第31話 第二の物語
朝だった。
窓から差し込む光で、恒一は目を覚ました。
しばらく天井を見つめる。
何もない。
白い天井。
カーテン。
机。
椅子。
昨日と変わらない部屋。
「……夢だったのか」
そう呟いて、自分で苦笑した。
夢。
そう考えるのが一番簡単だった。
黒い本。
黒猫堂。
少女。
もう一人の自分。
十歳の少年。
死んだ父親。
そして――
自分が存在するのかどうかさえ分からなくなるような、あの長い物語。
全部。
夢だった。
そう思いたかった。
恒一はベッドから起き上がった。
洗面所へ向かう。
鏡を見る。
そこには三十四歳の男が映っていた。
疲れた顔。
少し伸びた髪。
寝癖。
どこにでもいる普通の会社員。
「……神谷恒一」
自分の名前を口にする。
何も起こらない。
鏡も。
部屋も。
何も変わらない。
恒一は少しだけ安心した。
「終わったんだ」
黒い本はもうない。
少女もいない。
もう一人の自分もいない。
そして。
あの恐ろしい「読者」という存在からも――
解放された。
そう思った。
そのときだった。
スマートフォンが鳴った。
メール。
差出人は会社の同僚だった。
『昨日の小説、読みました』
「……小説?」
恒一は眉をひそめた。
そんなものを書いた覚えはない。
メールを開く。
『すごく面白かったです』
『まさか神谷さんが、あんな小説を書いていたなんて』
添付ファイルが一つ。
URLだった。
恒一はしばらく画面を見つめる。
嫌な予感がした。
それでも。
指が動いた。
画面をタップする。
――サイトが開いた。
小説投稿サイト。
見覚えのないページ。
だが。
タイトルを見た瞬間。
恒一の呼吸が止まった。
『最後のページを読んだ人』
「……」
作者名。
神谷恒一。
「……俺?」
違う。
書いていない。
絶対に。
恒一はページをスクロールした。
第一話。
見覚えがある。
雨の夜。
黒猫堂。
五百円。
午後十一時十三分。
黒い本。
そして――
«『最後まで読まないでください。』»
「……」
恒一の指が震える。
これは。
自分が体験した物語だった。
しかし。
一つだけ違う。
自分の記憶では、この作品は存在しなかった。
投稿日時を見る。
2006年9月8日。
恒一の顔から血の気が引いた。
「……二十年前?」
さらにスクロールする。
第二話。
第三話。
第四話。
そこには。
自分が体験した出来事が書かれていた。
しかも。
細部まで。
自分しか知らないはずのことまで。
母親の言葉。
父親の手紙。
少女との会話。
病院。
三枚の死亡診断書。
黒猫堂。
そして――
最後のページ。
«『第一の物語は、ここで終わる。』»
恒一は画面を閉じようとした。
だが。
指が止まった。
その下に。
見たことのない文章があった。
第二部。
タイトル。
«『第二の物語』»
恒一は息を呑んだ。
投稿日時。
2026年9月8日。
今日。
「……今日?」
最新話を開く。
真っ白なページ。
文章は一行だけだった。
«『神谷恒一は、朝、目を覚ました。』»
恒一の心臓が跳ねた。
「……」
もう一行。
«『夢だったと思った。』»
恒一の手が震える。
さらに。
«『黒い本も。』»
«『少女も。』»
«『もう一人の神谷恒一も。』»
«『すべて終わったと思った。』»
恒一は立ち上がった。
「やめろ」
ページは止まらない。
«『そして、彼はスマートフォンを手に取った。』»
恒一の手元。
まさに今。
スマートフォンを握っている。
「……やめろ」
«『そこには、一通のメールが届いていた。』»
恒一は画面を見る。
さっきのメール。
«『昨日の小説、読みました。』»
「……」
画面を閉じる。
サイトを閉じる。
スマートフォンの電源を切る。
そして。
深く息を吐いた。
「……偶然だ」
そう言い聞かせる。
偶然。
誰かが、自分の生活をモデルに小説を書いた。
そういうこともある。
たまたま一致した。
そうに決まっている。
恒一はスマートフォンを机に置いた。
その瞬間。
画面が勝手に点灯した。
通知。
新しいコメント。
一件。
恒一は見たくなかった。
だが。
目が吸い寄せられる。
コメント欄には。
一言だけ。
«「次、どうなるんですか?」»
投稿者名は――
少女。
「……」
恒一はスマートフォンを落とした。
床に転がった画面。
そこに。
新しい文字が表示された。
«『神谷恒一は、少女からのコメントを読んだ。』»
恒一はゆっくり顔を上げる。
部屋の隅。
誰もいない。
それなのに。
小さな声がした。
「……読んだね」
恒一の身体が硬直する。
「……」
声。
間違えようがない。
ずっと聞いてきた声。
少女の声。
「どこにいる?」
返事はない。
恒一は部屋を見回す。
カーテンの裏。
ベッドの下。
廊下。
誰もいない。
それでも。
声だけが聞こえる。
「恒一」
「……」
「今度は、本じゃないよ」
恒一の喉が鳴る。
「じゃあ……何なんだ?」
少しの沈黙。
そして。
少女は答えた。
「みんなが読んでる物語。」
その瞬間。
スマートフォンの画面に表示されていたアクセス数が――
一つ増えた。
1
2
3
数字が止まらない。
10。
27。
54。
103。
そして。
104。
恒一は呆然と画面を見る。
その瞬間。
画面の数字が一斉に消えた。
代わりに。
一行だけ表示された。
«『第二の物語を読んでいる人――104人。』»
恒一は息を呑む。
さらに。
その数字が――
105
になった。
少女の声が聞こえる。
「……一人、増えた」
「誰が?」
少女は答えた。
「分からない」
「じゃあ、どうして――」
「でも」
声が近づく。
耳元。
「その人は、あなたを読んでる」
恒一は振り返った。
誰もいない。
ただ。
机の上に――
一冊の本が置かれていた。
黒い。
何も書かれていない。
題名もない。
恒一は動けなかった。
第一部で。
確かに閉じたはずの本。
燃えなかった本。
捨てたはずの本。
消えたはずの本。
その表紙に。
ゆっくり文字が浮かんでいく。
一文字ずつ。
『第 二 の 物 語』
恒一の背中を冷たい汗が流れた。
そして。
表紙の下。
新しい文字が浮かんだ。
«『読者は、もう一人ではない。』»
恒一は本から離れた。
だが。
その瞬間。
本のページが――
勝手に開いた。
最初のページ。
そこには。
たった一行。
«『第二の物語を読む最初の読者は――神谷恒一である。』»
恒一は息を呑んだ。
その下に。
もう一行。
«『しかし、彼は知らない。』»
ページがめくれる。
«『このページを読む前に、すでに別の読者がいたことを。』»
そして。
最後の一文。
«『その読者は、今もあなたの隣にいる。』»
恒一は――
ゆっくりと。
自分の隣を見た。
誰もいない。
……はずだった。
しかし。
床には。
小さな裸足の足跡が一つ。
雨に濡れていた。
恒一は息を止める。
そして。
その足跡は――
もう一つ。
もう一つ。
ゆっくりと。
恒一の方へ近づいてきた。
――ぺた。
――ぺた。
――ぺた。
最後の足跡が。
恒一の足元で止まった。
そして。
耳元で。
少女が囁いた。
「……今度は、誰が私を読んでるの?」
ページが――
閉じた。
第31話 終




