第13話 少女の名前
――あなたです。
黒い本の最後の一文を。
恒一は何度も読み返した。
意味が分からない。
いや。
分かりたくなかった。
「……僕じゃない?」
少女は黙っている。
少年も黙っている。
部屋にいる誰も、答えてくれない。
恒一は震える手でページをめくった。
白紙。
何も書かれていない。
「……?」
もう一度めくる。
白紙。
さらに一枚。
白紙。
「どうなってるんだ……?」
今までなら、ページをめくれば必ず文章が現れた。
だが。
今は何もない。
まるで。
物語そのものが、続きを書くことを拒否している。
少女が呟いた。
「名前を思い出したから」
「……名前?」
「うん」
「僕は……思い出したのか?」
「そう」
恒一は目を閉じた。
記憶の中に、少女の姿がある。
神社。
雨。
幼い自分。
少女の手。
そして。
『君の名前は――』
そこまで思い出した。
だが。
名前そのものだけが。
どうしても出てこない。
「……思い出せない」
少女が悲しそうに笑う。
「それでいいの」
「よくないだろ」
「いいんだよ」
「どうして?」
「思い出したら、私が消えるから」
その言葉に。
少年が口を開いた。
「違う」
少女が振り返る。
「……何が?」
「名前を思い出しただけじゃ、消えない」
「……」
「名前を本に書いたら消えるんだ」
恒一は黒い本を見る。
「じゃあ、書かなければいい」
「そう」
「だったら……」
恒一は少女を見る。
「君の名前を、教えてくれ」
少女は首を横に振った。
「言えない」
「僕はもう思い出しかけてる」
「だからダメなの」
「どうして?」
「あなたが名前を聞いた瞬間――」
少女の声が震える。
「本が、その名前を文章にするから」
恒一は息を止めた。
「……本が勝手に?」
「うん」
「じゃあ、どうすればいい?」
「思い出しても、口にしない」
「無理だ」
「どうして?」
「知りたい」
少女が恒一を見る。
その目に。
初めて少しだけ笑みが戻った。
「……昔から変わらないね」
「何が?」
「あなたは、知らないことを放っておけない」
「……」
「だから、あの日も――」
少女は言葉を止めた。
「あの日?」
「……何でもない」
恒一は追及しなかった。
その代わり。
少年に尋ねた。
「お前は知ってるのか?」
「何を?」
「少女の名前」
少年は少し考えて。
「知らない」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ父さんは?」
「知ってた」
「どうして教えてくれなかった?」
少年は黙った。
そして。
「父さんは、名前を呼ぶことを怖がってた」
「……父さんが?」
「そう」
「何を恐れていた?」
「名前を呼んだら……」
少年は窓を見る。
「その人が、誰なのか確定するから」
恒一は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「この本では、名前が存在そのものなんだ」
少年は黒い本を指差した。
「名前を書かれた人間は、物語の中で役割を持つ」
「役割……」
「父さんは、それを利用して俺を戻した」
「……」
「俺の名前を書いた」
少年は自分の胸を指す。
「神谷恒一」
そして。
恒一を見る。
「でも、その名前を持つ人間は二人になった」
恒一の背筋が冷たくなった。
「じゃあ……」
「お前は、俺の名前を持った別の存在」
「……」
「だから本は、お前を『偽物』と呼ぶ」
恒一は唇を噛んだ。
「でも僕には……僕の人生がある」
「それも本物だよ」
「じゃあ、何が偽物なんだ?」
少年は答えた。
「名前」
恒一は黙った。
その瞬間。
黒い本が突然開いた。
白紙だったページに。
黒い文字が一文字だけ浮かび上がった。
『美』
恒一の心臓が跳ねる。
「……また」
次の一文字。
『月』
「美月……」
少女が顔を伏せる。
「やめて」
恒一はページを閉じようとした。
しかし。
ページが勝手にめくられていく。
『白石美月』
『白石美月』
『白石美月』
何十ページにもわたって。
同じ名前だけが書かれている。
「なんで……」
少年が青ざめた。
「まずい」
「何が?」
「名前が固定され始めてる」
ページの文字が変化した。
『白石美月は、図書館にいる。』
『白石美月は、玄関の外にいる。』
『白石美月は、部屋の中にいる。』
『白石美月は、窓の外にいる。』
恒一は息を呑んだ。
「……全部?」
少女が呟いた。
「本が、同じ人間を増やしてる」
「じゃあ……」
恒一は部屋を見る。
「今まで会った美月は、全部……?」
少年が首を振る。
「違う」
「何が?」
「一人だけ、本物がいる」
「どれ?」
少年は答えない。
すると。
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
恒一は動かなかった。
続いて。
窓を叩く音。
コン。
コン。
コン。
さらに。
スマートフォンが鳴る。
着信。
白石美月
そして。
部屋の隅から。
「神谷さん」
女の声。
恒一が振り返る。
そこに。
白石美月が立っていた。
「……いつから?」
美月は答えない。
少女が後ずさる。
「あなた……」
美月が少女を見る。
「久しぶり」
少女の顔が凍った。
「……どうして、私のことを知ってるの?」
美月が笑う。
「知ってるよ」
一歩近づく。
「だって――」
美月は少女の耳元で。
小さく名前を呼んだ。
恒一には聞こえなかった。
だが。
少女の表情だけが。
完全に変わった。
「……やめて」
美月が笑う。
「あなたは、もう思い出されてる」
黒い本が激しく震える。
そして。
白紙だったページに。
少女の名前が。
初めて書かれた。
恒一は、その文字を見た。
読める。
確かに読める。
なのに。
その名前を声に出そうとした瞬間。
喉が動かなくなった。
少女が涙を流す。
「お願い……」
そして。
黒い本に最後の一文が浮かび上がった。
『少女の名前を読んだ人間は、次の登場人物になる。』
恒一はページから目を離せなかった。
さらに、その下に。
『そして今、その名前を読んでいるのは――』
文字が一つずつ現れる。
『神谷恒一』
……ではなかった。
『あなた。』




