第7話 母が読んだ本
「……母さん?」
恒一は、ページに浮かび上がった名前を見つめた。
そこには確かに――
神谷真紀
母親の名前が書かれていた。
「どういうことだよ……」
少女は答えない。
ただ、三冊目の本を見つめている。
「おい」
恒一が少女に近づく。
「母さんが、この本を読んだのか?」
少女は小さく頷いた。
「……昔ね」
「いつ?」
「あなたが生まれる前」
恒一の表情が変わった。
「俺が生まれる前?」
「うん」
少女は本の表紙を撫でる。
「お母さんは、この本を見つけた」
「どこで?」
「ここ」
「ここって……?」
少女が床を指差した。
「この部屋」
恒一は周囲を見回した。
今住んでいるマンション。
当然、母親が住んでいたことなどない。
「あり得ないだろ」
少女は首を振る。
「今の部屋じゃない」
「じゃあ?」
「昔の家」
恒一の脳裏に、幼い頃の実家が浮かんだ。
木造の古い家。
庭。
縁側。
そして――
地下室。
「……地下室」
少女が頷く。
「お父さんが隠した場所」
恒一は息を呑んだ。
昨日、本に書かれていた。
神谷家の地下室。
だが、そんなものは存在しないと思っていた。
「じゃあ、母さんはそこで本を?」
「違う」
少女が言った。
「お母さんは、読むために地下へ行ったんじゃない」
「何をしに?」
「あなたを探しに」
恒一は眉を寄せた。
「俺を?」
「あなた、いなくなってたから」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
――雨。
――赤い鳥居。
――少女。
――黒い本。
そして。
泣いている母親。
『恒一……どこにいるの?』
記憶。
幼い自分が、家の中を走っている。
父親が叫んでいる。
『恒一を探せ!』
母親が泣いている。
そして地下室の扉。
「……俺は」
恒一は額を押さえた。
「昔、いなくなったことがある?」
少女は答えなかった。
代わりに三冊目の本が勝手に開く。
最初のページ。
> 『神谷真紀は、息子を探した。』
ページがめくれる。
> 『しかし、息子はどこにもいなかった。』
さらに。
> 『そこで彼女は、本を開いた。』
恒一はページを押さえた。
「待て」
だが本は止まらない。
> 『本には、一つだけ方法が書かれていた。』
> 『失った人間を取り戻す方法。』
恒一の呼吸が止まった。
「……俺を取り戻した?」
少女が呟く。
「そう」
「どうやって?」
少女は恒一を見る。
「別の人間を、代わりに消したの。」
「……誰を?」
少女は答えなかった。
その代わり。
スマートフォンが鳴った。
母親からだった。
恒一はすぐに電話に出る。
「母さん!」
『……恒一?』
声が震えている。
「今、どこにいる?」
『家よ』
「家って?」
『自分の家』
「違う。今どこ?」
沈黙。
そして母親が言った。
『……どうして?』
「この本を知ってるよね?」
長い沈黙。
『……誰から聞いたの?』
「少女から」
電話の向こうで、母親が息を呑んだ。
『……あの子がいるの?』
恒一は少女を見る。
「いる」
『……そう』
母親の声が、急に弱々しくなった。
『なら、もう遅いわ』
「何が?」
『恒一』
母親が言う。
『お願いだから、そこから出て』
「何で?」
『その本を持っているなら――』
母親の声が震える。
『あなたはもう、あなたじゃない。』
「……え?」
電話が切れた。
「母さん?」
かけ直す。
繋がらない。
恒一はスマートフォンを見つめた。
そのとき。
少女が言った。
「お母さんは、あなたを助けようとしてる」
「なら、何で俺が俺じゃないんだ?」
少女は答える。
「あなたが本当に取り戻された人間なのか――」
そこで言葉を止める。
「それとも、本の中で作られた人間なのか」
恒一は凍りついた。
「……何言ってるんだ?」
「覚えてない?」
「何を?」
少女が恒一の顔を覗き込む。
「あなたが小さい頃――」
「私と一緒に、この本を書いたこと」
恒一の記憶が揺れる。
黒い本。
白い紙。
幼い自分の手。
鉛筆。
少女。
そして――
一つの文章。
『主人公は、神谷恒一。』
「……俺が?」
少女が頷く。
「あなたが書いた」
「嘘だ」
「じゃあ、どうして」
少女は三冊目の本を指差した。
「あなたの人生が、この本に書かれているの?」
恒一は何も言えなかった。
本のページがめくれる。
今度は、恒一自身の幼少期。
学校。
友達。
父親。
母親。
誕生日。
卒業式。
就職。
すべてが書かれている。
しかし。
最後のページにだけ――
大きな空白があった。
少女が言う。
「ここから先は、まだ書かれてない」
「……未来だから?」
「違う」
少女は首を振った。
「あなたが、まだ最後まで読んでいないから。」
その瞬間。
玄関のチャイムが鳴った。
――ピンポーン。
恒一と少女が同時に振り返る。
まただ。
こんな時間に。
誰が来たのか。
恒一はドアに近づかない。
すると、ドアの向こうから声がした。
「恒一」
今度の声は――
母親だった。
「開けて」
恒一は動けない。
少女が小さく呟いた。
「……違う」
「え?」
「お母さんじゃない」
ドアの向こうから、もう一度。
「恒一」
「開けて」
少女は怯えた顔で本を閉じた。
「絶対に開けないで」
恒一は息を殺す。
すると、ドアの向こうの声が変わった。
母親の声から――
父親の声へ。
「恒一」
そして次に――
佐伯。
白石美月。
黒田。
知らない男。
知らない女。
次々と声が変わっていく。
最後に。
幼い頃の自分の声。
『開けてよ』
『僕だよ』
恒一は震えた。
その瞬間。
黒い本に新しい文字が浮かんだ。
> 『午前二時三十二分。』
> 『神谷恒一は、玄関のドアを開ける。』
恒一は本を睨んだ。
「……開けない」
そして初めて、自分から本に逆らうように言った。
「俺は、絶対に開けない」
少女が微笑んだ。
「そう」
「……何が?」
「やっと始まった」
「何が?」
少女は答えた。
「あなたが、自分の物語を書く番。」
その瞬間。
本の文章がすべて消えた。
白紙になったページ。
そして最後のページに――
たった一行だけ残った。
> 『神谷恒一は、初めて自分の意思で物語を拒否した。』
直後。
玄関の向こうから、完全な無音が訪れた。
誰もいない。
チャイムも鳴らない。
声もない。
恒一はゆっくり息を吐いた。
だが。
少女が言った。
「……違う」
「何が?」
少女は玄関ではなく――
窓を見ていた。
「来たのは、玄関じゃない」
恒一が窓を見る。
カーテンの向こう。
人影が立っている。
雨は降っていない。
なのに、その人物は全身ずぶ濡れだった。
そして窓ガラスに手を当てる。
恒一は、その顔を見て凍りついた。
そこに立っていたのは――
昨日、死んだはずの父親だった。




