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『最後のページを読んだ人』  作者: こうた


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第28話 最初の名前



スマートフォンの画面に表示された名前を見て。


恒一は――


息をすることさえ忘れた。


知っている。


絶対に知っている。


なのに。


思い出せない。


指先だけが震えていた。


画面には、一つの名前。


二十年間。


何度も夢に出てきたはずの名前。


けれど。


その名前を見た瞬間――


頭の中から、別の記憶が消えていく。


黒猫堂。


父親。


母親。


少女。


そして。


十歳の少年。


「……やめろ」


恒一はスマートフォンを伏せた。


見なければいい。


読まなければいい。


名前を声に出さなければいい。


そうすれば――


まだ大丈夫だ。


そう思った。


しかし。


スマートフォンが再び震えた。


画面を見る。


新しいメッセージ。


«『名前を読まない限り、あなたはその人を思い出せない。』»


恒一は眉をひそめる。


その下に。


«『でも、名前を読めば――あなたが忘れられる。』»


「……」


恒一は画面を閉じた。


その瞬間。


背後から声がした。


「見たんだね」


恒一が振り返る。


少女が立っていた。


白い服。


濡れていない髪。


そして――


今までより、はっきりした姿。


「……お前」


「うん」


少女は頷く。


「見たんだね」


「知ってたのか?」


「知ってた」


「最初から?」


「うん」


恒一は怒りを抑えられなかった。


「じゃあ、どうして教えなかった!」


少女は答えない。


「二十年だぞ」


恒一の声が震える。


「俺はずっと、誰なのか探してた」


「……」


「自分が誰なのか」


「……」


「お前が誰なのか」


「……」


「そして、あいつが誰なのか」


少女は俯いた。


「ごめん」


「謝って済むのか?」


「済まない」


少女は静かに言った。


「だから、あなた自身で選んでほしかった」


「何を?」


「名前を読むかどうか」


恒一はスマートフォンを見る。


「読むと、どうなる?」


少女は少し考えてから答えた。


「その人が戻る」


「……」


「あなたの記憶の中に」


「それだけ?」


少女は首を横に振った。


「その代わり、あなたの中から何かが出ていく」


「何が?」


少女は答えなかった。


そのとき。


黒猫堂の中から――


ページをめくる音がした。


恒一が振り返る。


カウンターの上。


第二の黒い本が開いている。


一ページ。


二ページ。


三ページ。


そして。


最後のページ。


そこに文字が浮かんだ。


«『最初の読者は、名前によって戻る。』»


恒一は本に近づいた。


さらに文字。


«『名前は存在を固定する杭である。』»


恒一は息を呑む。


以前にも見た言葉。


だが。


その下に――


新しい一文が追加された。


«『しかし、最初の読者には名前がなかった。』»


「……え?」


少女が呟く。


「だから、消えたの」


「名前がなかったから?」


「違う」


少女は首を振る。


「名前がなかったから――」


一瞬、言葉を止める。


「誰にも選ばれなかった」


恒一は黙った。


少年の顔が浮かぶ。


自分と同じ顔。


十歳の姿。


あの日。


手を離した少年。


「……あいつなのか?」


少女は答えなかった。


恒一は続ける。


「最初の読者って……」


「……」


「十歳のあいつなのか?」


少女は目を閉じた。


そして。


ゆっくり首を横に振った。


「違う」


「……違う?」


「あなたが思っている『あいつ』ではない」


恒一は混乱した。


「じゃあ誰なんだよ」


少女は答えた。


「あなた」


「……俺?」


「正確には――」


少女が恒一の胸に指を当てる。


「あなたの中に残っている、もう一人」


恒一は凍りついた。


「……」


「あなたは二人を忘れた」


「二人?」


「一人は、あなたと一緒に本を読んだ子」


「……」


「もう一人は――」


少女の声が小さくなる。


「あなた自身」


恒一は理解できなかった。


「俺?」


「うん」


「どういう意味だ」


少女は黒い本を見る。


「最初の読者は、誰かに本を読ませるために存在した」


「……」


「でも、本を読んだのは誰?」


恒一は答えられない。


少女が言った。


「あなた」


「……」


「あなたは最初から読者だった」


恒一の頭の中で――


何かが崩れた。


黒猫堂。


五百円。


雨。


午後十一時十三分。


あの記憶。


自分が本を開いた。


そう思っていた。


でも。


本を開く前に――


誰かが言った。


『読んで』


誰かの手が、自分の手を握った。


小さな手。


そして。


自分は本を開いた。


「……違う」


恒一は頭を抱えた。


「俺が本を開いたんじゃない」


少女が頷く。


「そう」


「誰かに……開かされた」


「うん」


「じゃあ……」


恒一はスマートフォンを見る。


表示された名前。


「この名前は……」


少女が言った。


「あなたに本を読ませた人」


恒一は息を呑んだ。


「最初の読者?」


「そう」


「じゃあ、その人は――」


その瞬間。


スマートフォンの画面が勝手に点いた。


メッセージが一件。


«『思い出して。』»


続いて。


写真が送られてきた。


恒一は指を震わせながら開いた。


古い写真。


神社。


雨。


三人の子ども。


恒一。


少女。


そして――


もう一人。


しかし。


これまでの写真と違っていた。


三人ではない。


四人いる。


恒一。


少女。


十歳の少年。


そして――


もう一人。


大人。


白衣を着ている。


顔は写っていない。


その大人が――


子どもたちの手を全部つないでいる。


恒一は息を呑んだ。


「……こいつ」


少女が震える。


「そう」


「白衣の男……」


「うん」


「俺たちを作った?」


「違う」


「じゃあ何をした?」


少女は写真を見る。


「読んだの」


「……何を?」


少女が答える。


「私たちの人生を」


恒一の背後で。


カラン――


とベルが鳴った。


黒猫堂の扉が開く。


恒一が振り返る。


白衣の男が立っていた。


以前会った男とは違う。


もっと若い。


三十代くらい。


顔が見えない。


男は静かに言った。


「久しぶり」


恒一は睨みつける。


「お前が第一の読者か?」


男は笑った。


「違う」


「じゃあ誰だ」


男はゆっくり本を取り出した。


その本の表紙には――


タイトルがあった。


«『神谷恒一』»


恒一の顔から血の気が引く。


男が言った。


「私は、この本を書いた」


「……作者?」


「違う」


男は首を横に振る。


「私も読者だ」


「じゃあ、誰が書いた?」


男は答えない。


その代わり。


本を恒一に差し出した。


「読んでみれば分かる」


恒一は受け取らない。


「もう読まない」


男は笑った。


「そう言うと思った」


そして。


黒い本のページが勝手に開いた。


そこには――


恒一が今まで見たことのない文章。


«『神谷恒一は、二十年前に死んだ。』»


恒一の心臓が跳ねる。


次の行。


«『だから、現在の神谷恒一は存在しない。』»


「……」


さらに。


«『彼が現在存在している理由は――』»


文字が止まった。


そして。


ゆっくりと。


最後の一文が浮かんだ。


«『最初の読者が、自分の人生を一人分、貸したからである。』»


恒一は動けなかった。


「……人生を?」


白衣の男が頷く。


「そう」


「誰が?」


男は答えた。


「あなたが知っている名前だ」


恒一はスマートフォンを見る。


そこに表示された名前。


最初の読者の名前。


今まで忘れていた名前。


恒一は――


初めて声に出そうとした。


「……」


しかし。


その瞬間。


少女が叫んだ。


「呼ばないで!」


恒一の口が止まる。


少女の顔は、恐怖に染まっていた。


「その名前を呼んだら――」


「何が起こる?」


少女は震えながら答えた。


「その人が戻る」


「それならいいじゃないか」


「違う!」


少女の声が店内に響く。


「戻ってくるのは――」


一拍。


少女が恒一を見る。


「人間じゃない。」


黒い本が閉じた。


そして。


表紙に新しい文字が浮かび上がる。


«『第二の物語、開始。』»


その下に――


«『最初の読者が、戻ってくる。』»


さらに。


最後の一行。


«『そして今度は――読者が主人公になる。』»


恒一はスマートフォンの名前を見た。


その名前が――


ゆっくりと、


画面から消えていった。


代わりに表示されたのは。


『神谷恒一』


そして。


その瞬間。


恒一の背後から、


誰かが耳元で囁いた。


「……やっと、思い出してくれたね」


その声は――


恒一自身の声だった。

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