第5話 父親が残したページ
午前一時を過ぎていた。
恒一は、机の前から動けずにいた。
目の前には二冊の黒い本。
どちらも同じ。
題名はない。
著者名もない。
違うのは――
片方にだけ、自分の人生が書かれていること。
そして、もう片方には。
まだ何も書かれていない。
「……父さん」
恒一は、床に落ちていた紙を拾った。
父親の筆跡。
三年前に亡くなった父が、
「この本を読むな」
と書き残している。
だが、それだけではなかった。
紙を裏返す。
裏面には、細かい文字がびっしりと書かれていた。
恒一は一行ずつ読む。
> 『この本には、読む人間によって違う物語が現れる。』
> 『最初に書かれるのは、その人間の過去。』
> 『次に現在。』
> 『そして最後に未来。』
恒一は眉を寄せた。
さらに読み進める。
> 『だが、本当に恐ろしいのは未来ではない。』
> 『過去が書き換わることだ。』
「……過去?」
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
パチン。
真っ暗になる。
「停電?」
恒一はスマートフォンのライトをつけた。
部屋を照らす。
異常はない。
ブレーカーも落ちていない。
それなのに――
机の上の本だけが、ぼんやりと白く浮かび上がっていた。
ページが開いている。
恒一は恐る恐る近づく。
そこには、さっきまで存在しなかった文章があった。
> 「神谷恒一は、父親の手紙を読んだ。」
「……またか」
ページをめくる。
> 「そして、幼い頃の記憶を思い出した。」
恒一の手が止まった。
幼い頃。
父親と一緒に山へ行った記憶。
小学校低学年の頃だった。
古い神社。
雨。
父に手を引かれて歩いた。
そして――
黒い本。
「……そんな記憶、あったか?」
頭の奥がズキッと痛んだ。
思い出せない。
なのに、映像だけが浮かぶ。
赤い鳥居。
濡れた石段。
父親の背中。
そして、自分の小さな手。
その手に――
黒い本が握られている。
「違う……」
恒一は頭を押さえた。
「俺は、こんな本……」
本のページに文字が増える。
> 「父親は、その本を恒一から取り上げた。」
記憶が変わる。
父が振り返る。
「恒一、それを返しなさい」
幼い自分が泣いている。
「嫌だ!」
「それは、お前が持っていいものじゃない」
「なんで?」
父親は答えない。
ただ、黒い本を燃やそうとしている。
炎。
煙。
そして――
「……燃えてない」
恒一は呟いた。
記憶の中で、炎に包まれた本は燃えていなかった。
ページだけが黒く焦げる。
そして父親が言った。
> 「これで終わった」
だが。
次の瞬間。
記憶が途切れる。
恒一は机に手をついた。
息が荒い。
「何なんだよ……」
本のページには続きがある。
> 「父親は嘘をついた。」
恒一は顔を上げた。
「嘘?」
> 「本は燃えていなかった。」
> 「父親は、別の場所へ隠した。」
恒一は立ち上がった。
「どこに?」
文字が浮かぶ。
> 「神谷家の地下室。」
「……地下室?」
そんなものは知らない。
実家には地下室などなかった。
父が亡くなってから、何度も実家へ行っている。
そんな部屋は見たことがない。
しかし。
本の次のページには、家の見取り図が描かれていた。
自分が育った家。
間取りまで正確だった。
そして、一階の床下。
赤い印。
「ここ」
恒一はスマートフォンを取り出した。
実家の住所を検索する。
父が亡くなった後、母が売却した家。
今は別の人間が住んでいる。
「……行くしかないのか」
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
知らない番号。
メッセージ。
> 『行かないでください。』
送り主は――
白石美月。
恒一は返信した。
『なぜ?』
すぐに既読。
しかし、返信はない。
代わりに写真が送られてきた。
古い神社。
雨に濡れた石段。
赤い鳥居。
そして――
その前に立つ、小さな男の子。
恒一だった。
「……俺?」
写真の裏側に、文字があった。
> 『あなたが本を拾った場所です。』
恒一は凍りついた。
「古本屋じゃ……ない」
最初に本を拾ったのは、黒猫堂。
そう思っていた。
だが違う。
本当の最初は――
幼い頃の神社だった。
そして写真の端。
小さな恒一の隣に、もう一人いる。
白い服を着た少女。
顔は見えない。
しかし、その少女が持っているものだけは、はっきり見える。
黒い本。
恒一のスマートフォンに、美月から最後のメッセージが届いた。
> 『その少女を思い出してはいけません。』
恒一は画面を見つめた。
なぜ美月は、その少女を知っている?
そして――
少女は誰なのか。
その答えを求めるように、本のページが勝手にめくられた。
次のページには、一行だけ。
> 「少女は、明日、恒一の前に現れる。」
そして、その下。
> 「彼女はこう言う。」
文章がゆっくり浮かび上がる。
> 『やっと、私のところまで読んできたね』
恒一は本を閉じた。
だが。
閉じた表紙の上に、新しい文字が浮かび上がった。
「あと十五話。」
恒一は息を呑んだ。
そんな表示は、さっきまでなかった。
そして、その数字がゆっくり変化する。
「あと十四話。」
「あと十三話。」
まるで――
誰かが、この物語を読んでいるように。




