立った。

 整えられた銀髪に、銀縁の眼鏡。

 仕立ての良い防寒外套を端正に着こなしたその男は、冷ややかな視線で倒れ伏すノアを見下ろしていた。

 男の背後から、二人の巨漢の兵士が素早く歩み寄り、ノアの前にひざまずく。


「……息はあります。凍傷寸前ですが、まだ間に合います」


 兵士の報告を聞き、眼鏡の男は淡々とうなずいた。

 男は雪の上に散らばった『星霜草』を一瞥し、それからノアの翡翠色の瞳をじっと見つめた。


「オルディス帝国の下級薬師、ノア・エルディアンだな」


 低く、落ち着いた理知的な声だった。

 猛吹雪の音を透き通るように、ノアの耳朶を打つ。


「な、ぜ……私の、名前を……」


 紫の唇を震わせ、ノアはかすれる声で問いかけた。

 なぜ、人間を嫌うはずの竜人族の貴官が、追放されたばかりの名もない薬師の名を知っているのか。

 男は懐から革張りの手帳を取り出し、機械的な仕草でそれを閉じると、ノアに向けて静かに告げた。


「我が主、竜王アグニヴ様の命により、貴殿を迎えに参った。私は竜王国宰相、ヴェルナーと申す」


「りゅう、おう……様……?」


「話は後だ。これ以上の寒風は、貴殿の脆弱な肉体には耐えられまい。――運べ」


 ヴェルナーの短い合図とともに、屈強な兵士の腕がノアの華奢な身体を軽々と抱き上げた。

 厚手の毛皮の毛布が何重にも巻きつけられ、雪山の冷気が遮断される。

 兵士の腕越しに伝わってくる竜人族の体温は、人間よりも明らかに高く、まるで熱い石のようだった。

 暖かい竜車の内部へと運び込まれた瞬間、甘やかな薬草の香りと、車内に焚かれた火鉢の熱気がノアを包み込んだ。

 凍りついていた手足に、じくじくと針で刺されるような融解の痛みが走る。

 生きている。

 自分は、助けられたのだ。

 だが、安堵の直後に、底知れぬ疑問と恐怖が胸を締めつけた。

 竜王国ドラグナー。

 強大な力を持つ君主、冷酷無比と恐れられる竜王アグニヴ。

 なぜ、帝国の片隅で無能と蔑まれ、捨てられただけの自分が、そんな雲の上の存在に名指しで呼ばれなければならないのか。


(私は……これから、どうなるんだろう……)


 毛布の中で小さく丸まりながら、ノアの視界は急速に暗転していった。

 ガタゴトと揺れる竜車の車輪の音だけが、遠ざかる意識の中で一定のリズムを刻んでいた。

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