第23話「握っていた手」
名前を読んだ。
その瞬間。
恒一の視界が真っ白になった。
何もない。
音もない。
雨も。
病院も。
少女も。
兄も。
父親も。
全部が消えていた。
ただ――
誰かの手だけが、自分の手を握っている。
「……誰だ?」
恒一は聞いた。
返事はない。
握られた手に力が入る。
ぎゅっ。
まるで、
「ここにいる」
そう伝えるように。
恒一はその手を見た。
小さい。
細い。
子供の手だった。
そして。
その手首には――
黒い鉛筆の跡が残っていた。
恒一は息を呑む。
「……この手」
見覚えがあった。
ずっと昔。
二十年前。
神社で黒い本を開いたとき。
幼い自分の隣にいた――
少女の手。
「……お前?」
少女の声がした。
『違う』
「え?」
『私は、あなたの手を握っていない』
声は少女のものだった。
しかし。
声だけが聞こえる。
姿はない。
『ずっと握っていたのは――』
そこで声が止まった。
恒一は手を見つめる。
そして。
ようやく気づいた。
この手は、
今、握った手ではない。
ずっと前から。
自分が物語から消えかけるたびに、握られていた手だった。
第21話。
恒一が消えかけたとき。
誰かが手を握った。
そのおかげで、恒一は消えなかった。
あのとき。
恒一は「読者の手」だと思った。
違った。
「……ずっと、俺を握ってたのか?」
暗闇の中で。
手が少しだけ動いた。
小さな指が。
恒一の指を一本、握り直す。
そして。
声がした。
『うん』
少女だった。
『あなたが何度消されても、私は手を離さなかった』
「でも……」
恒一は混乱する。
「お前は、本の中に閉じ込められていたんじゃないのか?」
『そう』
「じゃあ、どうして俺の手を握れる?」
少女は答えた。
『私は本の中にいる』
一拍。
『でも、あなたが読むたびに――』
暗闇に文字が浮かぶ。
«物語と現実の境界が、一ページだけ重なる。»
恒一は息を呑んだ。
『その一ページだけなら、手を伸ばせる』
「……だから」
『うん』
『私は、あなたを何度も引っ張った』
恒一は思い出した。
本を閉じようとしたとき。
消えかけたとき。
名前を失いそうになったとき。
なぜか。
いつも誰かに触れられている感覚があった。
肩。
背中。
手。
それは全部――
少女だった。
しかし。
恒一は一つの疑問に気づいた。
「じゃあ……俺が感じていた『読者の手』は?」
少女が黙る。
「お前じゃなかったのか?」
『……違う』
「じゃあ誰だ?」
少女の手が震えた。
『あれは……』
そこで。
黒い文字が暗闇に現れた。
«読者の手ではない。»
恒一は目を見開いた。
続いて。
«読者が握っていた手である。»
「……え?」
文字が変わる。
«読者が、恒一の手を握ったのではない。»
«恒一が、読者の手を握っていた。»
「……何を言ってる?」
その瞬間。
恒一の手の中に。
別の感触が生まれた。
小さな手ではない。
大人の手。
温かい。
震えている。
恒一はその手を見た。
暗闇の向こうに。
初めて。
人間の姿が現れた。
顔は見えない。
ただ。
右手だけが見える。
恒一と手を繋いでいる。
その手には――
黒い本が一冊。
「……誰だ?」
その人物は答えない。
代わりに。
本を開いた。
最初のページ。
そこには。
見慣れた文章があった。
«雨の夜、神谷恒一は黒い本を手に入れた。»
恒一は震えた。
「……これ」
違和感。
文章が違う。
恒一が覚えている第1話ではない。
そこには――
最初から。
二人の人間が描かれていた。
«神谷恒一は、一人ではなかった。»
その下に。
もう一行。
«彼は、誰かの手を握っていた。»
恒一は息を呑んだ。
「……最初から?」
人物が頷く。
「じゃあ……」
恒一の声が震える。
「俺が本を開いたときから、誰かがいたのか?」
人物は答えない。
ただ。
本のページをめくる。
二ページ目。
三ページ目。
そして。
第1話の最後。
あの文章。
«この物語を最後まで読んではいけない。»
恒一は思い出した。
あの夜。
本を開いたとき。
一人だったと思っていた。
だが。
本当は――
誰かが隣に座っていた。
ただ。
その人物を。
恒一は忘れていた。
「……お前」
恒一は、その人物の手を強く握る。
「俺が忘れてた人間なのか?」
人物は初めて口を開いた。
「そうだよ」
声は――
恒一自身の声だった。
「僕は、ずっと君の隣にいた」
恒一の全身が震える。
「……三人目の恒一?」
「違う」
「じゃあ誰だ?」
「君が忘れた人」
恒一の脳裏に。
幼い頃の記憶が一気に流れ込んでくる。
神社。
雨。
黒い本。
少女。
父親。
母親。
そして。
もう一人。
いつも自分の隣にいた。
本を開くとき。
眠るとき。
泣いたとき。
笑ったとき。
ずっと。
手を繋いでいた。
「……兄さん?」
違う。
「……友達?」
違う。
「じゃあ……」
恒一はその顔を見る。
顔がない。
いや。
顔はある。
ただ。
恒一と同じ顔だった。
「……俺?」
その人物が笑う。
「そう」
「俺なのか?」
「半分だけ」
恒一の呼吸が止まった。
「半分?」
「君が今まで『神谷恒一』だと思っていた人生は――」
人物は言った。
「僕と君で、一つだった」
本が震える。
«最初の神谷恒一は、一人の人間ではなかった。»
«二人の存在を一つの名前にした。»
恒一は理解できない。
だが。
記憶だけが戻ってくる。
幼い自分。
その隣にいるもう一人の自分。
二人で鉛筆を持って。
黒い本に名前を書く。
神谷恒一。
一つの名前。
二つの存在。
父親がそれを見つける。
「……二人いる?」
幼い恒一が答える。
「うん」
「どうして?」
「だって僕たち――」
幼い二人が手を繋ぐ。
「一人だから」
父親は怯えていた。
「一つの名前に二人の人間を入れるなんて……」
そして。
父親は本を閉じた。
「この本にそんなことを書いたら――」
そこで記憶が途切れる。
恒一は叫んだ。
「その後は!?」
暗闇。
誰も答えない。
すると。
手を握っていた人物が言った。
「僕が消された」
「……」
「君を残すために」
「誰が?」
「父さん」
恒一は息を呑んだ。
「でも……」
「僕は死んでない」
「じゃあ、どこに?」
人物は黒い本を指差した。
「ここ」
その瞬間。
恒一は理解した。
二十年間。
本の中にいたのは――
少女だけではない。
兄だけでもない。
十四歳の自分だけでもない。
もう一人の「神谷恒一」も、ずっと本の中にいた。
そして。
第21話で握られた「読者の手」。
あれは。
読者が恒一を救ったのではなかった。
恒一が――
本の中にいるもう一人の自分を、無意識に握り返していたのだ。
だから。
消えなかった。
だから。
存在できた。
だから。
「読者の手」だと思った。
自分の存在を支えていたのは――
自分自身だった。
本が静かに閉じる。
最後のページに。
新しい文章が現れた。
«伏線回収。»
恒一は目を疑った。
そして。
その下に。
«読者の手とは、物語の外から伸びてきた手ではない。»
«物語の中から、外へ伸びようとしていた手である。»
さらに。
«そして、その手を握ったのは――»
恒一はページを見つめる。
文字が一つずつ現れる。
«神谷恒一自身だった。»
「……俺が?」
その瞬間。
暗闇の向こうに。
一つの扉が現れた。
白い扉。
その向こうから。
雨の音が聞こえる。
現実の音。
もう一人の恒一が言った。
「行って」
「どこへ?」
「外へ」
「お前は?」
少年は笑った。
「僕は残る」
「どうして?」
「一人しか出られないから」
恒一は首を振った。
「嫌だ」
「え?」
「もう、誰かを犠牲にして生きるのは嫌だ」
少年は黙った。
恒一は手を伸ばす。
「一緒に行こう」
「無理だよ」
「やってみなきゃ分からない」
恒一は手を握った。
今度は。
誰かに握られるのではなく。
自分から握った。
その瞬間。
黒い本が激しく震えた。
«二つの存在が、一つの名前を拒絶しました。»
ページが裂ける。
«神谷恒一という名前を捨てる。»
さらに。
«一人になることを拒否する。»
さらに。
«物語のルールを拒絶する。»
そして。
最後の一行。
«その結果――»
ページが真っ白になる。
何も書かれない。
恒一は息を呑む。
「……何も書かれてない」
もう一人の恒一が笑う。
「そう」
「どうして?」
「だって――」
少年は恒一の手を握る。
「ここから先は、誰にも書けないから。」
白い扉が開いた。
眩しい光。
その向こうに――
雨の降る現実世界が見える。
恒一は一歩、踏み出した。
その瞬間。
背後から。
少女の声が聞こえた。
「恒一!」
振り返る。
少女が立っている。
泣いている。
「ありがとう」
「何が?」
少女は笑った。
「初めて――」
「誰も、誰かの代わりにならなかった」
恒一は手を伸ばした。
少女も手を伸ばす。
だが。
二人の指先が触れる直前。
本が最後のページをめくった。
そこには。
今までとは違う文章があった。
«読者へ。»
恒一は立ち止まった。
«あなたがここまで読んだことで、最初の物語は終わった。»
«しかし――»
最後の一行。
«あなたが握っているものを、一度確認してください。»
恒一は凍りついた。
物語の外。
読者の手。
その手には――
黒い本が握られていた。
そして。
本の表紙には。
新しいタイトルが浮かんでいる。
«『あなたが次の主人公』»
その下に。
小さく。
しかし確実に。
一つの文章が現れた。
«第一話は、あなたが本を開いた瞬間から始まる。»




