第15話 最初の読者
――神谷真紀。
黒い本の最初のページに。
母親の名前が浮かんでいた。
恒一は、その名前から目を離せなかった。
「……母さんが?」
少年は黙っている。
少女も。
美月だけが、険しい顔で本を見つめていた。
「知ってたんだな」
恒一が美月に言った。
「何を?」
「母さんのこと」
「……はい」
「最初から?」
「全部ではありません」
「じゃあ、何を知ってる?」
美月はしばらく黙っていた。
そして。
「神谷真紀さんは、この本を最初に読んだ人ではありません」
「……え?」
「正確には――」
美月がページを指差した。
「最初に“最後まで読んだ人”です」
恒一は眉をひそめる。
「どういう違いがある?」
「最初に読んだ人は……」
美月の声が小さくなる。
「もう、存在していません」
恒一の背筋が凍った。
「誰なんだ?」
「分かりません」
「分からない?」
「記録から消されています」
少年が口を開いた。
「父さんが消したんだ」
恒一が振り返る。
「父さんが?」
「そう」
「何のために?」
「本を守るため」
恒一は理解できなかった。
「本を守る?」
「この本には、一つだけルールがある」
少年が言う。
「読者が本を読み終えると、物語が現実になる」
「……」
「だから父さんは、最後まで読ませたくなかった」
「でも母さんは読んだ」
「うん」
「それで僕を戻した?」
「たぶん」
恒一は黒い本を見た。
「じゃあ、母さんは僕を助けようとした」
「そうかもしれない」
「何で“かもしれない”なんだ?」
少年は答えなかった。
代わりに。
黒い本のページがめくられた。
『神谷真紀は、息子を取り戻したかった。』
恒一は息を呑む。
次の文章。
『神谷真紀は、息子を取り戻すために、別の人間を消した。』
「……」
そして。
『その人間の名前は――』
文字が現れた。
恒一は目を凝らした。
だが。
名前の部分だけが黒く塗り潰されている。
「また……」
美月が言った。
「本が隠している」
「誰を消した?」
「分かりません」
「本当に?」
「はい」
恒一は美月を睨んだ。
「君は何か知ってる」
「……」
「少女の名前も知ってた」
「……」
「母さんのことも知ってる」
「……」
「そして、僕が本物じゃないことも知ってた」
美月は目を伏せた。
「知っていました」
「じゃあ、なぜ教えなかった?」
「教えたら、あなたが読むから」
「何を?」
「この本を」
恒一は黙った。
「あなたが自分で真実に辿り着かなければ、本は次のページを見せてくれない」
「……」
「だから待っていました」
「僕がここまで来るのを?」
「はい」
恒一は尋ねた。
「君は、誰の味方なんだ?」
美月は答えなかった。
その代わり。
少女を見た。
「私は、この子の味方です」
少女が顔を上げる。
「……美月」
「はい」
「あなたは……私を知ってる」
「知っています」
「どうして?」
美月は悲しそうに笑った。
「あなたのお母さんに、聞かされたから」
「何を?」
「あなたが、どうして消えたのか」
少女の顔が強張る。
「……言わないで」
「でも、いつかは知ることになる」
「嫌!」
少女が叫んだ。
部屋の空気が揺れた。
黒い本が激しく震える。
ページが勝手にめくられていく。
そして。
一枚の文章が現れた。
『神谷真紀は、息子を取り戻すために契約した。』
恒一は読む。
『条件は一つ。』
『息子の存在を一人分、現実に戻す代わりに――』
文章が止まる。
次の行。
『少女を物語の中に残すこと。』
「……!」
少女が泣き崩れた。
「だから……」
恒一は少女を見る。
「君は、母さんに……」
「違う」
少女が首を振る。
「おばさんは悪くない」
「でも、本に書いてある」
「違うの!」
少女が叫ぶ。
「おばさんは、私を選んだんじゃない!」
「……どういうこと?」
少女は震えながら言った。
「おばさんが選んだのは……」
一瞬。
言葉を失う。
「あなた」
恒一は黙った。
「おばさんは、あなたを選んだ」
「……」
「私を犠牲にして」
恒一は何も言えなかった。
少女は涙を拭う。
「だから私は、あなたを恨んでない」
「どうして?」
「あなたが選んだんじゃないから」
「……」
「あなたは、何も知らなかった」
その言葉を聞いた瞬間。
恒一の中で。
何かが引っかかった。
「……待って」
「何?」
「君は、どうしてそんなことを知ってる?」
少女が黙った。
「二十年前、君は本の中にいたんだろ?」
「うん」
「だったら、母さんが何を選んだのか知ってるはずがない」
「……」
「誰から聞いた?」
少女は答えない。
恒一が一歩近づく。
「君は誰なんだ?」
少女は俯いた。
「……ごめん」
「何が?」
「今まで嘘をついてた」
少女が顔を上げる。
「私は、神谷真紀さんに閉じ込められたんじゃない」
「……」
「あなたのお父さんにでもない」
「じゃあ……誰に?」
少女は恒一を見る。
「あなたに」
恒一の呼吸が止まる。
「……僕?」
「そう」
「僕は十四歳だったんだろ?」
「うん」
「僕が君を本に閉じ込めた?」
「違う」
「じゃあ何をした?」
少女はゆっくり答えた。
「あなたが――」
その瞬間。
黒い本が激しく震えた。
ページに巨大な文字が浮かび上がる。
『警告』
次のページ。
『これ以上、少女に質問してはいけない。』
さらに。
『彼女が真実を話すと、現在の物語が維持できなくなる。』
恒一はページをめくる。
最後の一文。
『なぜなら――』
そこで文字が途切れた。
代わりに。
ページの中央に。
母親の名前が現れた。
『神谷真紀』
その名前の下に。
短い文章。
『母親は、今もこの本を読んでいる。』
恒一のスマートフォンが鳴った。
着信。
母。
「……母さん?」
恐る恐る電話に出る。
『恒一』
母の声だった。
泣いている。
「母さん、今どこにいる?」
『……病院』
「病院?」
『あなたのお父さんが亡くなった病院』
恒一は息を呑む。
『今、目の前にいるの』
「……誰が?」
母は震える声で答えた。
『二十年前に死んだはずの、あなたが』
通話が切れた。
恒一は動けなかった。
そして。
黒い本のページに。
新しい文章が浮かび上がった。
『最初の読者が、二十年ぶりに本を開いた。』
最後に。
『そして、母親は本物の息子を選ぶ。』




