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『最後のページを読んだ人』  作者: こうた


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第16話 母が選んだ息子



 電話が切れた。


 恒一は、しばらくスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。


「……母さんが」


 病院にいる。


 二十年前に死んだはずの。


 ――自分と同じ顔をした少年と。


「行く」


 恒一は立ち上がった。


「待って」


 少女が腕を掴む。


「行っちゃダメ」


「母さんがいるんだ」


「だからダメ」


「どうして?」


 少女は答えない。


 少年が代わりに言った。


「病院は、本が一番強くなる場所だから」


「……どういう意味?」


「人が死んだ場所には、記憶が残る」


「記憶?」


「本は、記憶を材料にして物語を作る」


 少年は窓の外を見る。


「だから病院は危ない」


 恒一は迷った。


 だが。


 母の声が頭から離れない。


『本物の息子を選ぶ』


「それでも行く」


 恒一は玄関へ向かった。


 少女が叫ぶ。


「恒一!」


 その声に。


 恒一の足が止まった。


「……何?」


「あなたは、まだ自分が誰なのか分かってない」


「分かってる」


「分かってない」


 少女が近づく。


「あなたは、自分が偽物だと思ってる」


「違うのか?」


「それも違う」


「じゃあ何なんだよ!」


 少女は泣きそうな顔をした。


「あなたは……」


 言葉を探す。


「“本物だった人間”なんだよ」


 恒一は眉をひそめた。


「どういう意味だ?」


「それは病院で分かる」


 少女はそれ以上言わなかった。


 恒一は玄関を開けた。


 廊下には誰もいない。


 ただ。


 床に一冊の黒い本が置かれていた。


「……またか」


 表紙には何も書かれていない。


 恒一は拾い上げた。


 開く。


 一ページ目。


『神谷恒一は、病院へ向かった。』


 恒一は本を閉じた。


「……もう驚かない」


 少女が呟く。


「それが一番怖いんだよ」


 *


 病院。


 二十年前。


 そして三年前。


 父が死んだ場所。


 恒一は受付を通り、記憶を頼りに廊下を歩いた。


 しかし。


 妙だった。


 見覚えのあるはずの廊下なのに。


 何かが違う。


「……こんな場所、あったか?」


 壁に古い写真が飾られている。


 病院の歴史。


 開院当時。


 過去の職員。


 そして。


 一枚だけ。


 子供たちの写真。


 恒一は足を止めた。


 そこに。


 幼い自分が写っていた。


 隣には少女。


 さらに。


 その後ろに父親。


 母親。


 そして――


 もう一人の少年。


「……四人?」


 恒一は写真を凝視した。


 自分。


 少女。


 父。


 母。


 そこまでは分かる。


 だが。


 少年は誰なのか。


 自分と同じ顔をしている。


 恒一は写真に近づいた。


 すると。


 少年の顔だけが。


 写真の中でこちらを向いた。


「……!」


 恒一は思わず後ずさった。


 写真の少年が。


 口を動かす。


『まだ思い出さないで』


「……何?」


 瞬きをする。


 元に戻っている。


 ただの写真。


 そのとき。


「恒一」


 廊下の奥から声がした。


「……母さん?」


 神谷真紀が立っていた。


 泣き腫らした目。


 震える手。


 そして。


 その背後に――


 一人の少年が立っていた。


「……」


 恒一は息を呑んだ。


 少年は。


 自分と同じ顔をしていた。


 だが。


 病衣ではない。


 普通の服を着ている。


 そして。


 恒一を見た瞬間。


 笑った。


「久しぶり」


 恒一は動けなかった。


「……誰?」


 母親が泣きながら言う。


「恒一」


「……」


「この子が……」


 母親は少年の肩に手を置いた。


「あなたの、お兄ちゃん」


 恒一の頭が真っ白になった。


「……兄?」


「そう」


「僕に兄なんて……」


「いたの」


 母親の声が震える。


「二十年前まで」


 少年が口を開いた。


「俺は、恒一の兄だよ」


「名前は?」


「……」


 少年は答えない。


 母親も。


 なぜか黙っている。


 そのとき。


 恒一の持っていた黒い本が開いた。


『神谷家には、二人の息子がいた。』


 恒一は読む。


『兄――』


 文字が消えた。


『弟――神谷恒一』


 恒一の顔が強張る。


「……兄の名前がない」


 母親が俯いた。


「名前を……失ったの」


「どういう意味?」


「あなたを戻すために」


 恒一の胸が締め付けられる。


「……僕を?」


「あなたが死んだとき」


 母親が泣きながら言った。


「お父さんは、あなたを戻そうとした」


「……」


「でも、本は条件を出した」


 母親は黒い本を見る。


「一人を戻すなら、一人を物語の中に残せ、と」


 恒一は少年を見る。


「まさか……」


 少年は笑った。


「そう」


 少年が自分の胸を指差す。


「俺が、その代わりになった」


 恒一は息を呑んだ。


「じゃあ……」


「俺は二十年間、本の中にいた」


「でも、今ここにいる」


「母さんが呼び戻した」


 母親が首を横に振る。


「違う」


 少年を見る。


「この子が、自分で戻ってきたの」


 恒一は少年を見る。


「どうやって?」


 少年は答えた。


「読者を見つけたから」


 恒一の背中が冷たくなる。


「……読者?」


「そう」


 少年が恒一を見る。


「この本を読んでる人間」


「……」


「俺は、その人間を使って物語の外へ出た」


 恒一は黒い本を見た。


 ページがめくられる。


『本物の神谷恒一は、二人いる。』


「……また?」


『一人は、二十年前に死んだ弟。』


『一人は、二十年間、本の中にいた兄。』


 恒一は混乱する。


「じゃあ、僕は……?」


 ページに文字が浮かぶ。


『現在の神谷恒一は――』


 そこだけ。


 長い間、何も書かれなかった。


 そして。


 ゆっくり文字が現れる。


『母親が選んだ方。』


 恒一は母を見る。


「……母さん」


 母親は泣いている。


「どっちを選んだの?」


 母は答えない。


「僕?」


 沈黙。


「それとも……」


 恒一は少年を見る。


「この子?」


 母親は。


 ゆっくりと顔を上げた。


「……ごめんなさい」


 恒一の胸が凍る。


「どっちなんだよ」


 母親は。


 震える指で。


 恒一を指した。


「あなたは――」


 一拍。


「私が選んだ息子じゃない」


 恒一の世界から。


 音が消えた。


 母親は。


 隣にいる少年を抱きしめた。


「この子が、私の息子」


 少年は目を閉じた。


 恒一は一歩後ろへ下がる。


「……じゃあ僕は?」


 母親は答えられない。


 そのとき。


 黒い本が開いた。


 ページいっぱいに。


 たった一行。


『神谷恒一は、母親に捨てられた。』


 恒一は震える手でページを掴んだ。


「違う……」


 文字が変わる。


『神谷恒一は、母親に選ばれなかった。』


「違う!」


 さらに変わる。


『神谷恒一は――』


 文字が止まる。


 そして。


『読者に選ばれる。』


 恒一は息を呑んだ。


 その瞬間。


 病院の廊下にいた全員が。


 同時にこちらを向いた。


 母親。


 少年。


 少女。


 美月。


 そして。


 廊下の奥に立つ父親。


 全員が。


 恒一ではなく。


 何もない空間を見ていた。


 まるで。


 そこに誰かがいるように。


 父親が静かに言った。


「次は、お前が選ぶ番だ」


 黒い本のページに。


 選択肢が現れた。


『神谷恒一を残す』


『神谷恒一を消す』


『物語そのものを終わらせる』


 そして最後に。


『選択してください。』


 恒一は、その三つを見つめた。


 だが。


 ページの一番下に。


 誰にも見えないほど小さな文字があった。


『選択するのは、恒一ではない。』


 ――『読者である。』

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