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『最後のページを読んだ人』  作者: こうた


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第26話 選ばれなかった人



「次に選ぶのは――最初の読者です」


その文字が浮かんだ瞬間。


黒猫堂から、音が消えた。


雨の音も。


時計の音も。


古い木造の床が軋む音さえも。


すべてが消えた。


恒一は、握っている小さな手を見た。


十歳の少年。


自分と同じ顔。


二十年前、自分が手を離した少年。


「……お前が選ぶのか?」


少年は答えなかった。


ただ、恒一の手を握り返した。


強く。


あの頃と同じように。


「何を選ぶ?」


恒一が尋ねる。


少年は黒い本を見た。


「二人のうち、一人」


「……」


「僕か」


少年は恒一を見る。


「あなたか」


恒一の胸が痛んだ。


「そんなの、選べない」


「そうだね」


少年は笑った。


「だから、僕が選ぶ」


「何を?」


「あなたを」


恒一は息を呑んだ。


「俺を……?」


「うん」


少年は迷わず答えた。


「僕は、あなたを残す」


「じゃあ、お前は?」


少年は黙った。


その顔が、少しだけ悲しそうになった。


「僕は――」


そこで。


黒い本が勝手に開いた。


ページに文字が浮かぶ。


«『最初の読者は、自分を選ぶことができない。』»


恒一は眉をひそめる。


「どういう意味だ?」


本が続ける。


«『最初の読者は、最初から「選ばれなかった人間」だからである。』»


少年の表情が消えた。


恒一は少年を見る。


「……選ばれなかった?」


少年は答えない。


「誰に?」


沈黙。


「誰に選ばれなかったんだ?」


少年は、ゆっくりと恒一の顔を見る。


「あなたに」


恒一の心臓が止まりそうになった。


「……俺?」


「うん」


「俺が、お前を?」


「そう」


少年は笑った。


「二十年前、あなたは僕を選ばなかった」


「何を選んだ?」


「主人公になること」


恒一は息を呑んだ。


断片的な記憶が蘇る。


神社。


雨。


三人の子ども。


黒い本。


少女の手。


そして――


もう一人の少年。


『誰が主人公になる?』


『恒一』


『僕じゃない』


『どうして?』


『僕は、読者でいたい』


そこで。


記憶が途切れる。


「……お前が、自分から読者になったんじゃないのか?」


少年は首を横に振った。


「違うよ」


「じゃあ……」


「あなたが僕に言ったんだ」


少年の声が震えた。


「『お前は物語を読む側でいい』って」


恒一は何も言えなかった。


「あなたは主人公になった」


「……」


「僕は読者になった」


「……」


「そして、少女は――」


少年が少女を見る。


少女は俯いていた。


「物語そのものになった」


恒一の背筋が凍った。


「……どういうことだ?」


少女は顔を上げた。


「私は、二人をつなぐために残ったの」


「二人?」


「あなたと、この子」


少女が少年を見る。


「でも、二人をつなぐには――」


少女は自分の胸に手を当てた。


「私自身が、物語にならなければならなかった」


恒一は首を振る。


「待て」


頭の中で、これまでの出来事がつながり始める。


少女が名前を失った理由。


美月という名前を奪われた理由。


自分が二十年前に死んだ理由。


何度も現れた「神谷恒一」。


そして――


読者。


「……じゃあ」


恒一は少女を見る。


「俺たち三人は、最初から一つの物語だった?」


少女は答えない。


黒い本が答えた。


«『違う。』»


恒一が本を見る。


«『最初は三つの物語だった。』»


一行。


«『神谷恒一の物語。』»


二行目。


«『少女の物語。』»


三行目。


«『最初の読者の物語。』»


そして。


三つの文章が重なった。


«『三つの物語を、一つにした人物がいる。』»


恒一は息を呑んだ。


「……誰だ?」


黒い本が沈黙する。


少女が震える。


少年が目を閉じる。


そして――


黒猫堂の奥から、声がした。


「私だよ」


恒一は振り返った。


そこにいたのは――


母親だった。


「……母さん?」


神谷真紀。


二十年前に死んだはずの母。


病院で自分を選んだ母。


いや。


自分ではない誰かを選んだ母。


真紀はゆっくり歩いてくる。


「久しぶりね、恒一」


恒一は後ずさった。


「……どうしてここにいる?」


母は答えた。


「あなたたちを、ここに残したのは私だから」


少女が叫ぶ。


「違う!」


母が少女を見る。


「違わないわ」


「あなたは私を選ばなかった!」


「ええ」


母は静かに答えた。


「だから、あなたを物語に残した」


恒一は息を呑んだ。


「……何のために?」


母は黒い本を見る。


「あなたを生き返らせるため」


「俺を?」


「そう」


母は頷く。


「でも、あなた一人を戻すことはできなかった」


「だから……」


「一人を残す必要があった」


母の目が、少年へ向く。


「最初は、この子だった」


少年が俯く。


「でも、この子は自分から読者になった」


そして。


母は恒一を見る。


「だから次に、あなたを作った」


恒一の呼吸が止まった。


「……作った?」


「あなたの記憶を集めた」


母の声が淡々としている。


「あなたの名前を与えた」


「……」


「あなたの人生を書いた」


「……」


「そして――」


母が一歩近づく。


「本物のあなたを、物語の中に閉じ込めた」


恒一の頭の中で、


何かが崩れた。


「じゃあ……俺は?」


母は悲しそうに笑った。


「あなたは――」


一瞬。


言葉を選ぶように黙ってから。


「あなたは、本物よ」


恒一は目を見開いた。


「……え?」


「でも」


母は続ける。


「あなた一人では、本物になれなかった」


黒い本が激しく震え始めた。


ページに文字が浮かぶ。


«『神谷恒一は、一人の人間ではない。』»


恒一は叫んだ。


「違う!」


文字が消える。


新しい文字。


«『神谷恒一は、二つの存在が共有した名前である。』»


消える。


さらに。


«『そして、その名前を最初に読んだ人間が――』»


ページが真っ黒になる。


数秒後。


白い文字が一つだけ現れた。


«『読者』»


恒一は動けなかった。


母が静かに言う。


「だから、あなたは何度でも戻ってくる」


「……」


「何度でも本を読む」


「……」


「何度でも自分を探す」


「……」


「そして、何度でも――」


母は少年を見る。


「この子を忘れる」


少年の手が震えた。


恒一はその手を握り直す。


「……もう忘れない」


母が微笑む。


「そう」


「今度は絶対に」


「それなら――」


母が黒い本を指差した。


「最後の選択をしましょう」


本が開く。


ページいっぱいに、三つの選択肢が現れた。


«① 神谷恒一を現実へ戻す。»


«② 最初の読者を現実へ戻す。»


«③ 三人とも物語に残る。»


恒一は三つの文字を見つめた。


だが。


その下に――


もう一つ。


今まで存在しなかった選択肢が現れた。


«④ 名前を捨てる。»


恒一は息を呑む。


少女が呟いた。


「それを選んだら……」


「どうなる?」


少女は答えた。


「誰も主人公じゃなくなる」


少年が続ける。


「誰も読者じゃなくなる」


母が言う。


「そして――」


黒い本が最後の一文を書き始めた。


«『物語そのものが、存在する理由を失う。』»


恒一はページを見つめた。


これまで何度も選択を迫られてきた。


誰かを残す。


誰かを消す。


物語を終わらせる。


だが。


今度の選択は違う。


主人公も。


読者も。


物語も。


全部を捨てる選択だった。


恒一はゆっくりと手を伸ばす。


④へ。


その指が触れる直前――


少年が叫んだ。


「待って!」


恒一が振り返る。


少年の目から涙が落ちていた。


「それを選んだら――」


「……何が起こる?」


少年は答えた。


「僕たちは、二度と会えなくなる」


恒一の手が止まった。


そして。


少年は、初めて自分の名前を口にした。


「だって――」


少年は笑った。


「僕は、あなたが読むために生まれたから。」


黒い本が閉じる。


そして表紙に――


新しいタイトルが浮かんだ。


«『第26話 選ばれなかった人』»


その下に。


誰も書いていないはずの一文が現れた。


«『次に消えるのは、名前ではない。』»


恒一はその続きを見た。


«『記憶である。』»


そして――


少年の顔が、


少しずつ、


恒一の記憶から消え始めた。

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