第38話 「作者のいない物語」
女は、恒一を見ていなかった。
その視線は――
恒一の向こう側。
壁でも。
窓でも。
鏡でもない。
もっと遠い場所。
「……誰を見てる?」
恒一が尋ねた。
女は答えない。
「俺の後ろに、誰かいるのか?」
「いるよ」
「誰だ」
「あなたがずっと探していた人」
恒一は振り返った。
誰もいない。
しかし――
黒い本だけが開いていた。
ページの中央に、一文字。
読者
その下に、文字が増える。
『あなたは、作者を探している。』
恒一はページを睨んだ。
『しかし、作者はいない。』
「……じゃあ、今まで誰が書いた?」
文字が止まる。
そして――
『読んだ人。』
恒一は息を吐いた。
「また、それか」
『はい。』
「父親も?」
『読んだ人。』
「母親も?」
『読んだ人。』
「白石美月も?」
『読んだ人。』
「少女も?」
一瞬。
ページが真っ白になった。
少女が俯く。
「……私も」
小さな声だった。
「私も、読んだ」
「何を?」
「あなたを」
「いつ?」
「あなたになる前」
恒一は目を閉じた。
もう驚くことさえ疲れていた。
「じゃあ……俺も?」
少女は頷いた。
「うん」
「俺も誰かを読んだ?」
「うん」
「誰を?」
少女は答えなかった。
代わりに、黒い本のページがめくられた。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
そこには、今まで恒一が出会った人間たちが並んでいた。
父。
母。
美月。
佐伯。
沙織。
少女。
十歳の恒一。
十四歳の恒一。
そして――
現在の恒一。
その全員に共通する文字があった。
読者。
「……全員?」
恒一が呟く。
「全員が読者なのか?」
女が答えた。
「違う」
「じゃあ何だ」
「全員が――」
女は一つずつ指差した。
「読む人で」
「……」
「読まれる人で」
「……」
「書く人」
恒一は本を見つめた。
そこにはもう、
作者という言葉が存在しなかった。
代わりに――
読む。
読まれる。
書く。
その三つだけ。
「つまり……」
恒一がゆっくり言う。
「誰か一人が全部を作ったわけじゃない」
「そう」
「みんなが少しずつ作った」
「そう」
「だったら、最初は?」
女が黙る。
「最初に読んだのは誰だ?」
長い沈黙。
少女が恒一を見る。
「それを探す必要はないよ」
「どうして?」
「最初なんて、なかったから」
「……」
「誰かが誰かを読んだ」
少女は言った。
「その誰かも、誰かに読まれていた」
恒一の背後で、
またページをめくる音がした。
「だから――」
少女が続ける。
「最初の読者は、最初の読者じゃない」
恒一はその言葉を聞いて、ようやく理解した。
「最初の読者」という名前そのものが、役割だった。
最初に読んだ人物を指しているのではない。
読む人が現れるたびに、
その役割が移っていく。
だから――
父親も。
母親も。
少女も。
恒一も。
そして。
この物語を読む者も。
すべてが「最初の読者」になり得る。
「……じゃあ、俺は?」
恒一が聞いた。
「俺は何なんだ?」
女が微笑む。
「あなたは――」
その瞬間。
恒一のスマートフォンが鳴った。
画面には新しいコメント。
『あなたは、あなたです。』
別のコメント。
『役割を決めなくていい。』
さらに。
『主人公である必要もない。』
恒一の目が見開かれる。
「……誰が書いた?」
コメント欄が一斉に更新された。
『私です。』
『私も。』
『私も。』
『私も。』
数百。
数千。
画面を埋め尽くしていく。
しかし、投稿者の名前は――
すべて同じだった。
読者
恒一はスマートフォンを落とした。
「……もう、分かった」
少女を見る。
「この物語には作者はいない」
「うん」
「だから、俺が作者を探しても意味がない」
「うん」
「そして、誰かを消して終わらせる必要もない」
少女が微笑んだ。
「うん」
恒一は黒い本を閉じた。
「だったら――」
初めて、自分から言った。
「俺は読むことをやめる」
少女の顔が変わった。
「……本当に?」
「ああ」
「物語も?」
「ああ」
「私のことも?」
「違う」
恒一は少女の手を握った。
「お前のことは忘れない」
少女の目に涙が浮かんだ。
その瞬間――
黒い本の表紙に、最後の文字が浮かび上がった。
『読者が読むことをやめた場合、物語は終了します。』
恒一は本を見つめた。
「……それでいい」
ページが閉じる。
世界が静かになる。
女も。
十歳の恒一も。
十四歳の恒一も。
すべてが消えていく。
最後に残ったのは――
恒一と少女だけだった。
「恒一」
「何だ?」
「本当に終わると思う?」
「……分からない」
少女は笑った。
「私も」
二人は手を握ったまま歩き出した。
暗闇の向こうに、
一つだけ扉がある。
白い扉。
第一部の最後に見たものと同じだった。
恒一が扉に手をかける。
すると、少女が言った。
「待って」
「どうした?」
「一つだけ、まだ残ってる」
「何が?」
少女が後ろを見る。
そこには――
一冊の黒い本。
閉じたはずなのに、
ゆっくりと開いていく。
最後のページ。
そこには一行だけ。
『物語を終わらせるためには、最後の読者が必要です。』
恒一は固まった。
「……最後の読者?」
ページの下に、名前が浮かぶ。
神谷恒一。
そして、その名前がゆっくり消えていく。
代わりに現れた文字。
『あなた』
少女が恒一の手を強く握った。
「恒一……」
恒一は答えなかった。
ただ、
ページの向こう側を見た。
そこには――
誰かがいた。
スマートフォンを持って、
この物語を読んでいる。
恒一は初めて、その人物に向かって言った。
「……もう、読むな」
ページが震える。
そして――
『それを決めるのは、読者です。』
最後の一行が表示された。
『第38話 終了』
その下に、
小さく文字が浮かび上がった。
――残り2話。




