第七章 閉架書庫の夜番
王宮への往復が続いて四日が経った。
その間に分かったことをまとめると、所在不明の記録が問題の時代に集中していること、禁書指定の一部が通常の手続きを経ていない可能性があること、そして百三十七番から百四十二番の五冊について、王宮側の記録にも断片的な痕跡があること、の三点だった。
断片は増えていた。でも、まだつながっていなかった。
その日の夜、閉架書庫の夜番補助に入ることになった。
夜番は通常、上位の司書が行う。ただしミレイユ先輩が別の対応で出られなくなり、わたしが補助として入ることになった。正確には、先輩が書庫の外で待機しながら、わたしが内部の見回りをする形だった。
「夜の書庫は昼間とは別物です」
先輩が出発前に言った。
「昼間は人の気配があるから、本も落ち着いている。夜は違う。静かになると、魔力を帯びたものが動きやすくなる」
「暴走する可能性がありますか」
「低いけれど、ゼロではない。異変を感じたらすぐに外へ出て報告。単独での対処はしないこと」
「分かりました」
「それと」
先輩はわたしをまっすぐ見た。
「今日は調べる夜ではない。見回りの夜です」
念押しだった。わたしが調べようとすることを、先輩は読んでいた。
「分かっています」
「分かっていることと、できることは別です」
夜の閉架書庫は、昼間と確かに違った。
燭台の火が廊下と棚の間に影を作り、昼間は見えていた棚の奥が闇になっている。本の背表紙が火の光を受けて、金や赤のインクがわずかに光る。静かなのに、どこかで何かが息をしているような密度があった。
ノアが一緒だった。
「リシェルさん、夜番初めてですか」
「はい」
「僕も数回しかないですけど、慣れないですよね、この感じ」
ノアは燭台を持って、わたしの少し前を歩いた。
「昼間と同じ場所なのに、別の場所みたいですよね」
「そうね。本の気配が、昼間より強い気がします」
「気配って、感じるんですか、リシェルさんは」
「うっすら、ですが」
「すごいな」
ノアは素直に感心したような声で言った。
一列目の棚を確認した。異常なし。封印札の状態も問題ない。
二列目に入ったとき、ノアが小声で言った。
「あの騎士さまも来るんですよね、今夜」
「ゼノ様が?」
「さっき先輩に話してました。夜の書庫で追加確認があると」
わたしは少し考えた。先輩からその話は聞いていなかった。
「何を確認するか、言っていましたか」
「配架の順番だったかな。昨日、棚の本の並びが少し変わっているところがあったって」
「並びが変わった?」
「はい。誰も動かしていないのに」
わたしは手帳を出した。
昨日は王宮への往復で書庫にいる時間が短かった。その間に棚の並びが変わっていたとしたら、書庫に誰かが入った可能性がある。
「どの棚ですか」
「四号棚だったと思います」
「確認しに行っていいですか」
「見回りのルートに入ってますよ、四号棚も」
三列目を抜けて四号棚へ向かった。
燭台の火を近づけて棚を確認した。
背表紙の順番を目で追う。番号順に並んでいるはずが、一箇所だけ、番号の順序が飛んでいた。
「ここ、一冊抜けています」
ノアが燭台を近づけた。
「本当だ。昨日は、確かこのあたりに詰まって並んでいたはずなんですが」
「隣の棚に紛れた可能性がありますか?」
「確認してみますか」
周囲の棚を一通り見た。
見つからなかった。
わたしは番号を手帳に書いた。百八番。問題の五冊とは別の番号だったけれど、封印管理区画の近くに配架されていたはずの本だった。
「ノアさん、今夜の入庫記録に、わたしたちと先輩以外の記録はありますか?」
「退庫後の記録は今のところないはずです。でも……」
ノアは少し声を落とした。
「昨日も誰かいたんじゃないかって、先輩は言ってました。記録にはないのに、棚の状態が変わっていたって」
「記録にない人間が入った」
「可能性として」
わたしは棚を見た。
百八番の隙間は、一冊分の空白だった。三号棚の十四番目録が消えたときと、同じ空白。
そのとき、書庫の奥から音がした。
かすかな音だった。本が動くような、紙がこすれるような。
「……聞こえましたか?」
ノアが頷いた。顔が少し青くなっていた。
「先輩を呼んできます」
「待って」
わたしはノアを止めた。
音のした方向を確かめたかった。封印管理区画の奥、昼間でも暗がりになっている場所だった。
「リシェルさん、先輩が単独で行くなって」
「行かない。ここから確認するだけです」
燭台を持って、音のした方向を見た。
棚の奥に、影が動いた。
人の影だった。
「誰かいます」
ノアが息をのんだ。
わたしは声を上げようとした。そのとき、影が動いた。棚の列を抜けて、書庫の端に向かう。出口ではなく、搬入口の方向だった。
「逃げようとしています」
「どうするんですか」
「追います。ノアさんは先輩を呼んで」
「でも一人で」
「出口まで行ったら外に出られる。出られたら分からなくなります」
わたしは走った。
棚の列を抜けて、影の方向へ。燭台を持って走ると火が揺れて、足元の影が大きく動く。本棚の間を曲がると、搬入口の重い扉が、わずかに動いていた。
間に合うかどうか、分からなかった。
扉に手をかけたとき、後ろから声がした。
「止まれ」
ゼノの声だった。
搬入口の扉が勢いよく開いた。外から蹴り開けたのだ。外回りをしていたゼノが、搬入口の外から先回りしていた。
扉の向こうに、人影があった。
男だった。外套を被って顔を隠していたけれど、逃げ道を塞がれて動きが止まった。
ゼノが素早く距離を詰めた。
男は一瞬身構えたけれど、ゼノの動きの方が速かった。腕を取られ、壁に押さえ込まれた。
「誰の指示で入った」
ゼノの声は低かった。
男は答えなかった。
「書庫で何をしていた」
沈黙。
ゼノが外套の内側を確認した。書類のようなものが一枚、出てきた。
「これは」
「知らない」
「書庫の棚から持ち出したものじゃないのか」
「知らないと言っている」
ゼノは書類を確保したまま、男の腕を離さなかった。
わたしはその横で、書類に目を向けた。一瞬だけ見えた。文字と番号の羅列。日付があった。
書庫の記録に似た形式だった。
ノアが先輩を連れて駆けてきた。先輩は状況を一瞬で把握した表情をして、ゼノに向かった。
「衛兵を呼びます」
「頼む」
その後の処理に時間がかかった。
衛兵が来て、男は王宮側に引き渡された。書庫の搬入口周辺の確認、棚の状態の再点検。わたしとノアは先輩に状況を詳しく説明した。
「百八番が棚から消えていることは、男が持ち出したんでしょうか」
「ゼノ騎士が確保した書類が、その本の記録の一部である可能性はある。ただし、確認は王宮側がする」
「書庫への侵入経路は」
「搬入口の鍵が、合鍵で開けられた形跡がある。鍵師か、あるいは鍵の写しを持っている人間の仕業です」
先輩の顔は落ち着いていたけれど、目が厳しかった。
「書庫の合鍵を持てる立場の人間は、限られています」
わたしは先輩の言葉を手帳に書いた。
処理が終わって、衛兵が引き上げた後、書庫の外の廊下でゼノがわたしのところに来た。
「追ったのか、一人で」
「ノアさんを先輩のところへ走らせました。一人ではないです」
「結果として一人になっていた」
「外から先回りしてくれると思っていませんでした」
「運がよかっただけだ」
「そうかもしれません。でも逃がしたくなかった」
ゼノは少し間を置いた。
「今夜は見回りの夜だと言われたはずだ」
「言われました」
「だが追った」
「棚の並びが変わっているのを見つけて、確認しているうちに影を見ました。判断する時間がなかった」
「先に言っておくが、俺は怒っているわけではない」
そう前置きしてから、ゼノは続けた。
「ただ、今夜みたいな動き方を続けると、いつか間に合わなくなる。俺が外にいるとは限らない」
「分かっています」
「危ないと思ったら言え、と言ったはずだ」
「言う間がありませんでした」
「……そうだな」
ゼノは短く息を吐いた。
「今夜の件で、書庫への侵入者がいることは確かになった。相手は合鍵を持っている。それだけの立場がある人間が、記録を持ち出そうとしている」
「百八番が何の本か、調べる必要がありますか」
「ああ。それと、男が確保した書類が、冊子の記号と同じ形式だった場合、どこかで繋がっている可能性がある」
廊下の燭台が揺れた。
夜の書庫は、まだ静かだった。でも今夜の静けさは、今までとは少し種類が違う気がした。
「ゼノ様」
「何か」
「今夜先回りしてくれていなかったら、侵入者は逃げていました」
「そうだな」
「ありがとうございました」
ゼノはわずかに間を置いた。
「礼はいい。次は一人で追うな」
「善処します」
「善処ではなく、するな」
「……はい」
先輩がこちらに来た。今夜の最終確認と、明日の対応について話すためだった。
わたしはもう一度だけ、閉架書庫の扉を見た。
鍵が新しくかけられた重い扉の向こうに、百八番の隙間を持ったままの棚がある。
誰が何のために、何を持ち出そうとしたのか。
答えはまだ棚の奥に眠っていた。




