第25話 第一の読者
「今度は、僕が読む番だね」
十歳の少年がそう言った。
恒一は動かなかった。
少年の手には、黒い本。
その表紙には、何も書かれていない。
けれど――
恒一には分かっていた。
あの本だ。
二十年前。
自分が見つけた本。
何度も読み、
何度も捨て、
何度も逃げようとして、
それでも必ず戻ってきた本。
「……やめろ」
恒一が言った。
少年は首を傾げる。
「どうして?」
「その本を開いたら、また始まる」
「うん」
少年は頷いた。
「始まるよ」
「……分かってるなら、開くな」
「でも」
少年は本を抱きしめた。
「もう、終わったんだよ」
恒一は眉を寄せた。
「何が?」
少年は、店の中を見回した。
「第一の物語」
カウンターの上に置かれた古い本。
そこには、まだ文字が残っている。
«『第一の物語は終了しました。』»
恒一は、その下を指差した。
「だったら、なんで本がある?」
少年は笑った。
「物語が終わっても、本は残るから」
「……」
「それに」
少年は続けた。
「終わったのは、物語だよ」
一瞬。
少年の顔から笑顔が消えた。
「読者じゃない」
恒一の背中に、冷たいものが走った。
「……読者って、誰だ?」
少年は答えなかった。
代わりに、黒い本を床に置いた。
そして。
表紙を開く。
一ページ目。
そこには、何も書かれていない。
二ページ目も。
三ページ目も。
真っ白だった。
恒一は少しだけ安心した。
「……何も起きない」
「うん」
少年が頷く。
「まだね」
「まだ?」
少年がページをめくる。
四ページ目。
五ページ目。
六ページ目。
何もない。
そして――
七ページ目。
そこに、文字が浮かんだ。
«『読者は、物語の外にいる。』»
恒一は息を呑んだ。
「……違う」
少年を見る。
「それは違う」
「どうして?」
「俺はもう知ってる」
恒一は本を見つめる。
「読者は外にいるんじゃない」
「じゃあ、どこにいるの?」
恒一は答えようとして――
言葉を失った。
その瞬間。
背後から声がした。
「ここにいるよ」
少女だった。
恒一が振り返る。
少女は店の入口に立っていた。
雨に濡れている。
けれど。
以前とは違った。
足元に水滴が落ちていない。
服も濡れていない。
まるで――
雨そのものから切り離されたようだった。
「……お前」
恒一が近づく。
「どうやってここに?」
少女は笑った。
「名前を呼ばれていないから」
「……」
「私は、まだ固定されていない」
少女は恒一を見る。
「だから、どこにでも行ける」
恒一は目を細めた。
「じゃあ……」
「うん」
少女は頷く。
「あなたが名前を呼ばない限り」
「……」
「私は自由」
恒一は黙った。
すると。
少年がページをめくった。
八ページ目。
文字が浮かぶ。
«『第一の読者は、名前を持たない。』»
少女の顔が強張った。
恒一が彼女を見る。
「……知ってるのか?」
少女は答えない。
「第一の読者って誰だ?」
「知らない」
「嘘だ」
「本当に知らない」
「じゃあ、なんでそんな顔をする?」
少女は唇を噛んだ。
そして。
小さく言った。
「怖いから」
「何が?」
少女は黒い本を見る。
「第一の読者が、誰なのか」
その瞬間。
本のページが勝手にめくれた。
九ページ。
十ページ。
十一ページ。
紙が激しく震える。
そして――
文字が現れた。
«『第一の読者は、すでにこの店にいる。』»
恒一の心臓が跳ねた。
店内を見る。
黒田。
少年。
少女。
自分。
四人しかいない。
「……誰だ?」
黒田は何も言わない。
少年も黙っている。
少女は俯いている。
恒一は一人ずつ見た。
そして。
最後に――
自分を見た。
「……まさか」
黒い本に新しい文字が浮かぶ。
«『神谷恒一ではない。』»
恒一の顔が強張った。
続いて。
«『少女ではない。』»
少女が息を呑む。
そして。
«『少年でもない。』»
十歳の少年が本を落とした。
床に、
ドサッ。
という音が響く。
最後の一行。
«『第一の読者は、黒猫堂の店主でもない。』»
恒一は凍りついた。
「じゃあ……誰なんだ?」
本が沈黙する。
しばらくして。
ページの中央に、
ゆっくりと一文字が浮かんだ。
«『あなた。』»
恒一は息を呑んだ。
「……俺?」
少女が首を横に振る。
「違う」
「え?」
「その『あなた』は、恒一じゃない」
少女は、恒一の背後を見ていた。
「……じゃあ誰?」
少女は答えなかった。
ただ。
恒一の後ろを指差した。
そこには――
誰もいなかった。
けれど。
床には椅子が一脚置かれていた。
さっきまでなかった椅子。
古い木製の椅子。
誰かが座った跡のように、
座面だけが濡れている。
恒一は近づいた。
そして。
椅子の上に置かれているものを見つけた。
一枚の紙。
そこには、子供の字で書かれていた。
«『ここに座って、この本を最初に読んだ人へ。』»
恒一は紙を裏返した。
裏には――
名前が書かれていた。
しかし。
名前の部分だけが、黒く塗り潰されている。
その下に、一文。
«『あなたが私を忘れたから、私はあなたの代わりに読者になった。』»
恒一の指が震える。
「……俺が忘れた?」
少女が呟く。
「そう」
「誰を?」
少女は答えなかった。
恒一は紙を握りしめる。
「思い出せない」
「思い出さなくていい」
「いや」
恒一は首を振った。
「もう逃げない」
少女を見る。
「俺は、今まで何度も忘れた」
「……」
「誰かを守るためとか、物語を終わらせるためとか」
恒一は、自分の手を見る。
「でも、そのたびに誰かが消えた」
少女の目に涙が浮かぶ。
恒一は続けた。
「だから今度は――」
一歩。
椅子に近づく。
「忘れない」
その瞬間。
店内のすべての時計が動き始めた。
カチ。
カチ。
カチ。
午後十一時十三分。
午後十一時十四分。
午後十一時十五分。
時間が――
進んでいる。
今まで止まっていた時間が。
恒一は息を呑んだ。
「……時間が進んでる」
黒田が初めて口を開いた。
「ええ」
「どういうことだ?」
黒田は静かに答えた。
「第一の物語が終わったからです」
「じゃあ、これからは?」
黒田は少年を見る。
少年は黒い本を拾い上げた。
そして。
恒一を見る。
「第二の物語」
少年が笑った。
「始めよう」
黒い本が開く。
最初のページ。
そこに――
新しいタイトルが浮かんだ。
«『第二の物語――最初の読者』»
恒一はページを見つめる。
すると。
そのタイトルの下に、もう一行。
«『この物語の主人公は、神谷恒一ではない。』»
恒一の胸がざわつく。
さらに文字が増える。
«『主人公は、最初にこの本を読んだ人間である。』»
そして最後に。
«『その人物は、すでに死んでいる。』»
恒一は顔を上げた。
「……死んでる?」
黒田が黙っている。
少女も。
少年も。
誰も答えない。
そのとき。
店の奥から――
コツ。
という音がした。
誰かが歩いてくる。
コツ。
コツ。
コツ。
恒一は息を凝らす。
暗い棚の向こう。
人影が見えた。
小さな影。
十歳くらいの子ども。
その子どもがゆっくりと姿を現す。
恒一は絶句した。
――自分だった。
十歳の自分。
けれど。
さっきの少年とは違う。
服も違う。
表情も違う。
そして、その少年は――
恒一を見て笑った。
「やっと会えた」
「……誰だ」
少年は答えた。
「僕は――」
黒い本が、突然閉じた。
そして。
表紙に文字が浮かび上がる。
«『第一の読者が帰ってきた。』»
少年が笑う。
「僕のこと、忘れたでしょ?」
恒一の頭の奥で――
二十年前の記憶が、
初めて完全につながった。
少女。
自分。
そして――
もう一人。
三人で黒い本を囲んでいた。
そして自分は、その子に言っていた。
『お前が読んで』
少年が答えた。
『嫌だよ』
『じゃあ、僕が読む』
その直後。
自分は――
その子の手を離した。
恒一の顔から血の気が引いた。
「……俺が」
少年が笑う。
「うん」
「俺が、お前の手を――」
「離した」
その瞬間。
少年の姿が、
少しずつ薄くなっていく。
「だから僕は――」
少年は恒一へ手を伸ばした。
「ずっと、読者だった」
恒一は反射的に、その手を掴んだ。
小さな手。
あの日と同じ。
温かい手。
少年が驚いた顔をする。
恒一は強く握った。
「今度は離さない」
黒い本が激しく震える。
ページに、一行が浮かんだ。
«『選択が変更されました。』»
そして。
その下に――
今まで一度も見たことのない文字が現れた。
«『第一の読者は、物語から戻ることができる。』»
恒一は息を呑む。
しかし、その直後。
さらに一行。
«『ただし――代わりに、誰か一人が読者として残らなければならない。』»
恒一は少年を見る。
少年は笑っていた。
そして。
少女もまた、恒一を見ていた。
二人とも何も言わない。
恒一は気づいた。
この物語は――
まだ終わっていない。
終わったのは、
第一の物語だけだった。
そして今度こそ。
本当に選ばなければならない。
誰を現実へ戻すのか。
誰を物語に残すのか。
その選択を――
黒い本は、まだ恒一には委ねなかった。
最後のページに、ただ一言だけが浮かんだ。
«『次に選ぶのは、あなたではない。』»
恒一は凍りついた。
そして。
ページの下に、もう一行。
«『次に選ぶのは――最初の読者です。』»




