第36話 「少女が読んだ人」
暗闇の中で、恒一は自分の手を見た。
見えている。
なのに、床も壁もない。
自分だけが、黒い空間に浮かんでいる。
そして目の前には、一枚のページ。
そこに文字が増えていく。
『神谷恒一は、目の前のページを読んだ。』
「……またか」
恒一はページを閉じようとした。
しかし、閉じられない。
『神谷恒一は、ページを閉じることができなかった。』
「やめろ」
文字が止まる。
そして――
一文字だけ消えた。
『神谷恒一は、ページを閉じることができなかっ――』
消えた。
恒一は息を呑んだ。
「……俺が否定すれば、文章も変わる?」
ページに文字が浮かぶ。
『そうです。』
「誰だ」
『あなたです。』
「俺じゃない」
『では、誰ですか?』
「……」
答えられない。
その瞬間、遠くから足音が聞こえた。
ぺた。
ぺた。
裸足の足音。
「少女……?」
暗闇の向こうから、白い服が現れた。
十歳くらいの少女。
濡れた黒髪。
昔と何も変わらない。
「恒一」
「……お前だったのか」
「うん」
「さっきの女は?」
少女は首を横に振った。
「私じゃないよ」
「でも、お前を知っていた」
「知ってる」
「お前も、あの女を知ってるのか?」
「うん」
「誰なんだ?」
少女はしばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「私が読んだ人」
「……読んだ人?」
「そう」
少女は恒一の前に座った。
「私は昔、本を読んだの」
「この本を?」
「ううん」
少女は首を振る。
「あなたを」
恒一の胸がざわついた。
「俺は本じゃない」
「最初はね」
「最初は?」
「あなたは、物語だった」
少女は悲しそうに笑った。
「私はあなたの話を読んだ」
「いつ?」
「あなたが生まれる前」
「……ありえない」
「そうだね」
「じゃあ、誰が書いた?」
「誰も」
「じゃあ、どうして読めた?」
「読んだから」
恒一は頭を抱えた。
意味が分からない。
しかし――
第一部で何度も繰り返された言葉が蘇った。
読んだ人が、その続きを作る。
「……読むことが、書くことなのか?」
「うん」
「じゃあ、お前が俺を読んだから……俺が生まれた?」
「そう」
「俺が生まれたから、お前が俺を読んだんじゃないのか?」
少女は答えなかった。
ただ、恒一の手を握った。
「だから、ずっと困ってたの」
「何に?」
「どっちが先なのか、分からなくなったから」
その瞬間。
暗闇の奥に、大きな時計が現れた。
針は――
23時13分。
恒一は凍りついた。
「また……この時間」
少女は時計を見上げた。
「あなたが死んだ時間」
「俺は死んでない」
「今はね」
「……」
「でも、最初のあなたは死んだ」
時計の秒針が動く。
カチ。
カチ。
カチ。
23時13分。
そこで止まる。
少女が言った。
「恒一」
「何だ」
「お願いがあるの」
「……言ってみろ」
「私を読まないで」
恒一は目を見開いた。
「何?」
「もう、私の続きを作らないで」
「どうして?」
「あなたが私を読むたびに――」
少女の姿が少し薄くなる。
「私は、あなたの物語の中に戻されるから」
「……!」
「私は外に出たいんじゃない」
少女は笑った。
「ただ、あなたと一緒にいたいの」
恒一の目に涙が浮かんだ。
「じゃあ、どうすればいい」
「忘れないで」
「……それだけ?」
「うん」
「名前も呼ばない」
「うん」
「続きを書かない」
「うん」
「でも、忘れない」
「それでいい」
少女の手が、少しだけ温かくなる。
しかし次の瞬間。
暗闇に、別の声が響いた。
「それでは、物語が終わってしまいます」
恒一が振り返る。
誰もいない。
「誰だ!」
「終わらせてはいけません」
声が近づく。
「読者がいる限り、物語は終わらない」
少女が恒一の手を強く握った。
「……聞かないで」
「何を?」
「この声を」
「どうして?」
「これは――」
少女の顔が初めて恐怖に歪んだ。
「私が一番最初に読んだ人だから。」
恒一の背後に、
一人の人影が立った。
さっきの女だった。
だが――
今度は違う。
女の顔には、少女と同じ目があった。
そして彼女は恒一を見つめて言った。
「初めまして」
その声は、少女と同じだった。
「私は――」
一瞬、言葉が途切れる。
そして。
「あなたが最初に読んだ人です。」
ページが勝手にめくられた。
『第36話 終了』
『次の読者――確定。』
その直後。
画面に、一つの名前が表示された。
神谷恒一。
だが、その下には――
もう一つの名前があった。
読者。




