第九章 近衛騎士の失くした頁
ゼノが任務から外されそうになったのは、さらに三日後のことだった。
書庫への報告として届いたのではなく、ノアが王宮側の連絡員から聞いてきた話だった。
「アルヴェインさん、頭痛の発作が続いているらしくて、上から一時休養の打診が来ているって」
「発作が続いている、というのは」
「王宮内で二度、急に動けなくなったって。護衛任務中に」
わたしは手を止めた。
先日の王宮での確認作業で、ゼノが冊子の中の紋章を見て頭痛を起こした。あれが任務中にも起きているということだった。
「先輩はご存じですか?」
「さっき話したら、知っていた顔をしていました」
ミレイユ先輩はその場にいなかったけれど、午後には戻ってくる予定だった。
わたしは手帳を開いた。
あのときに書いた一行を読み返した。ゼノ様、頭痛。古い紋章への反応。記憶に欠けているところがある可能性。
あのときゼノは「間違いではない」と言った。それ以上は話さなかった。
昼過ぎ、ゼノが書庫に来た。
顔色は悪くはなかったけれど、いつもより動きが少し慎重だった。わたしが気づいたのは、棚の間を歩くときの足の運び方が、普段より確認するような間があったからだ。
「昨日の百八番の件で、追加の情報が来た」
ゼノはミレイユ先輩に報告書を渡した。
「昨夜確保した男の素性が分かった。王宮内の記録補佐として働いていた人間で、三ヶ月前から出入りの記録が不自然に増えていた」
「誰かに依頼された可能性がありますか」
「高い。単独で動く動機が見えない」
「依頼主の心当たりは」
「今のところない」
先輩は報告書を確認してから、ゼノを見た。
「アルヴェイン騎士、一つ聞いてもいいですか」
「何か」
「体調は問題ありませんか」
短い沈黙があった。
「問題ない」
「休養の打診が来ていると聞きました」
「断った」
「理由は」
「今この件を途中で離れるわけにはいかない」
先輩はゼノをしばらく見た。何か言いたそうだったけれど、最終的に「分かりました」と言って報告書に目を戻した。
ゼノはわたしの方を見た。
わたしは手帳を持ったまま、目が合ったことに気づいた。
「何か」
「いいえ」
「そういう顔をしていた」
「していません」
ゼノは少し間を置いてから、棚の確認に向かった。
午後の照合作業中に、わたしは古い報告書の束の中に、それを見つけた。
封印暴走事件の報告書だった。三十年前の日付がある。閉架書庫で起きた書物の暴走について、当時の担当司書が記録した緊急報告だった。
内容を読み進めた。
暴走が起きたのは夜間だった。当直の司書が異変に気づき、封印を立て直そうとしたけれど制御が難しく、複数の書物が連鎖的に反応した。最終的には術式によって封じ込めたけれど、書庫内に相当の損傷があった、と記されていた。
その次のページに、被害状況と対応者の記録があった。
当日書庫にいた人物の一覧。担当司書の名前。補佐として動いた人員の名前。
そして最後の一行に、短い記述があった。
現場に民間人一名の子どもが迷い込んでいたけれど、暴走終息後に保護。当該事案については別途処理済み。
子ども。
わたしはその一行を二度読んだ。
三十年前の暴走事件の現場に、子どもがいた。
民間人と書かれているけれど、子どもが閉架書庫の暴走現場にいるとは、どういう状況なのか。そして「別途処理済み」という記述が、何を意味するのかも分からなかった。
わたしは報告書を持って、ゼノのところへ行こうとした。
そのとき、ゼノが棚の端で動きを止めているのが見えた。
額に手を当てていた。
「ゼノ様」
近づいた。ゼノは棚の棚板に手をついていた。呼吸は乱れていないけれど、顔色が白かった。
「また頭痛ですか」
「……少し待て」
「何か見ましたか、棚に」
「棚の、奥。古い封印札が、残っている」
見ると、棚の奥まったところに、劣化した封印札が一枚残っていた。普段の点検では見落としていた場所だった。
「あの封印札の紋章が」
「……見たことがある。どこでなのかが、分からない」
わたしは棚の奥の封印札を確認した。紋章の形は、他のものとは少し異なる古い様式だった。
「ゼノ様、こちらへ」
棚から離れるように促した。ゼノは大人しくついてきた。書庫の端の椅子に座らせて、わたしは水を取りに行った。
戻ってくると、ゼノは額から手を離していた。
「大丈夫ですか」
「ああ」
「嘘をついていませんか」
「……少しましになった」
正直な答えだと思った。
わたしは手元の報告書を持ったまま、迷った。今これを見せるべきかどうか。
でも、これを見せないまま進むことの方が、後で問題になる気がした。
「ゼノ様、一つ確認してもいいですか」
「何か」
「三十年前の封印暴走事件の報告書に、現場に子どもが一人いたという記述があります」
ゼノが顔を上げた。
「民間人の子どもで、事後に保護されたと書かれています」
「……」
「その子どもが誰か、この報告書には書いていません。別途処理済みという記述があるだけです」
ゼノは報告書を見た。わたしが示したページの、その一行を。
表情は変わらなかった。でも、その静けさは、何も感じていない静けさではなかった。
「心当たりがありますか」
「……分からない」
「分からないというのは、知らないのとは違いますか」
ゼノは少し黙った。
「……可能性を、考えたことはある」
「自分がその子どもだったかもしれない、という可能性ですか」
「確かめる方法がない。記憶がないから」
「いつごろから、記憶が欠けているんですか」
「幼いころの、ある時点より前が曖昧だ。何かがあったはずなのに、形にならない。夢の中で断片を見ることはある。でも、起きた後には残らない」
わたしは黙って聞いた。
「紋章を見ると頭痛がする。古い詠唱の音を聞いても同じだ。記憶ではなく、体が反応する。何かを知っているはずなのに、取り出せない」
「それがずっと続いていたんですか」
「覚えている限りは」
「それは、しんどいですね」
言ってから、軽い言葉だったかもしれないと思った。でもゼノは否定しなかった。
「……慣れた」
「慣れることと、平気なことは別だと思います」
「そうかもしれない」
穏やかな声だった。
わたしは少し間を置いてから、言った。
「一つだけ言っていいですか」
「何か」
「記憶がないことと、ゼノ様がゼノ様であることは、別のことだと思います」
ゼノが顔を上げた。
「記憶がなくても、今日までの判断や行動や、守ろうとしてきたものは、全部ゼノ様のものです。それは誰にも消せない」
ゼノはわたしを見た。
何も言わなかった。
でも、その沈黙は、いつものぶっきらぼうな沈黙とは少し違った。言葉を探しているような、受け取り方を決めかねているような、そういう静けさだった。
「……なぜ、そういうことを言えるんだ」
「記録を扱う仕事をしているからかもしれません」
「記録と、俺の記憶は関係ない」
「記録も記憶も、誰かが何かを残そうとした跡です。消えていても、欠けていても、残っているものがあれば、それは確かにあったということだと思っています」
ゼノはしばらく黙った。
それからゆっくり、視線を床に落とした。
「……ファルク・ベルンの欄外の名前と、同じことを言っている」
「そうですね」
「おまえは、記録のことになると、そういう言い方をする」
「早口にもなります」
「なっていた」
わずかに、ゼノの口元が動いた。笑ったわけではないかもしれないけれど、少し、固さが解けた気がした。
帰り際、ゼノはいつもより少し遅い足取りで書庫を出た。
廊下でわたしは、今日見つけた報告書のことを手帳に書いた。
三十年前の暴走現場に子どもが一人。別途処理済み。ゼノ様との関係、不明。ただし可能性あり。
それから少し考えて、もう一行書いた。
記憶がなくても、記録がなくても、残っているものがある。
自分に言い聞かせているのか、ゼノに向けて書いているのか、よく分からなかった。
でも書いたら、少し、胸の中が落ち着いた。




