第22話「存在しない主人公」
誰かが、恒一の手を握っていた。
温かい。
確かに、人間の手だった。
けれど。
そこに人間の姿はない。
恒一には分かった。
これは――
読者の手だ。
「……誰なんだ」
恒一が呟く。
返事はない。
ただ、握る力だけが強くなる。
消えかけていた指先が、わずかに戻った。
「俺を……戻してくれるのか?」
沈黙。
代わりに。
黒い本が震えた。
«読者は、神谷恒一を掴んだ。»
恒一は目を見開く。
「掴んだ?」
«存在しているものしか、掴めない。»
その文章を見た瞬間。
少女が泣きながら笑った。
「……まだ消えてない」
「俺は……存在してる?」
「うん」
「じゃあ、どうして消えかけた?」
少女は答えなかった。
代わりに。
鳥居の下に立っていた少年が口を開いた。
「君が主人公だからだよ」
恒一は少年を見る。
「……主人公?」
「そう」
少年は笑う。
「主人公は、物語が終わるまで存在できない」
「そんなの――」
「普通の話ならね」
少年は黒い本を掲げた。
「この本では違う」
ページが開く。
«主人公は、物語を成立させるために存在する。»
«しかし、主人公が自分自身の物語を拒絶した場合――»
文字が止まる。
恒一は続きを待った。
«主人公は不要になる。»
「……だから俺を消すのか」
「違う」
少年が首を振る。
「消したいんじゃない」
「じゃあ何だ?」
「交代させたいんだよ。」
恒一の背筋が凍った。
「誰と?」
少年が笑った。
そして。
自分の後ろを指差した。
そこにいたのは――
幼い恒一だった。
十歳。
白い服。
濡れた髪。
手には鉛筆。
「……俺?」
「最初の主人公」
少年が言った。
「君は二十年前、その子の代わりになるために作られた」
「じゃあ、俺はずっと……」
「そう」
「この子の代わり?」
「違う」
少年は静かに言った。
「この子が消えた後に、物語を続けるための存在。」
幼い恒一がこちらを見る。
その目は、子供のものとは思えないほど静かだった。
「僕は死んだ」
幼い恒一が言った。
「だから、君が必要だった」
「……誰に?」
幼い恒一は答えなかった。
その代わり。
少女を見た。
「彼女に」
少女が震えた。
「違う」
「君が僕を作った」
「違う!」
「君がお願いした」
少女の顔が歪む。
「お願い……?」
恒一は少女を見る。
「何をお願いしたんだ?」
少女は泣きながら首を振った。
「……言えない」
「言ってくれ」
「言ったら、また同じことになる」
「何が?」
少女は唇を震わせる。
そして。
ようやく口にした。
「私は……」
一拍。
「あなたを生き返らせてって、お願いした。」
恒一は固まった。
「俺を?」
「うん」
「でも、俺は……」
「死んでた」
少女の声が震える。
「あなたは二十年前に死んだ」
「じゃあ、母さんが俺を?」
「違う」
「父さんが?」
「違う」
「じゃあ誰が?」
少女は答えた。
「私」
静寂。
雨の音だけが響く。
恒一は理解できなかった。
「でも……お前は、俺が作ったんじゃないのか?」
「それも本当」
「どういうことだよ」
少女は目を閉じる。
「あなたが私を物語に書いた」
「……」
「そして私は、その物語の中であなたを生き返らせた」
恒一の頭の中で。
すべてが反転した。
自分が少女を作った。
少女が自分を生き返らせた。
卵が先か。
鶏が先か。
始まりがどこなのか分からない。
本が答えた。
«この物語には、最初が存在しない。»
«誰かが誰かを作った。»
«作られた者が、作った者を生み直した。»
恒一は本を見つめる。
「……じゃあ、この物語を始めたのは誰なんだ?」
ページに。
一文字。
また一文字。
文字が浮かぶ。
«あなたです。»
「俺?」
«いいえ。»
消える。
そして。
«読者です。»
恒一は息を呑んだ。
「読者が始めた?」
«読者が読むことで、物語は始まる。»
«読者が忘れることで、物語は過去になる。»
«読者が思い出すことで、物語は現実になる。»
恒一の身体が再び薄くなった。
「待て!」
少女が恒一の腕を掴む。
「恒一!」
「俺は……どうすればいい?」
「名前を捨てて」
「……何?」
「神谷恒一という名前を捨てて」
少女の目には涙が溜まっている。
「そうすれば、あなたは物語から自由になれる」
「じゃあ、俺は誰になる?」
「分からない」
「それじゃ意味がない」
「でも――」
少女は恒一を強く抱きしめた。
「それでも、生きられる」
恒一は目を閉じた。
その瞬間。
背後から声がした。
「やめろ」
兄だった。
「その名前を捨てたら――」
兄は震えていた。
「本当に戻れなくなる」
恒一は振り返る。
「戻るって、どこに?」
兄は答えられない。
十四歳の少年が言った。
「現実だよ」
「現実?」
「そう」
少年は言った。
「この物語の外」
恒一は息を呑む。
「俺は外に出られるのか?」
「一人だけなら」
「一人?」
少年は頷いた。
「この本のルールは簡単」
黒い本を閉じる。
「物語の中から現実に戻れるのは――」
そして。
恒一を見る。
「最後に残った一人だけ。」
恒一の背後で。
少女が静かに手を離した。
「……だから」
彼女は笑った。
「私が残る」
「何言ってるんだ」
「あなたを外に出す」
「無理だ」
「できるよ」
「どうやって?」
少女は本を開く。
そこには。
新しい選択肢があった。
«① 神谷恒一を現実へ戻す»
«② 少女を現実へ戻す»
«③ 二人とも物語に残る»
恒一はページを見つめた。
だが。
少女は、その下にある小さな文字を見ていた。
«④ 読者を現実へ戻す»
「……これ」
少女が呟いた。
恒一は振り返る。
「どうした?」
少女は震えていた。
「これなら……」
「何?」
「みんな助かる」
兄が叫んだ。
「違う!」
少女が本を閉じようとする。
しかし。
兄が駆け寄り、ページを押さえた。
「その選択肢は――」
兄の顔から血の気が引く。
「一番選んではいけない。」
「どうして?」
「読者が現実に戻ったら――」
兄はページを見る。
「この物語を、誰が続ける?」
沈黙。
本の文字が変わる。
«読者が現実に戻った場合。»
«物語は自動的に続きを生成します。»
さらに。
«次の読者を必要とします。»
恒一の背筋が凍る。
「……次の読者?」
その瞬間。
病院の世界が崩れ始めた。
神社。
病院。
家族写真。
少女。
兄。
すべてがページのように折り畳まれていく。
そして。
暗闇の中から。
大量の声が聞こえてきた。
子供。
老人。
男。
女。
知らない人間たち。
全員が同じ言葉を繰り返している。
「読んで」
「続きを読んで」
「最後まで読んで」
「私を忘れないで」
「私を消さないで」
「次のページを――」
恒一は耳を塞いだ。
「やめろ!」
その声の中に。
一つだけ。
聞き覚えのある声が混ざった。
「恒一」
父親だった。
「最後に一つだけ教えてやる」
恒一が顔を上げる。
父親が立っている。
もう死んだ人間の姿ではない。
若い頃の父。
その顔は、泣いていた。
「お前が探していた『最初の読者』は――」
父親が少女を見る。
次に。
恒一を見る。
そして最後に。
こちら側を見る。
「俺じゃない」
父親が言った。
「母親でもない」
「少女でもない」
「兄でもない」
「お前でもない」
父親は微笑む。
「最初の読者は――」
そこで。
本が閉じた。
真っ黒な表紙。
中央に。
たった一行。
«この本を最初に開いた人間を、あなたは知っている。»
恒一は息を呑んだ。
「……知ってる?」
本が震える。
そして。
表紙に。
新しい名前が浮かび上がった。
神谷恒一郎。
父親の名前。
しかし。
その名前の下に。
もう一つ。
誰も知らない名前が現れる。
それを見た瞬間。
少女が叫んだ。
「違う!」
兄も叫ぶ。
「その名前を読むな!」
だが。
もう遅かった。
恒一の目は、その名前を――
読んでしまった。
そして本が最後に書いた。
«第一の読者、死亡。
第二の読者、行方不明。
第三の読者、現在読書中。
第四の読者――
まもなく、あなたの隣に座る。»




