第12話 読者
――読者。
黒い本に書かれた、その二文字を。
恒一は何度も見返した。
「……読者?」
誰に問いかけたのか、自分でも分からない。
少女は答えない。
少年も答えない。
ただ。
少年だけが、恒一をじっと見つめていた。
「お前が……本物の神谷恒一なのか?」
「そうだよ」
「証拠は?」
少年は少し考えた。
そして。
「父さんが死ぬ前に、俺に言った言葉を知ってる?」
「……」
恒一は答えられなかった。
父が最後に何を言ったのか。
自分の記憶には残っている。
病室。
ベッド。
父親の弱った声。
『恒一……』
だが。
その続きだけが、思い出せない。
少年が言った。
「父さんは、最後にこう言った」
「……何て?」
「お前は、俺が作った人間じゃない」
恒一の胸が締め付けられる。
「……」
「俺は、お前を戻しただけだって」
「戻した……?」
「そう」
少年は黒い本を見る。
「死んだ俺を、もう一度生きさせるために」
「……」
「父さんは俺を本の中から戻した」
恒一は理解できなかった。
「じゃあ……僕は?」
少年は答えた。
「お前は、そのために作られた」
部屋の空気が凍った。
「……何のために?」
「俺の代わり」
「……」
「俺が死んだあとも、俺の人生が続くように」
恒一は首を横に振った。
「そんな……」
否定しようとした。
だが。
否定できなかった。
自分の記憶。
自分の人生。
仕事。
友人。
家。
父親との思い出。
母親との思い出。
全部。
当たり前に存在していた。
なのに。
それらすべてが。
誰かから与えられたものだとしたら。
「じゃあ……僕には、本当の記憶がないのか?」
少年は答えなかった。
代わりに少女が口を開いた。
「あるよ」
「……本当に?」
「でも、それはあなたの記憶じゃない」
「どういう意味?」
「神谷恒一の記憶」
恒一は言葉を失った。
「あなたは、その記憶を入れられただけ」
「……」
「だから、あなたは神谷恒一として生きられた」
少年が言う。
「でも俺は違う」
少年は自分の胸を指差した。
「俺には、十四歳で死んだ記憶がある」
恒一を見る。
「だから俺が本物なんだ」
恒一は何も言えなかった。
そのとき。
黒い本が閉じた。
バタン。
少年が振り返る。
「……来る」
「何が?」
「次のページが」
黒い本の表紙が、ゆっくり開いた。
ページが一枚ずつめくられていく。
そして。
新しい文章が現れた。
『二人の神谷恒一が存在している。』
『一人は本物。』
『一人は偽物。』
そこで文字が止まる。
恒一は息を呑んだ。
「……どっちが消える?」
少女が小さく答えた。
「一人だけが、この物語を出られる」
「じゃあ……」
恒一は少年を見る。
「俺か、こいつか」
「そう」
少年も恒一を見た。
敵意はない。
むしろ。
悲しそうだった。
「俺は、お前を恨んでない」
「……」
「お前も被害者だから」
「じゃあ、どうすればいい?」
少年は黒い本を見る。
「本を燃やす」
「燃えるのか?」
「父さんは燃やせなかった」
「じゃあ無理だろ」
「俺もそう思ってた」
少年はページをめくった。
すると。
最後のページに、奇妙な文章があった。
『この本を燃やす方法』
恒一は目を見開いた。
「そんなもの……」
ページには三つの条件が書かれていた。
一つ。
『本物の神谷恒一が、自分の名前を捨てること。』
二つ。
『偽物の神谷恒一が、自分の人生を拒否すること。』
三つ。
『少女が、本当の名前を口にすること。』
少女が震えた。
「……」
恒一は少女を見る。
「これをやれば、本を燃やせる?」
「たぶん」
「じゃあ、やろう」
少女は首を横に振った。
「できない」
「どうして?」
「私が名前を言ったら、私は消える」
「……」
少年が言った。
「だから、この方法を父さんは使えなかった」
「父さんは……少女の名前を知っていたのか?」
少年が頷く。
「知ってた」
「何て名前?」
「俺は知らない」
「どうして?」
「父さんが俺にも教えなかったから」
恒一は少女を見る。
「君の名前は?」
少女は俯いた。
「言えない」
「じゃあ、本を燃やせないじゃないか」
「……そうだね」
沈黙。
雨音だけが部屋に響く。
そのとき。
黒い本に、新しい文字が浮かび上がった。
『条件を一つ変更します。』
恒一は本を見る。
『少女が本当の名前を言わなくてもいい。』
『誰かが、少女の名前を思い出せばいい。』
「……誰か?」
ページの下に。
新しい文章が現れた。
『その人物は、すでにこの部屋にいる。』
恒一は周囲を見渡した。
少女。
少年。
そして自分。
「……誰だ?」
少女の顔が変わった。
明らかに怯えている。
「違う……」
「何が?」
「この部屋にいるのは……」
少女が震える指で。
恒一の後ろを指した。
「三人じゃない」
恒一はゆっくり振り返る。
誰もいない。
だが。
窓ガラスに。
四人の姿が映っていた。
恒一。
少年。
少女。
そして――
父親。
「……父さん?」
窓ガラスの中の父親だけが。
こちらを見ていた。
そして。
口を動かした。
声は聞こえない。
だが。
恒一には読めた。
父親は。
こう言っていた。
『思い出せ』
その瞬間。
恒一の頭の中に。
二十年前の神社の光景が、一気に蘇った。
雨。
黒い本。
少女。
少年。
父親。
そして。
幼い自分が。
少女に向かって言った言葉。
『君の名前は――』
記憶の続きを。
恒一は初めて思い出した。
少女の名前。
その名前を知った瞬間。
黒い本が激しく震え始めた。
ページに文字が浮かぶ。
『名前を思い出しました。』
そして。
『読者が、物語の中へ完全に入りました。』
最後の一文。
『次にページをめくるのは、神谷恒一ではありません。』
――『あなたです。』




