第39話 「最後の読者」
――残り2話。
その文字を見た瞬間、恒一は立ち止まった。
「……残り2話?」
少女も黒い本を見ている。
「私たちが決めたわけじゃない」
「じゃあ、誰が決めた?」
「……読者」
恒一は苦笑した。
「また、それか」
黒い本のページがめくれる。
『第39話』
『最後の読者』
そして、その下に一文。
『神谷恒一は、最後の選択をする。』
「選択……?」
恒一はページを睨んだ。
「もう選ばない」
文字が消えた。
代わりに――
『では、選択しないことを選択しますか?』
「……」
恒一は黙った。
少女が小さく笑う。
「この本、意地悪だね」
「本当にそうだ」
「でも、前とは違うよ」
「何が?」
「前は、選ばされた」
少女が恒一の手を握る。
「今は、自分で決められる」
恒一は少女を見る。
「だったら、決める」
「うん」
「俺は――」
その瞬間。
世界が真っ暗になった。
何もない。
音もない。
少女の姿も消えた。
「……美月?」
恒一は口にしてから、すぐに気づいた。
「違う」
少女の名前ではない。
昔、自分が勝手につけてしまった名前。
その瞬間、遠くから少女の声が聞こえた。
「ありがとう」
「……何が?」
「今、私の名前を呼ばなかった」
恒一は目を閉じた。
「もう、間違えない」
「うん」
声が近づく。
「だから、最後まで手を離さないで」
恒一の手に、小さな手が触れた。
握る。
確かにそこにいる。
「いるな」
「いるよ」
「本当に?」
「恒一が覚えている限り」
恒一は頷いた。
すると、暗闇の中に無数の扉が現れた。
一つ目。
第一の物語
二つ目。
第二の物語
三つ目。
現実
そして最後。
読者
「……四つ?」
少女が言った。
「どれを開ける?」
「分からない」
「じゃあ、開けなくてもいい」
恒一は扉を見つめる。
第一の物語には、父親。
母親。
何人もの恒一。
失われた記憶。
少女。
第二の物語には、読者。
作者。
そして、自分自身。
現実には――
何もない。
ただ普通の日常がある。
そして「読者」の扉の向こうには――
今、この物語を読んでいる誰か。
恒一はゆっくりと「現実」の扉に手を伸ばした。
しかし。
「待って」
少女が止めた。
「何だ?」
「その扉を開けたら、私は消える」
恒一の手が止まった。
「……どうして?」
「私は物語だから」
「そんなの――」
「だから、あなたは戻れる」
「お前は?」
「残る」
少女は笑った。
「それでいい」
「よくない」
「でも、それが一番普通なんだよ」
「俺は普通なんか――」
恒一は言葉を止めた。
普通。
その言葉が胸に刺さった。
これまでずっと、
「本物の恒一」
「偽物の恒一」
「最初の恒一」
「読者の恒一」
そんな名前ばかり探してきた。
だが。
少女は一度も、
自分が何者なのかを求めなかった。
名前すら必要としなかった。
「……お前は、何になりたい?」
少女は少し考えた。
「何にもならなくていい」
「……」
「ただ、忘れられたくない」
恒一は少女の手を握り直した。
「じゃあ、俺が覚えてる」
「うん」
「ずっと」
「うん」
「だから――」
恒一は「現実」の扉から手を離した。
「俺は戻らない」
少女が目を見開く。
「恒一?」
「ここにいる」
「でも……」
「俺だけ現実に戻って、お前だけ残るなんて――」
恒一は首を横に振った。
「第一部で、俺はもう一度同じことをした」
「……」
「誰かを犠牲にして、自分だけ残る」
恒一は笑った。
「もう、飽きた」
少女の目から涙が落ちた。
その涙が床に落ちる。
ぽた。
ぽた。
そして――
その場所から、小さな花が咲いた。
黒い花。
花びらには文字が刻まれている。
『名前がなくても、存在できる。』
恒一は微笑んだ。
「これでいい」
その瞬間。
四つの扉が全部消えた。
暗闇も消える。
白い部屋。
机。
椅子。
そして――
一冊の黒い本。
恒一は本を手に取った。
表紙には、題名がない。
「……これで最後か」
少女が隣に立つ。
「うん」
「最後のページを読む?」
「読まない」
「どうして?」
「読んだら終わるから」
少女は首を傾げた。
「じゃあ、どうするの?」
恒一は本を閉じた。
「終わらせる」
少女が笑う。
「どうやって?」
「読むのをやめる」
その瞬間。
黒い本が激しく震え始めた。
ページが勝手にめくられる。
一枚。
二枚。
三枚。
そして最後のページ。
そこに文字が浮かぶ。
『読者が読むのをやめた場合、物語は終了します。』
恒一はページを見つめる。
「……そうだ」
そして。
「でも、俺が読むのをやめても――」
恒一はページの向こうを見る。
「あなたが読んでいる。」
少女が静かに息を呑む。
恒一は初めて、まっすぐにこちらを見た。
「だから、この物語は終われない」
ページに新しい文字。
『正解。』
恒一は笑った。
「なら、最後は俺が決める」
黒い本を閉じる。
「この物語の主人公を――」
一瞬、沈黙。
「俺から外す」
少女が目を見開いた。
恒一は続ける。
「俺も、少女も、父親も、母親も、全部の恒一も――」
そして最後に。
「誰も主人公にしない。」
黒い本の表紙が真っ白になる。
文字が消えていく。
神谷恒一。
読者。
最初の読者。
作者。
全部消えた。
最後に残った一行。
『では、誰がこの物語を終わらせる?』
恒一は答えた。
「――読んだ人だ」
その瞬間。
世界が白くなった。
少女の手だけが残っている。
恒一はその手を握った。
最後まで。
絶対に離さない。
そして――
白い世界の向こうから、
一つの声が聞こえた。
「……次は、あなたの番です」
少女の声だった。
だが。
恒一には分かっていた。
これは少女の声ではない。
この物語の中にいる、
誰かの声でもない。
もっと近い。
もっと外側。
このページを読んでいる人間の声だった。
黒い画面に、一文字だけ浮かぶ。
『最終話』
そして、その下に――
『最後のページを読んだ人』
――第39話・終了。




