第八章 書き残された名前
翌朝、百八番の本が何であるかが分かった。
ミレイユ先輩が昨夜のうちに別の台帳で調べていた。
「封印補助記録の写しです」
先輩は机にその台帳を広げた。
「三十年ほど前に、閉架書庫で使われていた封印術式の補助記録。術式の手順と、その時期に書庫で起きた異変の記録が綴られています」
「封印術式の記録が、なぜ持ち出そうとされたんですか」
「それが分かれば、今夜の件の意図が見えます」
先輩は台帳を閉じた。
「昨夜確保された男については、王宮側が取り調べています。ゼノ騎士から今日中に報告が来る予定です」
わたしは手帳を開いた。
百八番、封印補助記録。三十年前。
百三十九番と百四十一番と、同じ時代だった。
午前の点検を終えた後、わたしは返却記録の棚を確認することにした。
理由は単純だった。百八番の本が棚から消えている以上、その本がいつ最後に動かされたかを確認したかった。返却記録には、書庫内で本を移動させた際の記録も含まれている。
先輩に確認を取ってから、返却記録の棚に向かった。
該当する年代の記録を引き出して、机に広げた。
百八番の記録を探す。移動の記録は数件あった。最後の記録は七年前。以降は動いていない。
念のため前後のページも確認していたとき、指が止まった。
欄外だった。
通常、返却記録の本文には書物の番号と移動先、担当者の記名が並ぶ。でも、ある一ページの欄外に、本文とは別の文字が書かれていた。
小さな字だった。本文の筆跡とは明らかに違う、細くて丁寧な字。
名前だった。
ファルク・ベルン
それだけだった。名前の前後に何もない。日付もなく、説明もなく、ただその名前だけが欄外の隅に書かれていた。
わたしは周囲のページも確認した。
別のページの欄外にも、同じ筆跡で短い文字があった。
三号棚、十一番。確認済み。
また別のページに。
記録は残る。
断片的だった。意味の通った文章ではなく、走り書きのような短い言葉が、数ページにわたって欄外に散らばっていた。
全部、同じ筆跡だった。
ファルク・ベルンという名前を書いた人物と、同じ手によるものだと思った。
ミレイユ先輩にそれを見せた。
先輩は欄外の文字を順に確認した。無言だった。その沈黙は、驚いているというより、何かを測っているような静けさだった。
「ファルク・ベルンという人物を、ご存じですか」
「知らない名前です」
「書庫の関係者の記録に残っていますか」
「確認します」
先輩は別の棚から人員記録を取り出した。書庫の担当者一覧が年代順に並んでいる。
問題の時代のページを開いて、確認する。
しばらくして、先輩が言った。
「ない」
「ない、というのは」
「この人物の名前が、記録に存在しない」
先輩はページをわたしに見せた。確かに、ファルク・ベルンという名前はどこにもなかった。
「でも、欄外に自分の名前を書いているということは、この書庫に関わっていた人物ですよね」
「そう考えるのが自然です」
「記録から消された、ということですか」
先輩は少し間を置いた。
「可能性としては、あります」
「なぜ消されたのか」
「今の段階では分からない」
わたしは欄外の走り書きをもう一度見た。
記録は残る。
この人物は、自分の名前が消されることを知っていたのだろうか。だから、本文ではなく欄外に、記録の片隅に、こっそり書き残した。
消されても、どこかに残るように。
「先輩、このページを写させてもらえますか」
「今は原本を動かさないこと。写しは後で、わたしが立ち会って行います」
「分かりました」
午後、ゼノが書庫に来た。
昨夜の件の報告だった。
「確保した男については、王宮の警備が取り調べた。書庫への侵入は認めたけれど、誰の指示かについては話していない」
「話さないのか、話せないのか」
「今のところ分からない。ただ、確保した書類については確認が取れた」
「百八番の記録と関係がありましたか」
「直接ではない。書類の内容は、三十年前の封印術式に関する走り書きだった。書庫の記録とは別のところで書かれたものらしい」
「書庫の外で、封印術式の記録を持っている人間がいる」
「そういうことになる」
わたしは手帳を出した。
「今日、返却記録の欄外にファルク・ベルンという名前を見つけました。書庫の人員記録には存在しない名前です」
ゼノの目が動いた。
「どの記録に」
「返却記録の、問題の時代のページです。欄外に断片的な走り書きが数ページにわたってあります」
「見ていいか」
先輩の許可を取って、返却記録をゼノに見せた。
ゼノは欄外の文字を順に確認した。
表情は変わらなかったけれど、記録は残るという走り書きのところで、指が少し止まった。
「この人物について、他に手がかりはあるか」
「今のところ、この走り書きだけです。人員記録には名前がなく、どういう立場の人物だったかも分かっていません」
「消された可能性がある」
「はい。先輩もそう言っていました」
ゼノは記録を先輩に返した。
少し考える顔をしていた。
「似た構造だ」
「何が、ですか」
「百三十九番と百四十一番の記録が消されていたこと、人員記録からこの名前が消えていること。三十年前に、複数のものが同時に消されている」
「書物の記録と、人の記録が、同じ時期に」
「ああ。偶然ではないとすれば、消す必要があった理由が一つあって、それに関わるものを一括して消した」
わたしはその言葉を頭の中で繰り返した。
一つの理由のために、複数のものが消された。書物の記録、人員の記録、そして目録本体。
「ファルク・ベルンという人物は、消された理由に関わっていたんでしょうか」
「関わっていたから消されたのかもしれない」
「記録から人を消すというのは、その人が存在しなかったことにすることですよね」
「そうだ」
わたしは欄外の走り書きを見た。
存在しなかったことにされた人が、それでも欄外に名前を書き残していた。記録の片隅に、消えないように。
それが何かを、うまく言葉にできなかった。でも胸の中に、静かに重いものが積もった。
「ゼノ様は、記録から消されるということを、どう思いますか」
聞いてから、少し唐突だったと思った。
ゼノは少し間を置いた。
「……俺には、答えにくい問いだ」
「そうですね。すみません」
「いや」
ゼノは欄外の走り書きをもう一度見た。
「消された記録は、消えたわけではない。こうして残っている」
「欄外に、誰にも見つけてもらえないまま」
「おまえが見つけた」
「偶然です」
「偶然でも、見つかった」
それだけだった。
でもその言い方が、ゼノ自身の何かに触れているような気がした。記録を失った人間として、この欄外の名前に何かを重ねているような。
わたしは聞かなかった。
夕方、ノアが資料の整理をしながら言った。
「ファルク・ベルンって、どんな人だったんですかね」
「分からない。記録が残っていないから」
「でも欄外に書いていたってことは、几帳面な人だったのかな。記録を大事にする人」
「そうかもしれない」
「消されちゃったんですよね、記録が」
「らしい」
「なんでそういうことが起きるんですかね」
ノアは素朴な言い方をした。怒っているのでも、分析しているのでもなく、ただ純粋に不思議がっているような。
「誰かの都合が、別の誰かより大きかったから、だと思います」
わたしは答えた。
「その都合って、正しいんですか」
「正しいかどうかは、わたしには判断できません。でも」
「でも?」
「記録を消すことで守られた何かと、記録が消されてなくなった何かが、あるとしたら。わたしは消されてなくなった方を、どこかに残したいと思います」
ノアはしばらく考えるような顔をした。
「それ、司書みたいな考え方ですね」
「司書見習いですが」
「いや、見習いっぽくないですよ、その言い方」
わたしは少し笑った。
笑いながら、欄外の名前のことを考えていた。
ファルク・ベルン。三十年前にこの書庫にいて、記録から消されて、それでも欄外に名前を書き残した人物。
その人が何をしたのか、何を知っていたのか、なぜ消されたのか。
まだ何も分かっていなかった。
でも名前が分かった。それだけで、少し違う気がした。
消えていない、とまだ言える。




