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『最後のページを読んだ人』  作者: こうた


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第27話 忘れられた名前



少年の顔が、ぼやけていく。


目。


鼻。


口。


髪。


輪郭。


一つずつ。


恒一の記憶から、削り取られていく。


「……待って」


恒一は少年の肩を掴んだ。


「お前……」


名前が出てこない。


さっきまで、確かにそこにあった。


なのに。


もう思い出せない。


「俺は……お前を知ってる」


少年は笑った。


「うん」


「ずっと一緒だった」


「うん」


「二十年前から……」


「うん」


「なのに……」


恒一は頭を押さえた。


「なんで名前が出てこないんだ!」


少年は何も言わなかった。


代わりに。


少女が静かに近づいてきた。


「始まったんだよ」


「何が?」


「記憶の消去」


恒一は少女を見る。


「本に書かれたから?」


「違う」


少女は首を振る。


「本は、原因じゃない」


「じゃあ何なんだ?」


少女は黒い本を指差した。


「あなた自身」


「俺?」


「あなたが、名前を捨てようとしているから」


恒一は息を呑んだ。


④――名前を捨てる。


その選択。


名前を捨てれば、主人公も読者もなくなる。


そして――


名前によって固定されていた存在も。


「……俺が選ぼうとしたから?」


「うん」


少女は頷いた。


「名前を捨てるということは、名前に結びついた記憶も捨てるということ」


恒一は少年を見る。


「じゃあ、この子も……」


「神谷恒一という名前に結びついていた存在だから」


少年が初めて口を開いた。


「僕は、あなたの記憶の中にいた」


「……」


「だから、あなたが名前を捨てれば――」


少年の身体が透ける。


「僕から消えていく」


恒一は少年の手を握った。


「だったら、④は選ばない」


少年が驚く。


「……いいの?」


「当たり前だ」


「でも」


「もう誰かを犠牲にするのは嫌だ」


恒一は少年を見た。


「俺だけ助かるなんて、もうしない」


少年の目に涙が浮かぶ。


その瞬間。


黒い本が開いた。


«『選択を拒否しました。』»


恒一は本を見る。


「……拒否?」


«『④を選ばないという選択を確認。』»


「だったら、どうなる?」


ページに文字が増える。


«『選択肢は三つに戻ります。』»





そして。


その下に、新しい文字。


«『ただし、選択できるのは一人だけです。』»


恒一は顔を上げた。


「一人?」


少女が呟く。


「そういうこと」


「誰が選ぶ?」


少女は答えなかった。


少年も黙っている。


母親だけが――


静かに笑っていた。


「私よ」


恒一の身体が固まる。


「……母さん?」


母は本を手に取った。


「あなたたちは、もう十分苦しんだ」


「何をするつもり?」


「選ぶの」


母はページを見る。


①。


②。


③。


指を伸ばす。


「待って!」


恒一が叫ぶ。


「母さんが選ぶ必要はない!」


「いいえ」


母は首を横に振る。


「これは私の物語だから」


「違う!」


「違わないわ」


母の声が震えた。


「二十年前、私は息子を失った」


「……」


「そのとき、私は選んだ」


母は少年を見る。


「この子ではなく」


少年が俯いた。


「あなたを」


恒一の胸が締め付けられる。


「でも」


母は続ける。


「私は間違えた」


「……」


「どちらが本物だったのかなんて、私には分からなかった」


母は黒い本を見つめる。


「だから、本に答えを求めた」


「それで……」


「本は答えてくれた」


母が笑う。


その笑顔は、どこか壊れていた。


「『選ばれた方が本物』と」


恒一は言葉を失った。


「だから私は、あなたを選んだ」


母の指が震える。


「あなたに『神谷恒一』という名前を与えた」


「……」


「あなたの記憶を戻した」


「……」


「あなたの人生を作った」


そして。


「この子を、読者にした」


少年が顔を上げる。


母を見る。


「だから僕は――」


少年が呟いた。


「選ばれなかったんだね」


母の目から涙が落ちる。


「ごめんなさい」


少年は笑った。


「いいよ」


「……」


「だって」


少年は恒一を見る。


「今は、僕が選ぶ側だから」


母が驚いた。


「……え?」


少年は黒い本を取った。


そして。


ページをめくる。


一枚。


二枚。


三枚。


最後のページ。


そこには、まだ何も書かれていなかった。


少年は鉛筆を取り出した。


恒一は息を呑む。


「何をする?」


「書くんだよ」


「何を?」


少年は紙に文字を書いた。


ゆっくり。


一文字ずつ。


«『僕は、神谷恒一を選ぶ。』»


母が叫んだ。


「やめなさい!」


少年は止まらない。


«『僕は、神谷恒一を現実に戻す。』»


恒一が叫ぶ。


「お前はどうなる!」


少年は答えた。


«『僕は――』»


鉛筆が止まる。


少年が恒一を見る。


「僕はどうなると思う?」


恒一は答えられなかった。


少年は笑った。


そして。


最後の文字を書いた。


«『僕は、読者になる。』»


黒い本が激しく震えた。


店内のすべての本が閉じる。


バタン。


バタン。


バタン。


何百冊もの本が一斉に閉じられる。


そして。


黒い本の表紙に文字が浮かぶ。


«『選択が成立しました。』»


恒一は叫んだ。


「待て!」


少年の身体が光に包まれる。


「お前は何をしたんだ!」


少年は笑った。


「あなたを、主人公に戻した」


「そんなの望んでない!」


「でも」


少年は静かに言った。


「今度は違う」


「何が?」


「今度のあなたは――」


少年が恒一の手を握る。


「誰かに作られた主人公じゃない」


恒一はその手を強く握り返した。


「……」


「自分で選んだ主人公」


その瞬間。


少年の身体が消え始めた。


「おい!」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない!」


「忘れないで」


「絶対に忘れない!」


少年は笑った。


「名前は?」


恒一は答えられなかった。


少年の名前を思い出せない。


少年は悲しそうに笑う。


「じゃあ、それでいい」


「……」


「名前がなくても」


少年の手が薄くなる。


「手を離さなければ――」


恒一は力いっぱい握った。


「離さない!」


「うん」


少年が笑った。


「だから、まだ存在できる」


その瞬間。


白い扉が開いた。


向こう側に――


現実の街が見える。


雨は降っていない。


朝だった。


人が歩いている。


車が走っている。


普通の日常。


恒一は呟いた。


「……現実?」


母が頷く。


「そう」


「俺は……戻れる?」


「ええ」


恒一は少年を見る。


「この子も?」


母は答えなかった。


恒一が少年を見る。


少年は笑っている。


「行って」


「お前は?」


「僕はここにいる」


「嫌だ」


「恒一」


「一緒に行く」


「無理だよ」


「どうして!」


少年は黒い本を見る。


その本には――


新しい文章が浮かんでいた。


«『主人公は現実へ戻る。』»


その下。


«『読者は物語に残る。』»


そして。


«『最初の読者は、読者であり続ける。』»


恒一は本を睨んだ。


「……じゃあ」


恒一は少年の手を握ったまま言った。


「俺が読者になる」


少年が目を見開く。


「何?」


「俺が残る」


「ダメ!」


「今度は俺が選ぶ」


「でも――」


「お前を一人にしない」


少年は泣き始めた。


恒一は笑った。


「二十年前、俺は手を離した」


「……」


「今度は絶対に離さない」


その瞬間。


黒い本の文字が――


すべて消えた。


白紙になる。


母も。


少女も。


少年も。


そして恒一も。


誰も言葉を発しない。


ただ。


握った手だけが残っている。


恒一は目を閉じた。


すると。


耳元で――


声が聞こえた。


「……ありがとう」


目を開ける。


そこに少年はいなかった。


代わりに。


黒い本の最後のページに――


一行だけ。


«『第一の読者は、初めて本を閉じた。』»


恒一は本を閉じた。


その瞬間。


黒猫堂の扉が開いた。


朝の光が差し込んでくる。


恒一は外へ出た。


雨は止んでいた。


街は何も変わっていない。


人々は普通に歩いている。


車も走っている。


世界は――


何事もなかったように続いている。


恒一は空を見上げた。


「……終わった」


そう呟いた。


そのとき。


ポケットの中で――


スマートフォンが震えた。


画面を見る。


知らない番号。


一件のメッセージ。


«『あなたは、まだ本を閉じていません。』»


恒一の顔から血の気が引く。


その下に――


もう一行。


«『今、あなたが閉じたのは――第一の本です。』»


恒一はゆっくり顔を上げた。


黒猫堂の店内。


カウンターの上には――


もう一冊の黒い本が置かれていた。


その表紙には、初めてタイトルがあった。


«『第二の物語――読者の手』»


そして。


その本の隣に――


小さな鉛筆が一本。


誰かが使ったばかりのように、


先端だけが濡れていた。


その瞬間。


恒一のスマートフォンに、もう一通届いた。


«『次は、あなたが読む番です。』»


恒一は画面を見つめた。


そして。


その文章の一番下に――


知らないはずの名前が表示されていることに気づいた。


『神谷恒一』


ではなかった。


それは――


二十年間、


恒一が思い出せなかった、


最初の読者の名前だった。

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