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『最後のページを読んだ人』  作者: こうた


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第8話 窓の向こうの父



 窓の外に、父が立っていた。


 三年前に死んだはずの父。


 神谷恒一は、息をすることさえ忘れていた。


「……父さん?」


 窓ガラスの向こう。


 雨に濡れた父親は、昔と何も変わらない顔で立っている。


 白髪の混じった髪。


 少し垂れた眉。


 そして、恒一が子供の頃から見慣れていた、あの不機嫌そうな目。


 だが。


 何かがおかしい。


 父親は、窓のすぐ外に立っている。


 それなのに――


 雨が、父の身体を濡らしていなかった。


「……違う」


 背後から少女の声がした。


 恒一が振り返る。


 少女は、父を見つめていた。


 さっきまでの余裕は消えている。


 小さな身体を震わせながら、少女は首を横に振った。


「お父さんじゃない」


「でも……あれは父さんだ」


「違う」


「じゃあ、誰なんだよ」


 少女は答えなかった。


 その代わり、窓から一歩後ずさった。


「恒一」


 窓の外から、父の声がした。


 懐かしい声だった。


 何度も聞いた声。


 叱られたとき。


 褒められたとき。


 最後に病室で聞いた声。


「……恒一」


 父親が、もう一度呼ぶ。


「その本を閉じろ」


 恒一の視線が、机の上へ向いた。


 黒い本。


 ページは開いたままだ。


 そして。


 新しい文字が浮かび上がっていた。


『神谷恒一は、窓の外にいる父親を見た。』


 恒一は息を呑んだ。


 だが、その下に続く文章を見て、さらに顔が青ざめた。


『しかし、彼が見ているものを、父親だと思ってはいけない。』


「……なんだよ、これ」


 文字が増えていく。


『父親は、死んでいる。』


『だから、ここにいるはずがない。』


『それでも、神谷恒一は父親を父親だと思っている。』


 恒一は本を閉じようとした。


 だが。


 手が止まった。


 最後の一文。


『なぜなら、彼自身が、そう書いたからだ。』


「……僕が?」


 少女が小さく呟いた。


「やっぱり……」


「何が?」


「恒一は、まだ思い出してない」


「何を?」


 少女は答えなかった。


 窓の外の父親が、突然笑った。


 それは恒一の記憶にある父の笑顔ではなかった。


 口だけが、不自然に横へ広がっている。


「恒一」


「……」


「少女の名前を思い出せ」


 恒一の身体が固まった。


 少女が叫んだ。


「ダメ!」


 同時に、部屋の照明が消えた。


 真っ暗になった。


「恒一!」


 少女の声。


「目を閉じて!」


 だが、その直後。


 耳元で父親の声がした。


「名前を思い出せ」


「……!」


 恒一は反射的に目を開いた。


 目の前に父親がいた。


 窓の外ではない。


 部屋の中。


 わずか数十センチ先。


「父さん……」


 父親は恒一を見つめている。


「思い出せ」


「何を……?」


「お前が、あの子につけた名前だ」


 恒一の頭の奥で、何かが弾けた。


 ――雨。


 ――神社。


 ――黒い本。


 ――少女。


 そして。


 自分の幼い声。


『名前、なんていうの?』


 少女が笑っている。


『まだないよ』


『じゃあ、僕がつける』


『本当に?』


『うん』


 記憶の中で。


 幼い恒一が少女の手を握っていた。


 そして、何かを言った。


 だが――


 そこだけが黒く塗り潰されている。


「……思い出せない」


 恒一が頭を押さえる。


「なんで……」


 父親が笑った。


「そうだ」


 その瞬間。


 部屋の電気が点いた。


 父親はいなくなっていた。


 窓も閉まっている。


 少女だけが、部屋の隅に立っていた。


 泣いていた。


「……どうして泣いてる?」


「あなたが……」


 少女は涙を拭った。


「あなたが、名前を思い出そうとしてるから」


「名前を思い出したら、何が起こる?」


 少女は答えない。


「教えてくれ」


「……言えない」


「どうして?」


「言ったら、私が消えるから」


 恒一は絶句した。


 少女はゆっくりと黒い本を指差した。


「この本は、名前を書いた人間を、物語の中に固定するの」


「固定……?」


「だから、私の名前は書かれてない」


 恒一が本を見る。


 ページには、いつの間にか新しい文章が増えていた。


『少女には名前がない。』


『正確には、名前が書かれていない。』


『名前を書けば、彼女は物語の登場人物になる。』


『名前を書かなければ、彼女はまだ現実に戻れる。』


 恒一は眉をひそめた。


「……現実に戻れる?」


 少女が黙り込む。


「君は……今、現実にいるんじゃないのか?」


 少女は答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 恒一は一歩近づいた。


「君は誰なんだ?」


「……」


「僕と昔、一緒にいたんだろ?」


「うん」


「じゃあ、僕は君を知ってる」


「うん」


「なのに、君の名前だけ思い出せない」


「……そう」


「どうして?」


 少女は悲しそうに笑った。


「あなたが、忘れたから」


「僕が?」


「違う」


 少女は首を横に振る。


「あなたが、自分で消したの」


 その瞬間。


 机の上の黒い本が、ひとりでに開いた。


 ページが激しくめくられていく。


 パラパラパラパラ――。


 そして、あるページで止まった。


 そこには一枚の古い写真が貼られていた。


 幼い恒一。


 その隣に立つ少女。


 そして二人の間にある、一冊の黒い本。


 写真の裏には、子供の文字で文章が書かれていた。


『この子の名前を忘れたら、僕が続きを書く。』


 恒一の指が震える。


「……これ、僕の字だ」


 少女が頷いた。


「そう」


「続きを書くって……何を?」


「あなたの人生」


「……」


「あなたが、自分の物語を書いたの」


 恒一は写真を見つめた。


 すると。


 写真の中の少女が、ゆっくりとこちらを向いた。


 写真の中なのに。


 少女の目が、恒一を見た。


 そして。


 写真の少女の口が動いた。


「思い出して」


 恒一は写真を落とした。


 黒い本のページに、最後の一文が浮かび上がる。


『神谷恒一は、少女の名前を思い出した。』


「……え?」


 恒一はページを凝視した。


「まだ……思い出してない」


 それなのに。


 文字は止まらなかった。


『少女の名前は――』


 そこで、文字が消えた。


 新しい文字が現れる。


『次のページを読めば、名前がわかる。』


 恒一はページをめくろうとした。


 だが。


 少女が叫んだ。


「読まないで!」


 その声と同時に。


 黒い本の次のページに、一文字だけが浮かび上がった。


 ――「美」。


 恒一の背筋が凍った。


「……美?」


 少女の顔から血の気が引いた。


「それ以上、読んじゃダメ」


「なんで?」


「その名前は……」


 少女が震える声で言った。


「私の名前じゃないから」


 そして。


 ページの中央に、もう一文字が浮かび上がった。


 ――「月」。


 美。


 月。


 恒一は呟いた。


「……美月?」


 少女が泣き出した。


 その瞬間。


 玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


 そして玄関の向こうから。


 聞き覚えのある女の声がした。


「神谷さん」


 白石美月だった。


「開けてください」


 恒一は動けなかった。


 少女は、震えながら首を横に振った。


「違う……」


 チャイムが、もう一度鳴る。


「神谷さん」


 白石美月の声。


「私です」


 そして黒い本のページに、最後の一文が浮かび上がった。


『白石美月は、もう一人いる。』

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