第14話 読んだ人間
文字が消えた。
最後の一文字。
――あなた。
それだけが。
黒い本のページに残っていた。
恒一は、何度も瞬きをした。
「……何だよ、これ」
誰も答えない。
少女は泣いている。
少年は本を睨んでいる。
そして。
白石美月だけが、静かに笑っていた。
「やっぱり……」
恒一が美月を見る。
「何が?」
「読んだんですね」
「……誰が?」
美月は答えなかった。
代わりに。
恒一の手元を見る。
「あなたです」
「僕?」
「いいえ」
美月は首を横に振った。
「あなたの中にいる、“もう一人のあなた”です」
恒一の背中に寒気が走った。
「何を言ってる?」
「最初から気づいていたんじゃありませんか?」
「何を?」
「あなたが、この物語を読んでいるとき」
美月が一歩近づく。
「誰かに見られているような感じがしませんでしたか?」
恒一は答えられなかった。
確かに。
ずっと感じていた。
誰かが自分の行動を見ている。
自分が何を考えているのか。
何を恐れているのか。
まるで――
自分の人生を、誰かが読んでいるような。
「……それが、読者?」
「そう」
「誰なんだ?」
「あなたの外側にいる人」
恒一は意味が分からなかった。
「外側って……」
その瞬間。
少年が口を開いた。
「この世界の外」
恒一が振り返る。
「世界の外なんてあるのか?」
「ある」
「どこに?」
「この本の外」
少年は黒い本を指差した。
「俺たちが物語の中にいるなら、物語を読んでる人間は外にいる」
恒一は本を見た。
「じゃあ……」
喉が鳴る。
「僕たちは誰かに読まれてる?」
「そう」
「今も?」
「たぶん」
その瞬間。
黒い本のページに文字が現れた。
『読者が、ここを読んでいる。』
恒一は固まった。
少年も。
少女も。
美月も。
全員がページを見ている。
『読者は、まだ気づいていない。』
『自分が登場人物になっていることに。』
恒一は本を閉じた。
「もう読むな!」
少年が叫んだ。
だが。
閉じたはずの本から。
声がした。
「……読んで」
少女だった。
「え?」
少女が黒い本を見る。
「続きを読んで」
「君……」
「お願い」
少女は泣いていた。
「私を見つけて」
恒一は動けなかった。
「君を?」
「うん」
「どこにいる?」
少女は答えた。
「あなたの記憶の中」
恒一は眉をひそめた。
「僕の記憶?」
「そう」
「でも僕は……」
「あなたは、自分の記憶を一つだけ失ってる」
「何を?」
「私を殺した日の記憶」
恒一の身体が凍った。
「……殺した?」
少女は頷いた。
「あなたが私を殺した」
「僕が?」
「十四歳のあなたが」
少年が叫ぶ。
「違う!」
少女を見る。
「お前は死んでない!」
「……」
「俺が死んだんだ!」
少女が悲しそうに少年を見る。
「そうだね」
「じゃあ、なんで恒一が殺したなんて言うんだ?」
「私は――」
少女が恒一を見る。
「神谷恒一に殺されたんじゃない」
少し間を置いて。
「“神谷恒一になる前のあなた”に殺されたの」
恒一の頭の中で。
何かが崩れた。
記憶。
神社。
雨。
少女。
黒い本。
そして。
血。
赤い地面。
少女が倒れている。
幼い自分の手に。
黒い本。
『ごめん』
幼い自分が泣いている。
『こうするしかないんだ』
少女が目を開ける。
『どうして……?』
幼い自分は。
泣きながら。
少女の名前を書いた。
黒い本に。
一文字ずつ。
その瞬間。
少女の身体が消えていく。
「……!」
恒一は現実に戻った。
息ができない。
「今の……記憶は……」
少女が答える。
「本当」
「僕が……君を?」
「うん」
「どうして?」
「あなたは私を消したかったんじゃない」
「じゃあ……」
「私を、生かしたかったの」
恒一は意味が分からない。
「消したのに?」
「名前を書けば、物語の中で生きられる」
少女は黒い本を見る。
「でも、その代わり――」
ページに文字が浮かぶ。
『現実から消える。』
恒一は息を呑んだ。
「君は……」
「うん」
「自分から本の中に入った?」
「そう」
「なんで?」
少女は笑った。
「あなたを待つため」
恒一の目に涙が浮かんだ。
だが。
その瞬間。
美月が口を開いた。
「違います」
少女が振り返る。
「……え?」
「あなたは嘘をついています」
美月の顔から笑みが消えた。
「彼女は、自分から本に入ったんじゃない」
「じゃあ……」
「閉じ込められたんです」
美月は恒一を見る。
「あなたによって」
「……僕?」
「正確には」
美月は黒い本を指差した。
「あなたが書いた物語によって」
恒一は本を見る。
ページに新しい文字。
『神谷恒一は、少女を閉じ込めた。』
そして。
次の一文。
『しかし、その物語を書いたのは神谷恒一ではない。』
「……じゃあ誰が?」
ページに名前が浮かぶ。
『作者――』
そこだけ。
黒く塗り潰された。
恒一は息を呑む。
そして。
塗り潰された文字の下から。
一文字だけが現れた。
父。
美月が呟く。
「やっぱり……」
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
暗闇の中。
父親の声が響いた。
「恒一」
恒一は振り返る。
「お前は、何も悪くない」
そして。
父親は静かに言った。
「全部――俺が書いた。」
黒い本が。
ひとりでに開く。
最初のページ。
そこに。
二十年前の日付が現れた。
『この物語を最初に読んだ者――』
名前が書かれる。
『神谷恒一。』
だが。
その文字が消える。
代わりに。
新しい名前が現れた。
『神谷真紀。』
恒一の母親だった。




