第17話「読者の選択」
三つの選択肢が、黒いページの上に並んでいた。
――神谷恒一を残す。
――神谷恒一を消す。
――物語そのものを終わらせる。
恒一は、ページを見つめた。
けれど。
自分ではない誰かが、そこにいる。
そんな感覚がした。
母親も。
兄も。
少女も。
白石美月も。
そして、死んだはずの父親さえ。
全員が、恒一の横ではなく――
何もない空間を見ている。
「……誰を見てるんだ?」
恒一が聞いた。
誰も答えない。
兄だけが、ゆっくりと口を開いた。
「見えてるんだよ」
「何が?」
「読者が」
恒一の背中に、冷たいものが走った。
兄は、まっすぐ前を見ていた。
恒一ではない。
少女でもない。
母親でもない。
その視線の先にいるのは――
この物語を読んでいる存在。
「二十年間……」
兄が言った。
「僕は、この本の中にいた」
「そこで何をしてた?」
「待ってた」
「誰を?」
兄は少し笑った。
その笑顔は、恒一が子供の頃に撮った写真の中の自分と同じだった。
「読者を」
ページが一枚、勝手にめくれた。
そこには、新しい文章が書かれていた。
«読者は、三つの選択肢を見た。»
恒一は息を呑んだ。
その下に、さらに文章が現れる。
«しかし、選択肢を見た時点で、読者はすでに一つを選んでいる。»
「……そんな馬鹿な」
恒一は本を閉じようとした。
だが、指が動かない。
ページから手が離れない。
まるで、本の方が恒一の手を掴んでいるようだった。
「離せ……!」
力を込める。
それでも動かない。
少女が叫んだ。
「恒一!」
その声に反応して、恒一は少女を見る。
少女の顔が――
一瞬だけ、別人になった。
十歳くらいの少女。
次の瞬間には、白石美月。
そしてまた少女。
さらに――
知らない女性。
恒一は目を疑った。
「今……」
「見ないで」
少女が俯いた。
「お願いだから、私の顔を覚えないで」
「どういう意味だよ」
「あなたが私を覚えるほど……私は一つの存在になってしまう」
「一つの存在?」
少女は答えなかった。
代わりに、本が文字を刻んだ。
«少女には、まだ名前がない。»
恒一は眉をひそめる。
だが、その直後。
文章が書き換わった。
«少女には、名前がある。»
さらに。
«その名前を知っているのは、読者だけである。»
「……読者だけ?」
恒一は呟いた。
その瞬間。
背後から声がした。
「違う」
母親だった。
神谷真紀が、震える声で言った。
「私も知ってる」
恒一が振り返る。
母親は泣いていた。
「あなたのお父さんも知ってた」
「じゃあ……なんで誰も言わなかった?」
「言えなかったの」
「どうして?」
母親は答えない。
兄が代わりに言った。
「名前を言った瞬間、その人間が本の中で確定するからだ」
「確定?」
「存在が一つになる」
兄は少女を見る。
「そして、一つになった存在は――」
そこで言葉を止めた。
本が続きを書いた。
«消すことができる。»
少女が目を閉じた。
恒一は、その意味を理解した。
名前を与えることは、救うことではない。
場合によっては――
殺すことになる。
「じゃあ、どうすればいい?」
恒一が聞いた。
少女は答えなかった。
兄も。
母親も。
美月も。
誰も。
その代わり、本のページに三つの選択肢が再び浮かび上がった。
«① 神谷恒一を残す»
«② 神谷恒一を消す»
«③ 物語そのものを終わらせる»
そして、その下に。
今までなかった四つ目の文章が現れた。
«④ 選択しない»
恒一は目を見開いた。
「……四つ目?」
兄が笑った。
「それを選べると思う?」
「選択しないなら、何も起きないだろ」
「違う」
兄の表情から笑みが消えた。
「この本では、何もしないことも選択なんだ」
その瞬間。
病院の照明が消えた。
真っ暗になる。
「恒一!」
少女の声。
「動かないで!」
だが。
暗闇の中で。
誰かの足音がした。
一歩。
また一歩。
近づいてくる。
恒一は息を殺した。
「誰だ……?」
返事はない。
足音だけが近づいてくる。
そして。
耳元で声がした。
「……僕を選んで」
恒一の全身が凍った。
その声は――
自分の声だった。
「僕を残して」
暗闇の中で、誰かが恒一の手を握った。
冷たい。
小さな手だった。
少女の手ではない。
十四歳の少年の手でもない。
もっと小さい。
子供の手。
そして。
耳元で囁かれた。
「お願い」
「今度こそ――」
「僕を、消さないで」
照明が戻った。
恒一の目の前には誰もいなかった。
ただ。
本だけが開かれていた。
そしてページには――
新しい文章があった。
«神谷恒一は、四つ目の選択肢を選んだ。»
恒一は震えた。
「……俺は、選んでない」
本が答える。
«選んでいないことを、選んだ。»
「違う!」
恒一が本を床に叩きつける。
ページが激しくめくれる。
そして。
最後のページが開いた。
そこには、たった一行。
«では、読者は何を選んだ?»
恒一はページを見つめる。
その下に。
今までなかった文章が、ゆっくりと浮かび上がっていく。
一文字ずつ。
まるで――
誰かが今、この瞬間に書いているように。
«あなたは――»
そこで文章が止まった。
次の一文字が、まだ書かれていない。
少女が小さく呟く。
「……始まる」
兄が目を伏せる。
母親が泣き出す。
美月が後ずさる。
そして。
死んだ父親だけが、笑っていた。
「ようやく……」
父親が言った。
「作者が決まる」
本のページに。
最後の一文字が現れた。
«あなたは――
この物語の、作者になる。»




