第18話「作者」
「作者……?」
恒一は、その言葉を見つめていた。
意味が分からない。
いや。
分かりたくなかった。
本の中にいる自分が、物語の登場人物なら。
その物語を書いている人間が、どこかにいる。
それだけの話だったはずだ。
父親。
神谷恒一郎。
ずっとそう思っていた。
父が書いた。
父が少女を閉じ込めた。
父が恒一を作った。
父が物語を始めた。
だから――
父を止めれば終わる。
そう思っていた。
「違う」
父親が言った。
窓の向こうに立っていた。
「俺は作者じゃない」
恒一は息を止めた。
「……全部、お前が書いたって言っただろ」
「そうだ」
「じゃあ作者じゃないって、どういうことだよ」
父親は笑った。
「俺が書いたのは――」
一拍。
「この本が書いた物語だ」
「……」
「俺は作者じゃない」
父親は、自分の胸を指差した。
「俺も登場人物だった」
恒一の頭の中で、何かが崩れた。
父親。
母親。
少女。
兄。
美月。
そして自分。
全員が、本の中に配置された登場人物。
では。
この物語を書いた存在は――
誰なのか。
ページが勝手にめくれた。
«作者は、物語の外にいる。»
恒一はページを掴んだ。
「じゃあ……外にいるのは誰だ?」
返事はない。
本が、次の文章を書き始めた。
«作者は、物語を読むことができる。»
«しかし、物語の中に入ることはできない。»
恒一は眉をひそめた。
「だったら……」
そこで気づいた。
「読者は?」
本の文字が止まった。
病院が静まり返る。
兄が顔を上げた。
少女がこちらを見る。
美月が青ざめる。
母親は、両手で口を覆った。
恒一はもう一度聞いた。
「読者は、物語の中に入れるのか?」
本が答えた。
«入れる。»
「じゃあ……」
恒一の声が震えた。
「作者と読者は、違うのか?」
一行。
二行。
三行。
文章が現れる。
«最初は違った。»
«しかし、最後には同じになる。»
「どういう意味だよ!」
恒一が叫んだ。
その瞬間。
兄が突然、膝をついた。
「……もう時間がない」
「兄さん?」
「僕は、二十年間この本を読んできた」
兄は震える手でページをめくった。
「最初は一人だった」
「何が?」
「読者が」
兄はページを見つめた。
「でも、読者は一人じゃなかった」
ページに写真が現れた。
古い家族写真。
恒一は目を凝らした。
父。
母。
少女。
兄。
そして――
幼い恒一。
五人。
いや。
違う。
写真の端に。
もう一人いる。
黒い服を着た子供。
顔が見えない。
恒一は写真を奪い取った。
「この子……誰だ?」
母親が震えた。
「……知らない」
「嘘だ」
「本当に知らない!」
母親が叫ぶ。
父親が静かに言った。
「そいつが最初の読者だ」
恒一は固まった。
「……最初の読者?」
父親は頷いた。
「二十年前」
「この本を最初に読んだのは――」
父親が写真の子供を見る。
「お前だ」
「俺?」
「違う」
父親は首を振った。
「十四歳のお前じゃない」
恒一の背後で。
少女が小さく息を呑んだ。
「じゃあ……誰だよ」
父親が答える。
「今のお前でもない」
沈黙。
そして。
父親は最後に言った。
「三人目の恒一だ」
「……三人目?」
兄が目を閉じる。
「そう」
「神谷家には、二人の息子がいたんじゃないのか?」
兄は答えなかった。
本だけが答えた。
«訂正します。»
ページが一枚めくれる。
«神谷家には、三人の息子がいた。»
恒一の心臓が跳ねた。
「……三人」
本が続ける。
«一人目は、死んだ。»
«二人目は、物語になった。»
«三人目は――»
そこで文字が消えた。
恒一はページを擦った。
何度見ても。
続きがない。
「三人目は?」
誰も答えない。
少女だけが泣いていた。
恒一は少女に近づいた。
「知ってるんだろ?」
少女は首を横に振る。
「知らない」
「嘘だ」
「本当に知らない」
「じゃあ、なんで泣いてる?」
少女は顔を上げた。
その目には恐怖があった。
「……三人目は」
声が震える。
「私が、一番忘れたかった人だから」
恒一の背後で。
本が閉じた。
パタン。
そして。
表紙に文字が浮かび上がる。
これまで一度も書かれたことのない言葉だった。
«『最後のページを読んだ人』»
その下に。
新しい名前が現れる。
恒一は目を疑った。
そこに書かれていたのは――
神谷恒一。
しかし。
その名前は一つではなかった。
二つ。
三つ。
四つ。
ページいっぱいに。
同じ名前が並んでいる。
そして一番下。
最後の一行だけ。
名前ではなかった。
«あなた。»
恒一の手から本が落ちた。
少女が叫ぶ。
「読まないで!」
遅かった。
恒一は――
もう読んでしまった。
本が開く。
最後のページ。
そこには、たった一文。
«三人目の神谷恒一は、今この文章を読んでいる。»
恒一は息を止めた。
「……俺?」
違う。
そう思った瞬間。
本の文字が変わった。
«違う。»
«三人目は、あなたではない。»
さらに一行。
«三人目は、あなたが読むことで生まれる。»
そして。
最後に。
これまでで最も大きな文字が現れた。
«次のページをめくった瞬間――
三人目の神谷恒一が、この世界に戻る。»
恒一はページに手を伸ばした。
しかし。
その手を止めたのは――
少女だった。
「お願い……」
少女は泣きながら言った。
「そのページだけは、めくらないで」
「どうして?」
少女は答えた。
「だって……」
少女の顔が歪む。
「三人目が戻ったら――」
病院の廊下の奥から。
子供の足音が聞こえた。
一歩。
また一歩。
近づいてくる。
そして。
暗い廊下の向こうから。
十四歳の少年と同じ顔をした子供が現れた。
少年より幼い。
十歳くらい。
裸足だった。
濡れた髪。
白い服。
そして――
手には。
あの黒い本。
少年は恒一を見ると、笑った。
「やっと会えた」
恒一は動けなかった。
少年が言う。
「僕が――」
一瞬、言葉を止める。
そして。
自分の胸を指差した。
「最初の神谷恒一だよ」
本のページが勝手にめくれた。
そこには。
新しい文字。
«第19話
『最初の神谷恒一』»
そして、その下に――
«この物語は、ここからが本当の始まりである。»




