第19話「最初の神谷恒一」
「僕が――最初の神谷恒一だよ」
少年はそう言った。
十歳ほど。
濡れた黒髪。
裸足。
白い服。
そして、その顔。
恒一は知っていた。
自分が子供だった頃の顔。
写真に残っている顔。
夢の中で何度も見た顔。
――自分。
「……お前が?」
恒一が呟く。
少年は頷いた。
「うん」
十四歳の少年が、壁際から叫んだ。
「違う!」
全員が振り返る。
「そいつは恒一じゃない!」
十歳の少年が笑った。
「じゃあ、君は?」
十四歳の少年の顔が強張った。
「僕は……」
言葉が続かない。
少年は首を傾げた。
「君は、何番目?」
その瞬間。
十四歳の少年の表情が崩れた。
「……僕は」
「二番目?」
「違う」
「じゃあ三番目?」
「違う!」
少年の声が病院中に響いた。
本が震えた。
そしてページに文字が浮かぶ。
«神谷恒一は、自分が何番目なのか分からなかった。»
恒一は本を睨んだ。
「勝手に決めるな」
文字が消える。
そして。
新しい文章が現れた。
«では、あなたは何番目ですか?»
恒一は答えられなかった。
その質問は。
自分に向けられているのか。
それとも――
読者に向けられているのか。
分からない。
少女が十歳の少年に近づいた。
「あなた……どうして戻ってきたの?」
少年は少女を見る。
「君が呼んだから」
「私が?」
「うん」
少女の顔から血の気が引いた。
「……私は呼んでない」
「でも、名前を思い出したでしょう?」
少女が黙った。
恒一は二人を見る。
「名前?」
少女は答えない。
少年が笑う。
「君は僕の名前を知ってる」
「知らない」
「知ってるよ」
「知らない!」
少女が叫ぶ。
その声に反応するように。
病院の窓が一斉に割れた。
ガシャーン!
全員が身を屈める。
しかし。
ガラスは床に落ちなかった。
割れた窓の向こうに――
黒いページが広がっていた。
病院そのものが。
本の中にあるようだった。
壁。
床。
天井。
すべてが文字で覆われていく。
«神谷家。»
«二十年前。»
«午後十一時十三分。»
恒一は息を呑んだ。
「……十一時十三分」
自分が死んだ時間。
そして。
最初に本を開いた時間。
同じだった。
十歳の少年が呟いた。
「始まる時間だ」
「何が?」
「僕が死んだ時間」
恒一は少年を見る。
「お前も……死んだのか?」
少年は笑った。
「うん」
「いつ?」
「二十年前」
「でも、お前は十歳だろ」
「そうだよ」
「二十年前に死んだなら……」
恒一は言葉を失った。
少年は当たり前のように言った。
「僕は十歳のままだから」
その瞬間。
十四歳の少年が膝から崩れ落ちた。
「……違う」
「何が?」
「僕は覚えてる」
十四歳の少年は頭を抱えた。
「僕が死んだんじゃない」
「じゃあ誰が?」
「……僕が」
言葉が矛盾する。
恒一には理解できない。
すると。
母親が突然、声を上げた。
「やめて!」
全員が母親を見る。
母親は十歳の少年を見つめていた。
「その子に、それ以上話させないで!」
「母さん……知ってるのか?」
「知らない!」
「じゃあ、なんでそんなに怯えてる?」
母親は答えなかった。
十歳の少年が、母親を見て笑う。
「お母さん」
母親の顔が凍った。
「……その呼び方をしないで」
「どうして?」
「あなたは……」
母親の声が震える。
「あなたは私の息子じゃない」
少年は少し寂しそうに笑った。
「そうだね」
そして。
「だから僕は――」
少年は持っていた黒い本を開いた。
「お母さんに、選ばれなかったんだ」
恒一は気づいた。
第16話で母親が言った言葉。
――この子が、私の息子。
では。
選ばれなかったのは。
兄ではない。
十四歳の少年でもない。
この十歳の少年なのか。
本が文字を刻む。
«母親が選んだ息子は、一人だった。»
次の行。
«選ばれなかった息子は、二人だった。»
恒一の呼吸が止まる。
「二人……?」
少年が笑った。
「そう」
そして。
恒一を指差す。
「君もだよ」
「……俺が?」
「うん」
「俺は母さんに選ばれたんじゃないのか?」
少年は首を振る。
「違うよ」
「じゃあ誰が選ばれた?」
少年は十四歳の少年を見る。
「彼」
十四歳の少年が青ざめた。
「違う……」
少年は続ける。
「でも彼も選ばれなかった」
「……じゃあ」
恒一が呟く。
「母さんが選んだ息子って……誰なんだ?」
沈黙。
母親が泣きながら首を振る。
「もう……やめて」
そのとき。
父親が笑った。
「やっとそこまで来たか」
恒一は父親を睨む。
「父さん」
「なんだ」
「母さんが選んだ息子は誰なんだ?」
父親は答えた。
「俺にも分からない」
「……嘘だ」
「本当だ」
「全部お前が書いたんだろ!」
「書いた」
父親は頷く。
「だが、最後の一人だけは――」
父親の姿が一瞬、文字に変わった。
「俺にも読めなかった」
そして。
消えた。
恒一は立ち尽くす。
本が床に落ちる。
ページが勝手にめくれる。
そこには。
家族写真があった。
父。
母。
少女。
そして――
三人の子供。
恒一。
十四歳の少年。
十歳の少年。
しかし。
写真の中央。
母親の隣には――
もう一人。
顔のない人間が立っている。
恒一は写真を見つめた。
「……四人?」
母親が泣き崩れた。
少女が小さく言った。
「違う」
「何が?」
「四人じゃない」
少女は写真を指差した。
「五人いる」
恒一は目を凝らした。
顔のない人間の後ろ。
さらに誰かがいる。
黒い服。
長い髪。
顔は見えない。
だが。
その手だけが写っている。
その手は――
恒一の肩に置かれていた。
そして写真の裏側。
見覚えのある文字があった。
幼い子供の字。
«「僕たちは、五人で一人。」»
恒一は息を呑んだ。
その瞬間。
病院のスピーカーから。
女性の声が流れた。
『神谷恒一さん』
全員が顔を上げる。
『神谷恒一さん。診察室までお越しください』
一度。
二度。
三度。
同じ放送が繰り返される。
そして最後。
声が変わった。
幼い少年の声になる。
『神谷恒一さん』
恒一は動けなかった。
『あなたが、本物です。』
放送が切れた。
本のページに文字が浮かぶ。
«訂正します。»
«本物の神谷恒一は、一人ではありません。»
そして。
さらに一行。
«本物とは、「選ばれた人間」のことです。»
恒一はページを見つめる。
では。
母親が選ぶことによって。
誰かが「本物」になる。
そして。
選ばれなかった者は――
偽物になる。
そのとき。
少女が恒一の手を握った。
「恒一」
「……何?」
「今度だけは、私を信じて」
少女の手は震えていた。
「この病院から出て」
「どうして?」
少女は答えた。
「ここにいると――」
一瞬、言葉を失う。
そして。
震える声で続けた。
「あなたが、何人目なのか決まってしまうから。」
その直後。
診察室のドアが開いた。
中から。
白衣を着た男が出てくる。
顔を見た瞬間。
恒一は凍りついた。
その男は――
自分と同じ顔をしていた。
男は静かに笑う。
「お待ちしていました」
そして。
こう言った。
「神谷恒一さん」
「あなたの死亡診断書を――」
男は一枚の紙を差し出した。
「三枚、用意しています。」
本のページが、最後の一行を書き足した。
«第20話――「三枚の死亡診断書」»
«そのうち一枚だけが、本物である。»




