第24話「次の主人公」
黒い本が、そこにあった。
誰かの手の中に。
いや――
あなたの手の中に。
恒一は、その光景を見つめていた。
「……違う」
自分でも、何が違うのか分からない。
ただ。
あの本を知っている。
表紙も。
匂いも。
紙をめくる感触も。
そして何より――
最初に聞いた言葉。
『最後まで読まないでください』
恒一は思い出した。
黒猫堂。
五百円。
雨の夜。
午後十一時十三分。
あの夜。
自分は一人で本を開いた。
そう思っていた。
だが。
違った。
隣に――
誰かがいた。
ずっと。
自分の手を握っていた。
「……そういうことだったのか」
恒一は呟いた。
少女が振り返る。
「何が?」
「俺が本を開いたとき」
恒一は自分の手を見る。
「俺は一人じゃなかった」
少女の表情が変わる。
「……思い出したの?」
「うん」
「誰がいた?」
恒一は答えようとして――
止まった。
名前が出てこない。
顔も思い出せない。
ただ。
手の感触だけが残っている。
小さな手。
温かい手。
ずっと自分の手を握っていた手。
「名前は?」
少女が尋ねる。
「分からない」
「それでいい」
少女は悲しそうに笑った。
「名前を思い出さなくても、存在はできるから」
その言葉に。
恒一は違和感を覚えた。
「……待って」
「何?」
「じゃあ、今までの名前って何だったんだ?」
少女が黙る。
恒一は続けた。
「神谷恒一」
「……」
「白石美月」
「……」
「お前の名前」
少女の顔が強張る。
「それらは全部――」
恒一は本を見る。
「存在を固定するための名前だったんじゃないか?」
少女は答えなかった。
代わりに。
黒い本が開いた。
«名前とは、存在を固定するための杭である。»
恒一は息を呑む。
«名前を与えられた者は、物語から逃げられない。»
少女が小さく呟いた。
「だから私は、自分の名前を言えなかった」
「……」
「あなたが『美月』って呼んだとき」
少女は胸元を押さえる。
「私は、物語の中に固定された」
恒一は思い出す。
子供の頃。
自分が少女に名前をつけた。
「美月」
それが彼女を縛った。
そして。
自分自身にも。
「神谷恒一」
という名前を与えた。
その結果――
二人とも物語から逃げられなくなった。
「じゃあ……」
恒一は少女を見る。
「俺が名前を捨てれば、お前も自由になれる?」
少女は答えない。
その代わり。
微笑んだ。
「もう一つだけ必要」
「何?」
「あなたが――」
少女は自分の手を差し出した。
「私の名前を呼ばないこと」
恒一は、その手を見た。
「それだけ?」
「ううん」
少女は首を振る。
「もう一つ」
「何?」
「私を忘れないこと。」
矛盾していた。
名前は呼ばない。
でも忘れない。
恒一はその意味を考える。
すると。
本に文字が浮かんだ。
«名前を忘れることと、存在を忘れることは同じではない。»
«名前を失っても、記憶されている限り存在できる。»
恒一は笑った。
「なるほど」
「分かった?」
「少しだけ」
そして。
少女の手を握った。
今度は。
自分から。
「名前は呼ばない」
少女が頷く。
「うん」
「でも、お前のことは忘れない」
少女の目から涙が落ちた。
その瞬間。
本が激しく震えた。
«契約条件が変更されました。»
「契約?」
恒一が本を見る。
«名前による固定を解除。»
«記憶による存在を許可。»
«二人の存在を一つにしない。»
そして。
これまで何度も現れた文章が――
初めて書き換わった。
«神谷恒一は、一人である。»
消える。
«神谷恒一は、二人である。»
消える。
«神谷恒一は、存在しない。»
消える。
最後に。
真っ白なページ。
何も書かれていない。
恒一はページを撫でた。
「……初めてだ」
「何が?」
「本が俺について何も書いてない」
少女が笑う。
「だから自由なんだよ」
その瞬間。
背後から。
拍手が聞こえた。
パチ。
パチ。
パチ。
恒一が振り返る。
そこには。
白衣の男が立っていた。
「おめでとうございます」
「……お前は誰だ?」
「それを知る必要はありません」
「じゃあ、何しに来た?」
男は笑った。
「確認に来ました」
「何を?」
「あなたが、本当に物語から出られるかどうか」
男は白い扉を指差した。
「行ってください」
恒一は扉を見る。
向こうには。
雨の夜。
黒猫堂。
そして――
自分の姿。
本を手にした三十四歳の恒一。
「……あれは?」
「あなたです」
「いつの俺?」
「最初の日」
恒一は凍りつく。
「じゃあ、今ここから出たら――」
「はい」
白衣の男は答えた。
「あなたは、もう一度あの夜に戻ります」
「……ループ?」
「違います」
男は首を振る。
「始まりに戻るだけです。」
恒一は少女を見る。
少女は首を振った。
「行かないで」
「でも、ここにいても――」
「違う」
少女は言った。
「扉の向こうに行ったら、あなたはまた本を開く」
「じゃあ、どうすればいい?」
少女は答えた。
「開かなければいい」
恒一は白い扉を見る。
そこには。
黒猫堂の看板が見える。
雨が降っている。
店の中には。
黒田恒一郎。
そして。
カウンターの上に――
あの黒い本。
黒田が笑っている。
『五百円でいい』
恒一は一歩後退した。
「……あの店を止めればいい」
白衣の男が笑う。
「できますか?」
「やってみる」
恒一は扉を開いた。
雨の音が大きくなる。
そして。
黒猫堂へ足を踏み入れる。
黒田が顔を上げる。
「……いらっしゃい」
恒一は店内を見回した。
「黒田さん」
「はい」
「その本を売るな」
黒田は黙った。
「この本を誰にも渡すな」
「それは――」
「俺が買う」
黒田が目を細める。
「また?」
恒一の動きが止まった。
「……また?」
黒田は笑った。
「あなたは、もう何度もここに来ている」
恒一の顔から血の気が引く。
「何回?」
黒田は指を折る。
「一回」
「二回」
「三回」
「四回……」
そこで。
指が止まった。
「数えるのをやめました」
恒一はカウンターを見る。
そこには。
大量の黒い本が積まれている。
一冊。
二冊。
三冊。
十冊。
百冊。
全部同じ。
しかし。
表紙に書かれているタイトルだけが違う。
『最後のページを読んだ人』
『あなたが次の主人公』
『存在しない主人公』
そして。
一番下。
古びた一冊。
タイトルがない。
恒一がそれを手に取る。
裏表紙に。
小さな文字があった。
«第一の読者へ。»
恒一は息を呑む。
「……第一の読者?」
黒田が言った。
「それを読んだら、戻れなくなりますよ」
「誰からのメッセージだ?」
「あなたからです」
恒一の指が止まる。
「……俺?」
「はい」
黒田は奥の棚を指差した。
「二十年前」
「あなたはそこに、それを隠しました」
恒一は棚を見る。
その奥から。
何かが落ちた。
古い写真。
恒一が拾い上げる。
そこには。
幼い恒一。
少女。
父親。
母親。
そして――
もう一人。
全員が手を繋いでいる。
恒一は写真の裏を見る。
そこには。
子供の字で。
こう書かれていた。
«「手を離さなかった人だけが、最後まで残る。」»
恒一の手が震えた。
その瞬間。
店の入口から。
小さな足音がした。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
恒一が振り返る。
雨の中から。
十歳の少年が入ってくる。
最初の神谷恒一。
その手には――
黒い本。
少年は恒一を見る。
そして。
静かに言った。
「今度は、僕が読む番だね」
本が開く。
最後のページ。
そこに新しい文字が現れた。
«第一の物語は終了しました。»
恒一は息を呑む。
その下。
«しかし、読者はまだ終わっていません。»
さらに。
«なぜなら――»
最後の一行。
«あなたは、このページを読むために、まだ手を離していない。»




