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『最後のページを読んだ人』  作者: こうた


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第35話 「初めまして」


 白い手が、恒一の手首を掴んでいた。


 冷たい。


 人間の手とは思えないほど、体温がなかった。


「離せ……」


 恒一が腕を振る。


 だが、白い指はびくともしない。


 手の甲に書かれている。


 ――最初の読者。


「お前は……誰だ」


 恒一が問いかけた。


 女は、ゆっくり顔を上げた。


 三十歳くらい。


 濡れたような黒髪。


 白い肌。


 そして――


 恒一は息を止めた。


 その目を、知っていた。


「……その目」


 女は少しだけ笑った。


「やっと気づいた?」


「何を……」


「私を」


 女が一歩近づく。


「初めまして。私は――」


 そこで、恒一のスマートフォンが震えた。


 画面が勝手に点灯する。


 文字が一行だけ表示された。


 ――名前を言ってはいけない。


「……!」


 恒一は女の口元を見る。


 名前を言おうとしている。


 だが、声が出る直前。


 少女の声がした。


「恒一!」


 振り返る。


 誰もいない。


 しかし、床には小さな裸足の足跡があった。


 濡れている。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 その足跡は女のところまで続いていた。


 そして――


 女の足元で消えている。


「まさか……」


 恒一が呟く。


 女は首を横に振った。


「違う」


「何が違う?」


「私は、あの子じゃない」


 女は自分の胸に手を当てた。


「でも、あの子が読んだものではある」


 恒一の背筋に寒気が走った。


「……読んだ?」


「そう」


 女は微笑んだ。


「あなたを」


 恒一は後ずさった。


「俺を……?」


「何度も」


「何度もって……」


「あなたが死ぬ話も」


「……」


「あなたが生まれる話も」


「……やめろ」


「あなたが少女の名前を奪う話も」


 恒一の喉が詰まった。


「やめろ!」


 叫んだ。


 すると女の顔から笑みが消えた。


「だから、私はあなたを責めない」


「……え?」


「あの子も、あなたを責めていない」


 女は床を見る。


 そこには、さっきまでなかった一冊の黒い本が置かれていた。


 表紙には題名がない。


 恒一は動けなかった。


「それを開いたら……」


 女が言った。


「また、あなたは私を読む」


「読んだらどうなる?」


「今度は逆」


 女が恒一を見る。


「あなたが、私に読まれる」


 黒い本が、ひとりでに開いた。


 一ページ目。


 文字が浮かび上がる。


『神谷恒一は、目の前の女を見ていた。』


 二ページ目。


『彼女は、神谷恒一を知っていた。』


 三ページ目。


『しかし、彼女の名前を、神谷恒一は知らなかった。』


 恒一はページをめくった。


 そこには――


 写真が貼られていた。


 幼い恒一。


 少女。


 母。


 父。


 そして。


 この女。


「……いつの写真だ」


「二十年前」


「嘘だ」


 女は答えなかった。


 写真の裏側に文字がある。


 恒一が裏返す。


『手を離さなかった人だけが、最後まで残る。』


 恒一の指が震えた。


「この言葉……」


「知ってるでしょう?」


「ああ」


「じゃあ、次も知ってる?」


 女が手を差し出した。


 白い手。


 その手の甲には、まだ――


 最初の読者


 と書かれている。


「最初の読者は、最初に本を読んだ人じゃない」


「……じゃあ何なんだ」


「最初に――」


 女が言葉を止める。


 そして、恒一の手を握った。


「誰かを物語として読んだ人」


 その瞬間。


 恒一の目の前の景色が消えた。


 黒。


 完全な暗闇。


 どこからか、ページをめくる音がする。


 一枚。


 また一枚。


 そして最後に――


 少女の声。


「恒一」


「……ここにいる」


「今度は忘れないで」


「何を?」


 少しの沈黙。


「私が、あなたを最初に読んだこと」


 恒一は息を呑んだ。


 暗闇の中で、誰かが笑った。


 その声は――


 恒一自身の声だった。


「違うよ」


「……?」


「最初に俺を読んだのは――」


 声が続く。


「あなたです。」


 恒一は、初めて気づいた。


 この物語には、


 読者が一人しかいないと思っていた。


 だが違った。


 読者は、最初から二人いた。


 一人は――恒一。


 そしてもう一人は――


 今、この物語を読んでいる誰か。


 黒いページに、最後の一文が浮かび上がった。


『第二の物語・第35話』


『読者は、まだ交代していない。』


 そして、その下に――


『次に読まれるのは、誰?』

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