第10話 二十年前の死
――神谷恒一は、一度死んでいる。
その一文から。
目を離せなかった。
「……僕が?」
少女は答えない。
黒い本だけが、静かにページを開いている。
『二十年前』
『神谷恒一、十四歳』
恒一は眉をひそめた。
「十四歳……?」
自分の記憶では。
二十年前の自分は、十四歳ではない。
計算が合わない。
「僕は……二十年前、何歳だった?」
考えようとした。
しかし。
思い出せない。
年齢だけではない。
二十年前の記憶そのものが、霧の中に沈んでいる。
「……おかしい」
恒一は呟いた。
「僕には、二十年前の記憶がない」
少女が言った。
「あるよ」
「え?」
「あなたは覚えてる」
「何を?」
「死んだ日のこと」
恒一の心臓が大きく鳴った。
「僕は死んでない」
「今はね」
「今は?」
「あなたは一度、死んでる」
少女は黒い本を見た。
「そして、お父さんがあなたを戻した」
「……どうやって?」
少女は答えず、本のページを指差した。
そこには、新しい文章が浮かび上がっていた。
『失った人間を取り戻す方法』
『必要なもの――』
その下に、三つの項目。
一つ目。
『本人の名前』
二つ目。
『本人の記憶』
三つ目。
『本人の代わりになる存在』
恒一の顔から血の気が引いた。
「……代わり?」
少女が頷く。
「だから、お母さんは言ったの」
「何を?」
「別の人間を、代わりに消したって」
恒一は思い出した。
母親の言葉。
泣きながら電話で言っていた。
『あなたを助けようとしたの』
『でも……別の人間を、代わりに消した』
「……誰なんだ」
少女は黙っている。
「誰が消えた?」
「それは――」
その瞬間。
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
恒一と少女が同時に玄関を見る。
「……また?」
ピンポーン。
「神谷さん」
女の声。
白石美月。
だが。
今度は一人ではない。
「神谷さん」
「開けてください」
「私たちは敵じゃありません」
二つの声。
まったく同じ声。
恒一は玄関へ近づいた。
「誰なんだ」
ドア越しに尋ねる。
「本物の美月はどっちだ?」
沈黙。
数秒後。
「……私です」
右側から声がした。
「違います」
左側から声。
「私が本物です」
「嘘です」
「あなたは本の中の存在でしょう?」
「あなたこそ偽物でしょう?」
二人の声が重なり始める。
やがて。
声の区別がつかなくなった。
「神谷さん」
「神谷さん」
「神谷さん」
「神谷さん」
「神谷さん」
恒一は耳を塞いだ。
「やめろ!」
その瞬間。
黒い本が、勢いよく閉じた。
――バンッ!
静寂。
玄関の声も消えた。
恒一が本を見る。
表紙に、新しい文字が浮かんでいた。
『三人目の白石美月は、まだ登場していない。』
「……まだ?」
少女が呟く。
「もう、始まったんだ」
「何が?」
「入れ替わり」
「入れ替わり?」
「物語の登場人物が、現実の人間と入れ替わるの」
恒一は凍りついた。
「じゃあ……」
自分の胸に手を当てる。
「僕は?」
少女は答えない。
「僕も……入れ替わってるのか?」
「……」
「僕は本物なのか?」
少女は悲しそうに目を伏せた。
「それを確認する方法がある」
「何?」
「あなたしか知らない記憶を探すの」
恒一は黙った。
「誰にも話していない記憶」
「そんなもの……」
「あるはず」
少女が近づく。
「あなたの人生の中で、一番古い記憶」
恒一は目を閉じた。
思い出そうとする。
最初の記憶。
母親。
父親。
家。
幼稚園。
断片的な記憶が浮かんでは消える。
そして。
一つだけ。
妙に鮮明な記憶があった。
暗い部屋。
白い天井。
誰かが泣いている。
『恒一……』
母親の声。
そして。
父親の声。
『もう一度だけ、やる』
何かを擦る音。
ページをめくる音。
そして――
『名前を書け』
恒一は目を開いた。
「……父さん」
「どうしたの?」
「僕の最初の記憶……」
少女が黙って見つめる。
「病院だった」
「……」
「母さんが泣いてた」
「……」
「父さんが、本を持ってた」
少女の顔が青ざめる。
「そして父さんが言った」
「何て?」
恒一は震える声で答えた。
「もう一度だけ、やるって」
少女が後ずさる。
「違う……」
「何が?」
「それは、あなたが生まれた日の記憶じゃない」
「……」
「あなたが……」
少女は唇を震わせた。
「二回目に生まれた日の記憶」
恒一の背後で。
何かが落ちた。
振り返る。
床に一枚の写真が落ちている。
さっきまでなかった写真。
恒一は拾い上げた。
病室。
ベッドの上に、幼い少年。
その横に母親。
そして父親。
だが。
少年の顔だけが黒く塗り潰されている。
写真の裏を見る。
文字が書いてあった。
『一回目――死亡』
『二回目――成功』
『三回目――現在』
恒一の指が止まった。
「……三回目?」
その下には。
父親の字で、短い文章があった。
『三回目が失敗した場合、次は別の人間を恒一として作る。』
恒一は息を呑んだ。
「僕が……三人目?」
少女が首を横に振る。
「違う」
「じゃあ誰が?」
「あなたは――」
少女が恒一を見つめる。
「三人目じゃない」
その瞬間。
黒い本のページが、勝手にめくられた。
一枚。
二枚。
三枚。
そして。
最後のページで止まった。
そこには。
今まで一度も書かれていなかった人物の名前があった。
『神谷恒一』
その下に。
『死亡者』
さらにその下に。
『本物の神谷恒一は、現在も本の中にいる。』
恒一は動けなかった。
少女が泣きながら言った。
「だから私は、あなたを探してた」
「……僕を?」
「うん」
「何のために?」
少女は答えた。
「あなたを、本の中から連れ戻すため」
そして。
玄関の向こうから。
父親の声がした。
「恒一」
恒一は振り返る。
ドアは閉まっている。
それなのに。
父親の声が、はっきり聞こえた。
「お前が今いる世界は――」
一拍。
「俺が作った」
黒い本に、新しい文字が浮かび上がった。
『次のページから、神谷恒一の視点が変わる。』
そして。
最後に一行。
『これまで「神谷恒一」だと思っていた人物が、誰なのかを確認してください。』




