第33話 最初に読んだ人
ドアノブが――
ゆっくり回った。
カチャ。
恒一は息を止めた。
開く。
そう思った。
だが。
ドアは開かなかった。
内側から鍵をかけている。
当たり前のことだった。
なのに。
ドアの向こうにいる何者かは、確かにノブを回した。
「……誰だ」
恒一は声を絞り出した。
返事はない。
もう一度。
カチャ。
今度は、さっきよりゆっくり。
まるで――
こちらの反応を確かめているようだった。
「答えろ」
沈黙。
やがて。
ドアの向こうから声がした。
「開けなくていいよ」
恒一は眉をひそめた。
「……」
「今日は、顔を見せに来ただけだから」
「誰なんだ」
「さっき言っただろ」
少し笑う声。
「君を最初に読んだ人」
恒一はドアから離れた。
「俺を?」
「そう」
「いつ?」
「ずっと前」
「二十年前か?」
沈黙。
「もっと前」
恒一は眉をひそめる。
「俺が生まれる前?」
「そうなるね」
背筋が寒くなる。
「……意味が分からない」
「分からなくていい」
声が静かになる。
「まだ、読んでいる途中だから」
恒一はスマートフォンを見る。
割れた画面。
それでも。
小説サイトは表示されていた。
アクセス数。
105。
その数字の横に。
小さな文字。
«『読書中』»
恒一の指が止まる。
「……誰が読んでる?」
返事。
«『あなた。』»
「俺じゃない」
«『では、誰?』»
恒一は画面を見つめた。
その瞬間。
新しいコメントが表示された。
«「私です」»
投稿者名。
最初の読者。
恒一の心臓が跳ねる。
「……」
もう一つ。
«「あなたが初めてこの物語を読んだ夜を覚えています」»
恒一は息を呑む。
初めて。
黒猫堂。
雨。
午後十一時十三分。
五百円。
黒い本。
しかし。
一つだけ。
記憶と違う。
あの夜。
恒一はずっと、
一人だったと思っていた。
けれど。
第一部の途中で分かった。
自分の隣に――
誰かがいた。
小さな手。
温かい手。
ずっと握っていた手。
「……」
恒一は呟く。
「お前だったのか?」
コメント。
«「違います」»
「……」
«「私は、その人ではありません」»
恒一の背中に冷たいものが走った。
「じゃあ、誰なんだ」
しばらく。
返事はなかった。
そして。
画面に一文字ずつ。
«「最初に、あなたを読んだ人」»
恒一は考える。
「俺が生まれる前から?」
«「はい」»
「どうやって?」
«「あなたが生まれる前の物語を読んだから」»
「そんなもの――」
言葉が止まる。
記憶が蘇る。
父親。
古い資料。
20年前。
さらにそれより前。
父親が残していた言葉。
『この本を読んだ者は、次の読者を作る』
恒一は呟く。
「……読者は、読者を作る?」
コメント。
«「そうです」»
「じゃあ、最初の読者は?」
画面が止まった。
数秒。
十秒。
そして。
«『存在しません。』»
「……何?」
«『最初の読者という存在は、矛盾しています。』»
恒一は画面を睨む。
«『誰かが最初に読まなければ物語は始まりません。』»
«『しかし、その人間を最初の読者と呼ぶためには、すでに物語が存在していなければならない。』»
恒一の呼吸が浅くなる。
«『つまり――』»
文字が現れる。
«『最初の読者は、物語より後に生まれます。』»
恒一は理解できなかった。
「……後に?」
«『はい。』»
«『物語が先です。』»
«『読者は、その後です。』»
「じゃあ、その物語を書いたのは誰だ?」
画面に。
一行。
«『読者です。』»
恒一は頭を抱えた。
「……おかしい」
«『何が?』»
「全部だ」
恒一は画面に向かって言った。
「作者が先なのか、読者が先なのか、物語が先なのか……」
「全部が原因になってる」
画面が暗くなる。
そして。
少女の声がした。
「だから、終わらないんだよ」
恒一が振り返る。
「……」
部屋の入口。
誰もいない。
しかし。
声だけがする。
「作者が読者になって」
「……」
「読者が主人公になって」
「……」
「主人公が作者になって」
恒一の身体が震える。
「……」
「また新しい読者が生まれる」
恒一は目を閉じた。
「……じゃあ」
「うん」
「俺は誰なんだ?」
少女は答えた。
「あなたは――」
少しだけ笑う。
「最初に読まれた人。」
恒一は目を開いた。
「……最初に?」
「そう」
「誰に?」
「それを思い出したら――」
声が止まった。
恒一は待つ。
「……」
少女は続けた。
「あなたは、自分が誰なのか分からなくなる」
「もう十分分からなくなってる」
「まだ足りないよ」
その言葉と同時に。
部屋の壁に。
黒い文字が浮かんだ。
«『神谷恒一は、誰かに読まれた。』»
恒一は壁を見る。
文字が増える。
«『しかし、まだ彼は生まれていない。』»
「……?」
次の一行。
«『彼が生まれる二十年前。』»
さらに。
«『最初のページが書かれた。』»
恒一の心臓が跳ねる。
そこに。
日付が浮かぶ。
1986年9月8日。
「……1986?」
恒一が呟く。
その年。
自分は生まれていない。
父親もまだ若い。
母親も。
少女も。
誰も――
この物語を知っているはずがない。
しかし。
壁に。
一枚の古い写真が浮かんだ。
白黒写真。
机。
黒い本。
そして。
椅子に座っている一人の少年。
恒一は写真を見た。
少年の顔。
見覚えがある。
「……」
十歳の少年。
十四歳の少年。
三十四歳の自分。
そのどれでもない。
けれど。
間違いなく――
神谷恒一の顔だった。
「……こいつは誰だ?」
少女が答える。
「あなた」
「違う」
「ううん」
「俺じゃない」
「そうだね」
少女の声が少し悲しくなる。
「あなたじゃない」
そして。
一言。
「あなたになる前の、あなた。」
写真の少年が。
こちらを向いた。
ありえない。
写真なのに。
少年が笑った。
そして。
写真の中の少年が――
口を動かした。
恒一には。
その声が聞こえた。
「やっと、ここまで来たね」
その瞬間。
スマートフォンに。
新しい通知が届いた。
投稿者――
最初の読者。
本文。
«『次は、私があなたを読む番です。』»
恒一は画面を見つめた。
そして。
その下に。
これまで存在しなかったボタンが現れた。
[読む]
その隣に。
もう一つ。
[読まれる]
恒一の指が――
止まった。
第二部 第33話 終




