第30話 最後の一ページ
「それを――」
父親は鉛筆を握った。
「お前が書くんだ」
恒一は動かなかった。
目の前にいる。
二十年前に死んだはずの父親。
何度も見た。
何度も疑った。
何度も、本物なのか偽物なのかを考えた。
けれど。
今は違った。
「……書かない」
父親の眉が、ほんの少し動いた。
「何?」
「俺は書かない」
「なぜだ」
「もう分かったからだ」
恒一は黒い本を見る。
「この本に書かれたことを信じて、ずっと答えを探してきた」
一歩。
本から離れる。
「誰が本物なのか」
もう一歩。
「誰が偽物なのか」
そして。
「誰が主人公なのか」
少女が恒一を見る。
恒一は続けた。
「でも、そんなこと……もう、どうでもいい」
父親が低い声で言う。
「それでは物語が終わらない」
「終わっていい」
「お前が終わらせれば、誰かが消える」
「……」
「少女も」
少女の肩が震えた。
「もう一人の恒一も」
「……」
「十歳の恒一も」
少年が顔を伏せる。
父親は淡々と続ける。
「物語を終わらせるには、犠牲が必要だ」
恒一は黙っていた。
確かに。
今までそうだった。
誰かを残せば。
誰かが消える。
誰かを選べば。
誰かが選ばれない。
名前を与えれば。
物語に固定される。
忘れれば。
存在できなくなる。
ずっと――
そうだった。
だから。
恒一は父親に尋ねた。
「……本当に?」
「何がだ」
「本当に、終わらせるには誰かを犠牲にしなきゃいけないのか?」
父親は答えなかった。
黒い本が開く。
ページが勝手にめくられていく。
そして。
最後のページに文字が現れた。
«『物語を終わらせるためには、誰か一人を選ばなければならない。』»
恒一は笑った。
「やっぱりな」
父親を見る。
「本じゃない」
「……」
「あなたがそう思わせてるだけだ」
父親の顔から笑みが消えた。
「何を言っている」
「この本は、ずっと選択肢を出してきた」
恒一は指を一本立てる。
「主人公になるか」
二本目。
「読者になるか」
三本目。
「誰かを残すか」
四本目。
「誰かを消すか」
そして。
黒い本を閉じた。
「でも、一度も聞かなかった」
父親が睨む。
「何をだ」
恒一は答えた。
「全員を残したいか?」
沈黙。
少女が顔を上げた。
もう一人の恒一も。
十歳の少年も。
誰も何も言わない。
恒一は本を見下ろした。
「そんな選択肢、一度もなかった」
黒い本が震えた。
ページが激しくめくれる。
文字が次々に浮かんでは消えていく。
«『不可能。』»
消える。
«『選択してください。』»
消える。
«『物語には主人公が必要です。』»
消える。
«『読者が必要です。』»
消える。
そして最後に。
一行だけが残った。
«『それでも?』»
恒一は答えた。
「それでもだ」
その瞬間。
本が――
初めて沈黙した。
完全な無音だった。
雨の音さえ消えた。
時計の音も。
街の音も。
少女の呼吸さえ。
何もない。
そして。
白いページに。
一文字だけ現れた。
«『では、書いてください。』»
父親が鉛筆を差し出す。
「これで終わる」
恒一は鉛筆を受け取った。
だが。
紙には何も書かなかった。
父親が尋ねる。
「何を書く?」
恒一は鉛筆を見つめる。
そして。
ゆっくりと答えた。
「何も」
父親が目を見開く。
「……」
「書かない」
「それでは終われない」
「違う」
恒一は鉛筆を置いた。
「終わるっていうのは――」
黒い本を閉じる。
「続きを書かないことだ」
父親が叫んだ。
「馬鹿な!」
その瞬間。
父親の身体に亀裂が走った。
顔。
腕。
白いシャツ。
すべてが黒い文字になって崩れていく。
「待て!」
父親の声が遠ざかる。
「お前が書かなければ――」
身体が崩れる。
「誰も――」
さらに崩れる。
「存在でき――」
最後に残った口元が。
小さく笑った。
「……そうか」
そして。
消えた。
恒一は何も言わなかった。
父親が消えた場所には。
鉛筆だけが残っていた。
少女が近づいてくる。
「……終わったの?」
「分からない」
恒一は答えた。
「でも」
少女の手を握る。
「もう、誰も選ばない」
少女は微笑んだ。
「うん」
十歳の少年が聞く。
「じゃあ、僕は?」
恒一は少年の手を握る。
「お前も残る」
「僕は主人公じゃないよ?」
「いい」
「読者でもないよ?」
「それでもいい」
もう一人の恒一を見る。
「お前も」
男は少し驚いた顔をした。
「俺も?」
「ああ」
「俺は、お前が生きなかった人生だぞ」
「だったら」
恒一は笑った。
「一緒に生きればいい」
もう一人の恒一は――
初めて泣いた。
「……ずるいな」
「何が?」
「そんな答え」
男は涙を拭った。
「本には書いてない」
「だからいいんだ」
少女が笑う。
三人。
いや。
四人が。
互いの手を握った。
その瞬間。
黒い本が床で開いた。
最後のページ。
そこには何も書かれていない。
真っ白だった。
恒一は恐る恐る近づいた。
そして。
ページの端に――
小さな文字が浮かぶ。
«『第一の物語は、ここで終わる。』»
恒一は息を吐いた。
さらに。
«『主人公は存在する。』»
«『読者も存在する。』»
«『忘れられた者も存在する。』»
そして。
最後に。
«『名前がなくても。』»
恒一は少女を見る。
少女は笑った。
その名前は――
最後まで書かれなかった。
次の一行。
«『記憶されている限り、存在できる。』»
恒一の目に涙が浮かぶ。
そして。
最後の一文。
«『だから、この物語を閉じる人へ。』»
恒一の指が止まった。
「……閉じる人?」
誰に向けた言葉なのか。
分からない。
少女も。
少年も。
もう一人の恒一も。
黙ってページを見ている。
文字が一つずつ浮かぶ。
«『あなたは、最後まで読みました。』»
恒一は息を呑んだ。
«『けれど――』»
次の文字が現れる。
«『最後のページを読んだ人が、必ず物語の中に残るとは限らない。』»
恒一はページをめくろうとした。
だが。
次のページはなかった。
本当に。
これが最後だった。
裏表紙。
黒い表紙。
何もない。
恒一は本を閉じた。
カチッ。
その音がした瞬間。
黒猫堂の景色が変わった。
雨が止んでいる。
店の外には朝の光。
棚に並んでいた黒い本は消えている。
少女も。
少年も。
もう一人の恒一も。
いない。
恒一だけが残っていた。
「……みんな?」
返事はない。
胸が締め付けられる。
やっぱり。
消えたのか。
そう思った瞬間。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見る。
通知が一件。
差出人――
不明。
メッセージは一行。
«『手を離さなかったよ。』»
恒一の目から涙が落ちた。
そして。
もう一通。
«『だから、忘れないで。』»
恒一はスマートフォンを握りしめる。
「……忘れない」
店を出る。
朝の街。
普通の人。
普通の車。
普通の生活。
世界は何も変わっていない。
恒一は歩き出す。
もう振り返らない。
――そのとき。
黒猫堂の店内。
誰もいないはずの棚の上で。
一冊の黒い本が――
ゆっくり開いた。
最後のページ。
何も書かれていない。
真っ白なページに。
一本の線が引かれた。
まるで。
誰かが鉛筆で書き始めたように。
そして。
最初の文字が浮かんだ。
«『これは、神谷恒一の物語ではない。』»
一行。
また一行。
文字が増えていく。
«『この物語には、作者がいない。』»
«『最初の読者もいない。』»
«『最初の主人公もいない。』»
そして。
最後に。
たった一行。
«『読んだ人が、その続きを作る。』»
ページの隅に。
小さな文字が現れた。
«『だから――』»
そこで。
文章が途切れた。
ページは閉じた。
黒い表紙に。
初めて。
題名が浮かび上がる。
『最後のページを読んだ人』
その下に。
もう一行。
«『第二の物語へ。』»
そして。
本の向こう側。
誰かがページをめくった。
――ぱらり。
第一部・完




