第32話 存在しない読者
「……今度は、誰が私を読んでるの?」
耳元で聞こえた声が消えた。
恒一は動けなかった。
床を見る。
濡れた足跡。
一つ。
また一つ。
そして最後の一つが、自分の足元にある。
しかし――
少女の姿はない。
「……美月?」
思わず口に出しかけて。
恒一は止まった。
違う。
それは彼女の名前ではない。
あの少女の名前ではない。
第一部で。
何度も繰り返し学んだことだった。
名前は、存在を物語に固定する。
だから。
恒一は別の言葉を選んだ。
「……君なのか?」
返事はない。
ただ。
机の上の黒い本が――
一度だけ。
トン。
と音を立てた。
恒一は近づかなかった。
もう二度と。
自分から本を開きたくない。
そう思っていた。
だが。
スマートフォンが鳴った。
新しい通知。
小説投稿サイト。
コメントが一件追加されている。
恒一は恐る恐る画面を見る。
«「そこにいるよ」»
投稿者――
少女。
「……」
さらにコメントが届く。
«「でも、あなたの後ろじゃない」»
恒一は振り返らない。
振り返ったら。
何かがいる。
そんな気がした。
だから。
画面だけを見る。
三件目。
«「あなたの中。」»
恒一は息を止めた。
「……俺の中?」
画面に新しい文字。
«「そう」»
«「あなたの中に、まだ一人いる」»
恒一の指が止まる。
嫌な記憶が蘇った。
第一部。
「もう一人の恒一」。
自分が生きなかった人生。
自分の名前からこぼれ落ちた存在。
しかし。
あのとき。
全員で手を握った。
そして。
物語を閉じた。
「……あいつはもういない」
画面を見る。
返事。
«「違うよ」»
«「あの人じゃない」»
「じゃあ誰だ?」
しばらく。
何も表示されなかった。
やがて。
たった一文字。
«「読」»
恒一は眉をひそめる。
次の文字。
«「者」»
その二文字が。
画面の中央に残った。
読者。
恒一はスマートフォンを置いた。
「……俺はもう、読者じゃない」
すぐに。
通知が来た。
«「本当に?」»
「……」
«「じゃあ、今なにをしてるの?」»
恒一は答えられなかった。
確かに。
今。
自分は読んでいる。
物語を。
自分の物語を。
スマートフォンに表示された文章を。
黒い本を閉じたはずなのに。
別の場所で。
同じことをしている。
「……」
恒一は画面を閉じた。
その瞬間。
部屋の照明が消えた。
真っ暗になる。
「……!」
スマートフォンの明かりだけが残る。
その光の中で。
床に置いた黒い本が見えた。
本は閉じている。
しかし。
表紙に。
新しい文字が浮かんでいた。
«『読者が本を閉じた。』»
恒一は息を呑む。
その下に。
«『しかし、物語は閉じなかった。』»
さらに。
«『なぜなら――』»
文字がゆっくり浮かぶ。
«『物語は本の中に存在しないから。』»
恒一は黒い本を見る。
「……じゃあ、どこにある?」
答えはすぐに出た。
«『読者の中。』»
恒一は後退した。
「……」
第一部とは違う。
あの本は。
物語を現実にした。
しかし今度は。
物語そのものが――
人間の中にある。
黒い本が閉じたまま。
さらに文字を浮かべる。
«『神谷恒一は、物語を読む。』»
恒一は首を振る。
「違う」
文字が消える。
«『神谷恒一は、物語を思い出す。』»
「それも違う」
消える。
«『神谷恒一は、物語を生きる。』»
「……違う」
恒一は黒い本を睨んだ。
「俺はもう、物語を生きない」
沈黙。
そして。
新しい一文。
«『では、あなたが今いる場所は現実ですか?』»
恒一は答えられなかった。
窓を見る。
いつもの街。
いつもの道路。
いつもの電柱。
現実にしか見えない。
しかし。
一つだけ。
おかしい。
道路を歩いている人間が――
誰もスマートフォンを見ていない。
全員が。
同じ方向を向いている。
こちら。
恒一の部屋。
「……何だ?」
その瞬間。
全員が一斉に歩き出した。
こちらへ。
恒一の部屋へ向かって。
「……」
スマートフォンが震える。
コメント。
«「見つかったね」»
「何が?」
返信。
«「読者たち」»
恒一は窓から離れた。
外を見る。
道路。
歩道。
交差点。
コンビニの前。
駅へ向かう人。
その全員が。
同じ速度で。
同じ方向へ。
歩いている。
そして。
一人が顔を上げた。
恒一と目が合った。
その人物は。
笑った。
また一人。
また一人。
全員が。
恒一を見る。
スマートフォンが鳴る。
コメントが増えた。
一件。
十件。
五十件。
百件。
画面が埋まっていく。
«「見つけた」»
«「いた」»
«「神谷恒一だ」»
«「第二の物語の主人公」»
«「読ませて」»
«「続きを」»
«「続きを」»
«「続きを」»
恒一はスマートフォンを床に投げた。
「やめろ!」
画面が割れる。
しかし。
文字は消えない。
割れた画面の上に。
最後のコメントが表示された。
«「主人公は、読者から逃げられない。」»
その瞬間。
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
恒一の身体が固まる。
あの音。
第一部。
最初の夜。
午前零時。
同じ音。
ピンポーン。
もう一度。
恒一は動けない。
すると。
ドアの向こうから声がした。
「神谷さん」
普通の男性の声。
「宅配便です」
恒一は息を吐いた。
違う。
今回は違う。
ただの宅配便だ。
そう思った。
だが。
ドアの下。
隙間から。
一枚の紙が差し込まれた。
恒一はゆっくり拾い上げる。
紙には。
小説のタイトルが書かれていた。
『存在しない読者』
そして。
その下に。
作者名。
恒一は目を疑った。
そこに書かれていたのは――
神谷恒一。
「……また俺か」
紙を裏返す。
そこには。
一行だけ。
«『この作品を書いたのは、あなたではありません。』»
そして。
もう一行。
«『あなたを読んでいる人間です。』»
恒一は顔を上げた。
ドアの向こうから。
声が聞こえる。
「神谷さん」
「……」
「開けてください」
その声が。
少しずつ変わっていく。
男性。
女性。
老人。
子供。
そして――
最後に。
少女の声。
「恒一」
恒一は目を閉じた。
「……君なのか」
「うん」
「どうして外にいる?」
少し沈黙。
少女は答えた。
「外じゃないよ」
「……」
「あなたが、外だと思っている場所にいるだけ」
恒一はその言葉を聞いて。
初めて理解した。
第一部では。
本の中と現実が重なった。
第二部では違う。
現実そのものが、物語に取り込まれている。
そして。
ドアの向こうにいる「読者」は――
恒一を読んでいるだけではない。
恒一の世界を。
読んでいる。
恒一はドアノブに手をかけた。
開けるべきではない。
そう思った。
しかし。
もう一つの声がした。
自分自身の声。
「開けろ」
恒一は凍りついた。
その声は。
第一部で聞いたものと同じだった。
「……お前は誰だ」
ドアの向こうから。
答えが返ってくる。
「俺?」
少し笑って。
その声は言った。
「君を最初に読んだ人だよ。」
ドアノブが――
ゆっくり回った。
第32話 終




