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『最後のページを読んだ人』  作者: こうた


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最終話 「最後のページを読んだ人」



 ページをめくる音がした。


 ――一度だけ。


 恒一は目を開けた。


 そこには何もなかった。


 白い壁も。


 黒い本も。


 少女も。


 自分の姿さえも。


 ただ、文字だけが浮かんでいる。


『ここまで読んだ人へ。』


 恒一は、その文字を見つめた。


「……やっぱり、お前だったんだな」


 返事はない。


 しばらくして、新しい文字が現れた。


『誰のことですか?』


「読者だよ」


『あなたも読者です。』


「知ってる」


『あなたも作者です。』


「それも知ってる」


『では、あなたは何者ですか?』


 恒一は少し考えた。


 以前なら、必死になって答えを探していただろう。


 本物の神谷恒一なのか。


 偽物なのか。


 誰かの記憶なのか。


 誰かが書いた存在なのか。


 けれど――


 今は違った。


「神谷恒一」


 恒一は答えた。


「それでいい」


 文字が消えた。


 そして、新しい文章。


『名前を名乗った。』


『それでも、少女は消えなかった。』


 恒一は微笑んだ。


「……そうだな」


 振り返る。


 誰もいない。


 それでも、そこにいる気がした。


「なあ」


 恒一は暗闇に向かって話しかける。


「お前の名前は、聞かない」


 沈黙。


「でも、忘れない」


 少しだけ、


 風が吹いた。


 頬に冷たい感触。


 まるで雨の日の夜に戻ったようだった。


 そして――


 小さな足音。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 恒一は笑った。


「いるんだな」


「うん」


 少女の声。


「ここにいるよ」


 恒一は手を伸ばした。


 小さな手が、その手を握る。


「今度こそ、本当に終わるのかな」


「分からない」


「お前でも分からないのか?」


「うん」


 少女は少し笑った。


「だって、終わりを決めるのは私じゃないから」


「……読者か」


「うん」


 恒一は前を見る。


 そこには、一枚のページが浮かんでいる。


 最後のページ。


 しかし、まだ何も書かれていない。


「白紙か」


「そうだね」


「何を書けばいい?」


 少女は答えた。


「何も」


「……何も?」


「うん」


「それじゃ物語にならない」


「だからいいの」


 恒一はページを見つめた。


 これまでずっと、


 誰かが書いた文章に従ってきた。


 父親も。


 母親も。


 少女も。


 いくつもの自分も。


 そして――


 自分自身さえ。


 けれど最後のページだけは違う。


 誰も書いていない。


 誰も決めていない。


 だからこそ。


 初めて、本当に自由だった。


「……分かった」


 恒一はペンを置いた。


 書かない。


 選ばない。


 誰も犠牲にしない。


 誰かを主人公にも、悪役にも、読者にも固定しない。


 ただ――


 手を握る。


「これでいい」


 少女が頷く。


「うん」


 白紙のページが静かに閉じた。


 パタン。


 黒い本が消える。


 その瞬間。


 世界中から、ページをめくる音が消えた。


 父親の声も。


 母親の声も。


 いくつもの恒一の声も。


 白衣の男の声も。


 すべて消えていく。


 そして最後に――


「恒一」


「ん?」


「ありがとう」


「何が?」


「私を忘れなかったこと」


 恒一は少女の手を握った。


「忘れるわけないだろ」


 少女は笑った。


「じゃあね」


「……え?」


 握っていた手が、


 少しずつ離れていく。


「待て」


 恒一が強く握り直す。


「離すなって言っただろ」


「違うよ」


 少女が笑う。


「これは、私が離してるんじゃない」


 恒一の指の間から、


 少女の手が消えていく。


「私たちはもう――」


 少女の姿が光になる。


「物語じゃないから」


「……!」


「だから、どこにいても大丈夫」


 最後に少女の顔だけが残った。


「忘れないで」


「忘れない」


「名前は?」


「呼ばない」


「どうして?」


 恒一は笑った。


「お前は、お前だから」


 少女も笑った。


 そして消えた。


 完全な静寂。


 恒一は一人になった。


 ……と思った。


 しかし。


 目の前に、


 一枚のページが残っていた。


 そこに文字が浮かぶ。


『第一の物語――終了。』


『第二の物語――終了。』


『作者――不在。』


『主人公――不在。』


『最初の読者――不在。』


 そして最後。


『では、この物語を読んだ人は?』


 文字が消える。


 しばらく白紙。


 やがて――


 新しい一文が現れた。


『このページを読んだ人が、最後の読者です。』


 恒一は、その文章を見つめた。


 そして小さく笑った。


「……やっと終わった」


 ページが閉じる。


 完全な黒。


 何もない。


 ――しかし。


 ほんの数秒後。


 画面に一行だけ現れた。


『本当に?』


 恒一は答えなかった。


 もう、答える必要はない。


 なぜなら――


 この物語を書いている者も。


 この物語を読んでいる者も。


 物語の中にいる者も。


 すべて同じ場所にいるからだ。


 読む。


 読まれる。


 書く。


 その境界は、最初から存在しなかった。


 最後のページには、


 何も書かれていない。


 だからこそ、


 最後の一文だけは、


 誰にも書けない。


 ――読んだ人を除いて。


 そして。


 ページの一番下に、


 小さな文字が現れた。


『最後まで読んでくれて、ありがとう。』


 その下には――


『手を離さなかった人だけが、最後まで残る。』


 さらに、その下。


『物語は終了しました。』


 ――


 ――


 ――


 そして最後の最後。


 誰もいない黒い本の表紙に、


 ゆっくりと題名が浮かび上がった。


『最後のページを読んだ人』


 その本を、


 誰かが手に取った。


 ページを開く。


 一ページ目。


 そこには――


 こう書かれていた。


『雨の夜だった。』


 ――完。

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