第9話 もう一人の白石美月
玄関の向こうに、白石美月がいる。
そう思った。
だが。
黒い本には、こう書かれている。
『白石美月は、もう一人いる。』
「……どういう意味だよ」
恒一は、本を睨んだ。
少女は何も答えない。
ただ、玄関を見つめている。
ピンポーン。
またチャイムが鳴った。
「神谷さん」
玄関の向こうから、美月の声。
「聞こえていますか?」
恒一はスマートフォンを取り出した。
着信履歴。
そこには――
白石美月
さっきまで話していた番号が残っている。
恒一は、その番号へ電話をかけた。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
そして。
『もしもし?』
美月が出た。
「白石さん」
『はい』
「今、どこにいる?」
少し沈黙があった。
『……どこって?』
「僕の家の前にいる?」
『いいえ』
美月は即答した。
『私は今、図書館です』
恒一の喉が鳴った。
「……本当に?」
『どうしたんですか?』
「今、玄関にあなたがいる」
『……え?』
電話の向こうで、美月が息を呑む。
『それは……絶対に開けないでください』
同時に。
玄関の向こうから声がした。
「神谷さん」
同じ声。
同じ話し方。
「開けてください」
恒一はスマートフォンと玄関を交互に見た。
「白石さん……」
『はい』
「玄関の外にいる人も、あなたと同じ声だ」
電話の向こうで沈黙。
そして美月が、低い声で言った。
『それなら、たぶん……』
「何?」
『本が、私を二人にしたんです』
恒一の背中に冷たいものが走った。
「二人にした?」
『正確には……』
美月の声が震える。
『私の“記憶”と“存在”を分けたんだと思います』
「意味がわからない」
『本の中では、私はあなたを助ける人間です』
「……」
『でも、現実の私は、あなたを助けたことがない』
恒一は言葉を失った。
玄関の外から、再び声がする。
「神谷さん」
「……」
「私を信じてください」
電話の美月が叫んだ。
『絶対に開けないで!』
恒一は玄関から離れた。
その瞬間。
玄関のドアノブが回った。
ガチャ。
鍵は掛かっている。
ガチャ。
もう一度。
そして。
ガチャガチャガチャガチャ――。
「……!」
少女が恒一の腕を掴んだ。
「見ちゃダメ」
「何を?」
「ドアの隙間」
恒一は息を止めた。
ドアの下。
ほんの数ミリの隙間から。
何かが見えていた。
靴。
女性用の黒い靴。
その靴の横に。
もう一つ。
同じ黒い靴があった。
誰かが二人いる。
「……二人?」
恒一が呟いた瞬間。
玄関の外から、二つの声が重なった。
「神谷さん」
「神谷さん」
同じ声だった。
電話の美月が震える声で言う。
『……逃げて』
「どこへ?」
『本から離れて』
「どうやって?」
『その本を――』
そこで電話が切れた。
「白石さん?」
画面を見る。
通話終了。
圏外。
「……嘘だろ」
恒一は窓へ走った。
外を見る。
雨はまだ降っている。
だが。
道路の向こう側に人影が立っていた。
白石美月。
傘を差している。
彼女は恒一を見つめていた。
そして、スマートフォンを耳に当てている。
恒一のスマートフォンには、着信が入った。
表示は――
白石美月。
「……」
恐る恐る電話に出る。
『神谷さん』
「……あなたは、誰?」
『私は白石美月です』
「外にいるのも?」
『……はい』
「じゃあ、玄関にいるのは?」
電話の向こうで、美月が黙った。
数秒後。
『それも、私です』
恒一の心臓が跳ねた。
「……二人とも?」
『はい』
「どっちが本物なんだ?」
美月は答えなかった。
代わりに。
『神谷さん』
「何?」
『あなたの部屋にいる少女を、見てください』
恒一は振り返った。
少女がいない。
「……少女?」
『はい』
「どこにいる?」
『あなたの後ろです』
恒一は、ゆっくりと振り返った。
少女が立っていた。
しかし。
その顔を見た瞬間。
恒一は言葉を失った。
少女の顔が。
白石美月と同じだった。
「……美月?」
少女は悲しそうに笑った。
「やっと気づいたね」
恒一は後ずさった。
「君……美月なのか?」
「違う」
「じゃあ、誰なんだよ」
「私は――」
少女が言いかけた瞬間。
黒い本が勝手に閉じた。
バタン。
部屋が静まり返る。
次の瞬間。
表紙に文字が浮かび上がった。
『第四章 白石美月』
恒一は震える手で本を開いた。
ページの最初には、こう書かれていた。
『白石美月は三人いる。』
「……三人?」
さらに文字が増える。
『一人目は、現実の白石美月。』
『二人目は、本の中の白石美月。』
『三人目は――』
そこで文字が止まった。
恒一はページをめくった。
次のページ。
そこには。
幼い頃の恒一と少女の写真があった。
しかし。
今まで少女の顔だった場所だけが、黒く塗り潰されている。
その下に、幼い恒一の字で一文が書かれていた。
『僕は、この子を美月と呼ぶことにした。』
「……」
少女が泣いた。
「違う」
恒一は少女を見る。
「違うって……何が?」
「私の名前は、美月じゃない」
「じゃあ……」
少女はゆっくり顔を上げた。
「美月という名前を、あなたが私から奪ったの」
その瞬間。
恒一の脳裏に、忘れていた記憶が蘇った。
神社。
雨。
黒い本。
少女。
そして。
自分の幼い声。
『美月って名前なら、ずっと一緒にいられるよね?』
少女が笑っている。
『うん』
だが。
その記憶には続きがあった。
父親が走ってくる。
『恒一! その名前を書くな!』
幼い恒一が振り返る。
『どうして?』
父親は怯えた顔で叫んでいた。
『それを書いたら――』
そこで記憶が途切れる。
恒一は頭を押さえた。
「父さんは……何て言った?」
少女が答える。
「言ったよ」
「何を?」
「あなたは、私の名前を書くことで……」
少女の目から涙が落ちた。
「私を、この世界から消したんだって」
恒一の呼吸が止まった。
その直後。
黒い本の最後のページに、一行だけ文字が現れた。
『神谷恒一が、少女の名前を書いた日。』
そして。
その下に日付が浮かび上がった。
二十年前――。
恒一は、その日付を見つめた。
次の瞬間。
ページの端から、新しい文字が滲み出した。
『そして、その日。』
『神谷恒一は、一度死んでいる。』




