第29話 もう一人の恒一
「……やっと、思い出してくれたね」
耳元で聞こえた声に。
恒一は振り返った。
誰もいない。
黒猫堂の入口。
カウンター。
古い棚。
少女。
十歳の少年。
白衣の男。
それだけだった。
「……今、誰かいた?」
少女は答えない。
少年も。
白衣の男だけが、静かに笑っていた。
「聞こえましたか?」
「……ああ」
「誰の声でした?」
恒一は答えられなかった。
分かっている。
自分の声だった。
でも――
自分ではない。
「……俺の声だった」
白衣の男が頷く。
「そうでしょうね」
「どういう意味だ?」
「あなたの声だからです」
「俺じゃないのに?」
「ええ」
男は黒い本を開いた。
ページには、すぐに文字が浮かんだ。
«『神谷恒一は、自分自身の声を聞いた。』»
恒一は眉をひそめる。
「また本が……」
«『しかし、その声を発したのは神谷恒一ではない。』»
恒一は息を呑んだ。
「じゃあ誰だ?」
文字が増える。
«『もう一人の神谷恒一。』»
十歳の少年が顔を上げた。
「……来た」
「何が?」
少年は答えなかった。
その代わり――
黒猫堂の奥。
誰もいないはずの棚の前に、人影が現れた。
最初は輪郭だけだった。
次第に。
顔が見えてくる。
恒一は言葉を失った。
そこにいたのは――
三十四歳の自分だった。
同じ顔。
同じ年齢。
同じ声。
ただ一つだけ違う。
目が――
異様なほど穏やかだった。
「……お前は?」
もう一人の恒一は笑った。
「俺だよ」
「俺?」
「そう」
「何者なんだ」
「それをずっと探してたんだろ?」
恒一は一歩後退した。
「俺は神谷恒一だ」
もう一人の恒一が首を振る。
「違う」
「……」
「お前は『神谷恒一』という名前を持っている」
「同じことだ」
「違うよ」
男は黒い本を指差した。
「名前と存在は別だから」
恒一は黙った。
その言葉。
どこかで聞いた。
少女が言った言葉。
本が書いた言葉。
何度も繰り返されてきた。
「じゃあ、お前は何なんだ?」
もう一人の恒一は答えた。
「俺は――」
一瞬。
その顔から笑みが消えた。
「お前が忘れた人生だ」
恒一の胸が締め付けられる。
「……人生?」
「そう」
「俺の?」
「お前が生きなかった人生」
恒一は理解できなかった。
「そんなものが、人間になるのか?」
「この本の中ならな」
男は笑う。
「ここでは、忘れられた記憶も、選ばれなかった未来も、全部『存在』になれる」
少女が呟いた。
「だから、この人は……」
もう一人の恒一を見る。
「ずっと待っていた」
「何を?」
「あなたが思い出すのを」
恒一は男を見つめた。
「何を思い出せばいい?」
男は答えない。
代わりに。
黒い本を恒一へ差し出した。
「これを開け」
「嫌だ」
「怖い?」
「違う」
「じゃあ?」
恒一は首を振った。
「もう、誰かに決められるのは嫌なんだ」
男は少し笑った。
「そうか」
そして。
本を床に置いた。
「じゃあ、自分で開け」
恒一は本を見る。
しばらく動かなかった。
やがて。
自分の手を伸ばした。
表紙に触れる。
冷たい。
あの夜と同じ感触。
五百円。
黒猫堂。
午後十一時十三分。
『最後まで読まないでください』
恒一は目を閉じる。
そして――
本を開いた。
最初のページ。
何もない。
二ページ目。
何もない。
三ページ目。
何もない。
四ページ目。
そこに一行。
«『神谷恒一は、この本を初めて読んだ。』»
恒一は眉をひそめた。
「……違う」
文字が消える。
«『神谷恒一は、この本を二度目に読んだ。』»
「違う」
消える。
«『神谷恒一は、この本を三度目に読んだ。』»
「違う!」
文字が消える。
恒一は叫んだ。
「何度目でもない!」
本が静かになる。
そして。
新しい文章が現れた。
«『神谷恒一は、本を読む前から、この物語を知っていた。』»
恒一の手が止まる。
「……」
さらに。
«『なぜなら――』»
ページの中央に文字が現れる。
«『この物語は、彼が書いたからである。』»
恒一は息を呑んだ。
「俺が……書いた?」
白衣の男が笑う。
「ようやくそこまで来ましたね」
「俺がこの本を書いたのか?」
「いいえ」
「じゃあ何だ!」
男は答えた。
「あなたが書いたのは、本ではありません」
「……」
「最初の一ページです。」
恒一は固まった。
もう一人の恒一が言う。
「二十年前」
「……」
「俺たちは三人で、この本を開いた」
少女。
少年。
そして恒一。
「そのとき、本には何も書かれていなかった」
「……」
「だから、お前が最初の一行を書いた」
恒一の頭の奥に――
古い記憶が蘇る。
雨。
神社。
三人。
黒い本。
鉛筆。
そして。
自分の幼い手。
紙の上に書いた文字。
«『主人公は、神谷恒一。』»
恒一は息を呑んだ。
「……俺が書いた」
少年が頷く。
「うん」
「俺が……主人公を作った」
「そう」
「じゃあ、お前は?」
少年は笑った。
「僕は読んだ」
少女が続ける。
「私は、残った」
恒一は三人を見る。
「そして……」
もう一人の恒一が言った。
「俺は、書かれなかった」
恒一の胸が痛んだ。
「……」
「お前が主人公を書いた瞬間」
もう一人の恒一は、自分の胸を指した。
「俺は、物語の外に押し出された」
「だから……」
「読者になった」
恒一は理解した。
第一の読者。
それは――
本を最初に読んだ人間ではない。
主人公に選ばれなかった人間。
そして。
その人間が――
読者になった。
「じゃあ……」
恒一は黒い本を見る。
「第一の読者って……」
「俺だよ」
もう一人の恒一が答えた。
「お前の中から出てきた、もう一人の俺」
「……」
「お前が忘れた人生」
「……」
「お前が捨てた可能性」
「……」
「お前が『神谷恒一』という名前のために犠牲にした存在」
恒一の目から涙が落ちた。
「……ごめん」
もう一人の恒一は首を振る。
「謝る必要はない」
「でも――」
「俺は、お前を恨んでない」
「……」
「だって」
男は笑った。
「お前がいたから、俺は存在できた」
その瞬間。
少女が泣きながら笑った。
「やっと……」
「何?」
「三人が、同じ場所に戻れた」
恒一は少女を見る。
「三人?」
少女は頷く。
「あなた」
「……」
「この人」
「……」
「そして、私」
恒一は静かに尋ねた。
「じゃあ、もう一人は?」
少女の顔が曇る。
「……誰?」
「母さんは?」
少女は答えない。
恒一が振り返る。
そこに――
母親はいなかった。
黒田も。
白衣の男も。
店内から消えている。
残っているのは。
恒一。
もう一人の恒一。
少女。
十歳の少年。
そして――
黒い本。
恒一は本を見た。
最後のページ。
そこには一文。
«『第一の読者の正体が判明しました。』»
恒一は息を吐いた。
やっと。
長かった謎の一つが終わった。
しかし。
その下に――
新しい文章が浮かぶ。
«『しかし、最初の作者の正体はまだ判明していません。』»
恒一の顔が強張る。
「……作者?」
少年が呟いた。
「いるよ」
「誰?」
少年は答えない。
少女も黙っている。
もう一人の恒一だけが――
恒一の背後を見ていた。
「……来た」
「誰が?」
もう一人の恒一が言う。
「本当の作者」
黒猫堂の扉が開いた。
カラン。
ベルが鳴る。
外は雨。
そして。
雨の向こうから――
一人の人間が歩いてくる。
顔は見えない。
だが。
手に持っているものだけは分かった。
鉛筆。
その人物は店内へ入り。
恒一の前で立ち止まった。
そして。
初めて顔を上げた。
恒一は――
その顔を見て、
声を失った。
そこにいたのは。
自分の父親だった。
しかし。
父親は二十年前に死んでいる。
父親は恒一を見つめ。
静かに言った。
「……ようやく、ここまで来たか」
黒い本が震える。
ページに一行。
«『本当の作者が、帰ってきた。』»
そして。
その下に――
«『彼は、神谷恒一ではない。』»
恒一は父親を睨んだ。
「……じゃあ、あなたは誰なんだ?」
父親は笑った。
「それを――」
鉛筆を握る。
「お前が書くんだ。」




