第34話 読まれる側
画面には、二つのボタンがあった。
[読む]
[読まれる]
恒一は、しばらく指を動かさなかった。
どちらも押してはいけない。
そんな直感があった。
第一部で学んだ。
選択肢は、選択肢そのものが罠になる。
「……また選ばせるのか」
恒一が呟く。
すると。
画面に文字が浮かんだ。
«『いいえ。』»
«『今回は、選択ではありません。』»
恒一は眉をひそめる。
「じゃあ何だ?」
«『確認です。』»
「何の?」
しばらく画面は沈黙した。
そして――
«『あなたは、今まで誰かの物語を読んできました。』»
«『では――』»
«『誰かに読まれることを、受け入れますか?』»
恒一の指先が冷たくなった。
「……断ったら?」
«『何も起こりません。』»
「本当に?」
«『はい。』»
「……」
その答えが、一番怖かった。
何も起こらない。
そんな選択肢が、この物語にあったことなど一度もない。
恒一は画面を閉じようとした。
その瞬間。
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
恒一の身体が固まる。
まただ。
第一部と同じ。
しかし。
今回は違った。
チャイムの音の直後。
スマートフォンに文字が出た。
«『今、玄関の前に誰かいます。』»
恒一は玄関を見る。
「……誰だ?」
«『あなたが知っている人です。』»
「誰?」
«『あなたが忘れた人。』»
恒一は立ち上がった。
ゆっくり玄関へ向かう。
途中で。
床に何かが落ちていることに気づいた。
鉛筆。
黒い鉛筆だった。
「……」
拾い上げる。
見覚えがある。
第一部。
父親が持っていた鉛筆。
だが。
一本だけではない。
床には。
何本も落ちている。
十本。
二十本。
その先。
玄関まで。
まるで。
誰かが歩きながら落としていったように。
恒一は息を呑んだ。
「……誰が来た?」
答えはない。
ドアの向こうから。
小さな声。
「恒一」
少女。
「……君?」
「開けないで」
恒一の手が止まる。
「どうして?」
「今度の私は――」
声が震えた。
「あなたが知っている私じゃないから」
「……」
「だから、開けないで」
恒一はドアノブから手を離した。
「じゃあ、誰なんだ?」
少女は答えない。
代わりに。
別の声がした。
「開けていいよ」
男の声。
恒一自身の声。
「……」
そして。
さらに別の声。
十歳の少年。
「開けて」
最後に。
もう一人の恒一。
「開けるな」
四つの声。
同時に。
「開けて」
「開けないで」
「読んで」
「読むな」
恒一は頭を抱えた。
「やめろ!」
その瞬間。
すべての声が消えた。
静寂。
そして。
ドアの向こうから。
一人の声だけが聞こえた。
老人の声。
「……恒一」
恒一は顔を上げる。
その声を知っている。
「……黒田さん?」
黒猫堂の店主。
黒田恒一郎。
死んだという話はなかった。
だが。
第一部の最後。
黒猫堂そのものが消えていた。
「どうして……」
ドアの向こう。
黒田は言った。
「本を返してもらいに来た」
恒一の心臓が跳ねる。
「本はもうない」
「あるよ」
「どこに?」
黒田は笑った。
「君の中」
恒一は息を呑んだ。
スマートフォンの画面に。
新しい文章。
«『神谷恒一は、自分の中にある本を探した。』»
「……やめろ」
«『しかし、本は見つからなかった。』»
「……」
«『なぜなら、本は記憶だから。』»
恒一の頭の中に。
雨が降る。
黒猫堂。
古い棚。
少女。
父親。
母親。
三人の子供。
何度も繰り返したページ。
そして。
ある一つの記憶。
それまで。
完全に忘れていた。
雨の日。
黒猫堂に入る前。
自分は――
誰かと話していた。
「……」
相手の顔が見えない。
でも。
声だけは聞こえる。
幼い自分が言っている。
「本当にこれ、読んでいいの?」
誰かが答える。
「うん」
「怖くない?」
「怖いよ」
「じゃあ、どうして読むの?」
少しの沈黙。
そして。
その人物が言った。
「読まないと、あなたが生まれないから。」
恒一の呼吸が止まった。
「……」
そんな記憶は知らない。
絶対に。
だが。
確かに自分の記憶だった。
「誰だ……」
画面に文字。
«『思い出した?』»
「……お前か?」
«『違う。』»
「じゃあ誰だ!」
«『あなたが最初に読んだ人。』»
恒一は凍りついた。
「……最初に?」
«『そう。』»
画面に名前が表示される。
一文字ずつ。
神
次。
谷
次。
恒
次。
一
恒一は目を見開いた。
「……俺?」
画面に。
«『そうです。』»
«『あなたが最初に読んだ人は、神谷恒一です。』»
「意味が分からない」
«『あなたが生まれる前に。』»
«『あなた自身を読んだ。』»
恒一は後退した。
「……俺が俺を?」
«『はい。』»
«『だから、あなたは生まれた。』»
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
スマートフォンの画面だけが光っている。
画面には。
最後の一文。
«『神谷恒一は、自分自身を読むために生まれた。』»
恒一は震える手で画面を見た。
その下に。
新しいボタンが出現する。
[読む]
[読まれる]
しかし。
今回は違った。
二つのボタンの間に。
第三の選択肢がある。
«[両方]»
恒一は息を呑む。
そして。
玄関の向こうから。
少女の声が聞こえた。
「恒一」
「……」
「お願い」
「何?」
「今度こそ――」
少しだけ。
泣いているような声。
「私を、読んで」
恒一はドアを見る。
その瞬間。
ドアの隙間から。
一枚の紙が滑り込んできた。
恒一は拾う。
紙には。
一行だけ。
«『少女は、あなたが初めて読んだ登場人物です。』»
恒一は息を呑む。
しかし。
その下には。
さらに一行。
«『そして――』»
文字が滲む。
ゆっくり。
ゆっくり。
新しい文字が浮かんだ。
«『あなたは、少女が初めて読んだ人間です。』»
恒一の目が見開かれる。
ドアの向こうで。
少女が囁く。
「だから――」
「今度は、私があなたを読むね」
ドアノブが回った。
カチャ。
そして。
初めて。
鍵が――
内側からではなく、外側から開いた。
ドアが少しだけ開く。
その隙間から。
白い手が伸びてきた。
恒一の手を掴む。
冷たい手。
しかし。
どこか懐かしい。
恒一は、その手を見た。
小さな傷。
鉛筆の跡。
そして――
手の甲に。
黒い文字が書かれていた。
«『最初の読者』»
恒一は、その文字を見た瞬間。
理解した。
今まで探していた「最初の読者」は――
本を最初に読んだ人間ではない。
物語を最初に読んだ人間でもない。
誰かを最初に「登場人物」として読んだ人間。
そして。
その人物は――
自分の目の前にいる。
恒一は顔を上げる。
ドアの向こう。
そこに立っていたのは。
少女ではなかった。
黒猫堂でも。
黒田でも。
父親でも。
もう一人の恒一でもない。
見知らぬ女性だった。
年齢は――
三十歳前後。
女性は恒一を見つめ。
静かに微笑んだ。
「初めまして」
恒一は言葉を失う。
女性は続けた。
「私は――」
その瞬間。
スマートフォンの画面が真っ黒になった。
そして。
一行だけ。
«『第二の物語は、ここから始まる。』»
第二部 第34話 終




