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『最後のページを読んだ人』  作者: こうた


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第21話「あなたが忘れた人」



本のページが、ひとりでに開いた。


恒一は動けなかった。


«この人物を思い出した瞬間、あなた自身が物語から消える。»


その一文だけが、黒いページの中央にあった。


「……誰なんだ」


恒一が呟く。


返事はない。


少女は俯いている。


兄も。


十四歳の少年も。


母親も。


白石美月も。


誰も恒一を見ようとしない。


「知ってるんだろ?」


恒一が尋ねる。


「この人物が誰なのか」


沈黙。


「答えてくれ」


それでも誰も答えない。


やがて。


少女が小さく口を開いた。


「……思い出さない方がいい」


「でも、俺が忘れた人間なんだろ?」


「そう」


「じゃあ、思い出せばいい」


「ダメ」


少女の声が強くなる。


「思い出したら、あなたが消える」


「だったら、消えればいい」


少女が顔を上げた。


「……え?」


「俺が何者なのか、もう分からない」


恒一は笑った。


「神谷恒一なのか。


偽物なのか。


何番目なのか。


生きてるのか死んでるのか。


そんなことばっかりだ」


そして本を見る。


「だったら、一度全部消してしまえばいい」


少女は首を振った。


「あなたが消えたら――」


「何が起きる?」


少女は答えなかった。


その代わり。


本のページに文字が現れた。


«神谷恒一は、自分が消えることを選んだ。»


「違う!」


恒一は叫んだ。


「まだ選んでない!」


文字が消える。


そして。


«では、何を選びますか?»


恒一は黙った。


また三つの選択肢が現れた。


«① 思い出す»


«② 忘れる»


«③ 読まない»


その下に。


小さな文字。


«※どれを選んでも、物語は進みます。»


「……ふざけるな」


恒一は本を睨んだ。


そのとき。


白石美月が言った。


「恒一さん」


「何?」


「一つだけ、分かっていることがあります」


美月は本を見る。


「この本は、未来を予言しているんじゃありません」


「知ってる」


「過去を改変しているんです」


恒一は黙った。


「だから……」


美月が続ける。


「『忘れた人』というのは、まだ存在している人間とは限りません」


「どういうこと?」


「あなたが忘れたから、存在しなくなった人間かもしれない」


恒一の心臓が跳ねた。


「……俺が?」


「はい」


「俺が忘れたから、誰かが消えた?」


「可能性があります」


少女が美月を見る。


「それ以上言わないで」


美月は首を振った。


「もう隠しても意味がない」


そして。


恒一に向き直る。


「恒一さん」


「……何?」


「あなたは、昔――」


その瞬間。


少女が美月の口を塞いだ。


「言っちゃダメ!」


「でも!」


「この人は、まだ知らなくていい!」


二人が睨み合う。


恒一はその間に割って入った。


「何を隠してる?」


少女は答えない。


恒一は美月を見る。


「言って」


美月は迷った。


そして。


静かに口を開く。


「あなたには、幼い頃……」


そこで。


病院の全ての時計が止まった。


午後十一時十三分。


恒一は時計を見る。


「また……」


本が震える。


ページに文字が走った。


«記憶の時間が来ました。»


病院の廊下が消えた。


壁が消える。


床が消える。


天井が消える。


恒一は暗闇の中に立っていた。


ただ一つ。


古い神社だけがある。


雨。


濡れた石畳。


赤い鳥居。


そして。


幼い自分。


十歳くらいの恒一がいた。


隣には少女。


二人で黒い本を開いている。


「これ……何?」


幼い恒一が聞く。


少女が答える。


「物語を書く本」


「誰の?」


「私たちの」


「どうやって書くの?」


少女は鉛筆を渡した。


「名前を書けばいいの」


幼い恒一が笑う。


「じゃあ、僕の名前を書く」


ページに。


幼い文字で。


神谷恒一


と書かれる。


その瞬間。


少女の表情が変わった。


「違うよ」


「何が?」


「あなたの名前じゃない」


「じゃあ何?」


少女はページを指差した。


そこには――


神谷恒一ではない名前が書かれていた。


恒一は目を凝らした。


読めない。


何度見ても。


名前だけが黒く塗りつぶされている。


幼い恒一が言った。


「この名前、誰?」


少女は泣きそうな顔で笑った。


「あなた」


「僕?」


「うん」


「じゃあ、なんで神谷恒一って書いたの?」


幼い恒一は少し考えた。


そして。


恐ろしいほど無邪気に言った。


「だって――」


「この名前の方が、主人公っぽいから」


現在の恒一は息を呑んだ。


「……俺が?」


その瞬間。


背後から声がした。


「そう」


振り返る。


そこには父親がいた。


若い頃の父。


まだ生きていた頃の姿。


「お前が書いたんだ」


「何を?」


父親は幼い恒一を指差す。


「主人公を。」


「……主人公?」


「最初の神谷恒一を」


恒一の頭が混乱する。


「じゃあ、あの子は?」


父親が少女を見る。


少女は黙っていた。


「この子は何者なんだ?」


父親は答えた。


「お前が書いた」


恒一は凍りついた。


「……俺が?」


「そうだ」


「でも、俺はこの子を知ってた」


「違う」


父親が首を振る。


「知っていたんじゃない」


一歩、近づく。


「お前が作ったから、知っていたと思い込んだんだ。」


少女の目から涙が落ちた。


「……嘘」


父親は冷たく言った。


「嘘じゃない」


「私は……」


少女が震える。


「私は最初からいた」


「そう思わせたのも、お前だ」


父親が幼い恒一を見る。


「お前は、本に最初の物語を書いた」


幼い恒一が鉛筆を握る。


そして。


何かを書く。


現在の恒一は、そのページを覗き込んだ。


そこには。


たった一行。


«僕が大きくなったら、僕の代わりになる人を作る。»


恒一は言葉を失った。


「……代わり?」


父親が頷く。


「それが、今のお前だ」


現在の恒一は後ずさった。


「じゃあ……俺は」


「そう」


父親が言う。


「お前は三十四年前に生まれた人間じゃない」


「……」


「二十年前に作られた」


恒一の視界が歪む。


「でも、俺には三十四年分の記憶が――」


「記憶は作れる」


「家族は?」


「作れる」


「仕事は?」


「作れる」


「佐伯は?」


「作れる」


「美月は?」


「作れる」


恒一は震えた。


「じゃあ……俺の人生は全部?」


父親が答える。


「物語だ」


沈黙。


雨の音だけが響く。


少女が恒一を見る。


「だから、私はあなたを嫌いになれなかった」


「……え?」


「あなたが私を作ったとしても」


少女は涙を拭う。


「私にとっては、あなたが本物だったから」


恒一は何も言えなかった。


すると。


本が地面に落ちた。


ページが開く。


そこには。


新しい文章。


«神谷恒一は、自分が誰かを思い出した。»


恒一の心臓が止まりそうになる。


「……俺が、思い出した?」


文字が続く。


«彼は、自分が忘れていた人物を思い出した。»


その瞬間。


神社の奥から。


誰かが歩いてくる。


一歩。


また一歩。


雨の向こう。


顔は見えない。


恒一は目を細めた。


「……誰だ?」


人物が近づく。


少女が震えた。


「……来ないで」


父親が呟く。


「やっぱり生きていたか」


その人物が鳥居の下に立つ。


そして。


ゆっくり顔を上げた。


恒一は――


その顔を知っていた。


忘れていた。


ずっと。


自分の記憶から消していた。


けれど。


一度見た瞬間。


全部思い出した。


「……お前」


その人物は笑った。


「久しぶり」


恒一の膝から力が抜ける。


「……兄さん?」


違う。


第16話で現れた「兄」ではない。


十四歳の少年でもない。


十歳の少年でもない。


もっと古い。


もっと深い記憶。


幼い恒一と一緒に黒い本を書いていた――もう一人の子供。


その子供が言った。


「やっと思い出したね」


本が激しく震える。


ページに文字が浮かぶ。


«記憶されたため、存在が確定しました。»


そして。


次の一文。


«しかし同時に――神谷恒一の存在が不安定になりました。»


恒一の身体が透け始める。


「……え?」


少女が叫ぶ。


「恒一!」


指先が消える。


腕が消える。


足元も薄くなる。


本のページが黒く染まっていく。


«一人を思い出した。»


«一人を現実に戻す。»


«その代わり――»


最後の一行だけが。


ゆっくりと現れた。


«神谷恒一を、物語から削除します。»


恒一は少女を見る。


少女は泣いている。


そして。


自分の身体が消えていく中で。


恒一は初めて理解した。


この物語が本当に奪おうとしているものは――


命ではない。


「存在」そのものだった。


そして。


最後に残った恒一の手が。


誰かに握られた。


その手は――


読者の手だった。

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