第六章 新米司書、王宮に残る
翌朝、館長室に呼ばれた。
昨日の報告を受けての呼び出しだろうと思っていたけれど、館長の顔は、予想より少し複雑だった。
「座ってください」
椅子を勧められた。ミレイユ先輩はいなかった。
「昨日の件ですが、王宮から正式な依頼が届きました」
館長は書類を机に置いた。
「欠落した記録の確認と、禁書指定の照合が複数日にわたる見込みになった。図書館側から継続的に担当者を派遣してほしいという要請です」
「継続的に、というのは」
「しばらくの間、王宮と図書館を往復する形で作業を続けてほしいということです」
わたしは少し間を置いた。
「わたしが、ですか」
「あなたにお願いしたい。昨日の報告を読みました。よく動けています」
「ただ、見習いで」
「見習いだからこそ頼みやすい面もあります」
館長は少し声のトーンを落とした。
「閉架書庫の記録に関わる調査です。上位の司書が動けば、王宮側に余計な緊張を生む可能性がある。あなたが担当する形の方が、作業を進めやすい」
それは説明として正しいかもしれなかった。でも同時に、見習いを前に出すことで、図書館としての関与を薄く見せる意図もあるのかもしれないとも思った。
「館長、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「今回の件、館長はどこまでご存じですか。消えた目録のことも、記録の欠落のことも」
館長は少し目を細めた。
穏やかな表情は変わらなかった。でも、その奥にある何かが、少しだけ動いた気がした。
「わたしが知っていることと、知らないことがあります」
「知っていることを、教えていただくことはできますか」
「今は、まだ」
やわらかい言い方だったけれど、それ以上は話さないという意味だった。
わたしは引き下がった。
「王宮への派遣、お受けします」
「ありがとうございます。ミレイユにも話を通します」
ミレイユ先輩に報告すると、先輩は書類に目を落としたまま短く言った。
「そう。では行きなさい」
「先輩はいらっしゃらないんですか」
「書庫を空けられない。あなたが主担当です」
「心細いんですが」
「心細くても行くのが仕事です」
先輩は書類から目を上げた。
「ただ一つだけ言っておく。仕事として行くなら、成果を持ち帰りなさい。曖昧な報告を積み上げるより、一つでも確かなことを掴んでくること」
「はい」
「それと」
先輩は少し間を置いた。
「向こうで何かに使われそうになったら、断ること。あなたは図書館の担当者として行くのであって、王宮の都合のいい道具ではない」
先輩らしい言い方だった。厳しいけれど、理不尽ではない。
「分かりました」
「行ってらっしゃい」
王宮に着くと、昨日と同じ記録保管庫に案内された。
今日もセレナが担当だった。
「フォルナーさん、今日からしばらくよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
資料が用意されていた。欠落していた記録のうち、取り寄せできたものと、できなかったものの一覧。できなかったものについては、所在が確認できないという説明書きが添えられていた。
「所在が確認できないというのは、紛失ですか」
「記録上、移管先が明記されていないものがいくつかあります。どこかに保管されているはずですが、現時点では場所が分かっていません」
「移管先が分からないのは、この時代の記録に集中していますか」
「……確認してみます」
今日のセレナは、昨日より少し慎重な感じがした。言葉を選ぶ間が、わずかに長い。
わたしは作業机に資料を広げた。
取り寄せできた記録から確認する。禁書指定の一件について、詳細が書かれた報告書が出てきた。
書物の内容ではなく、管理上の問題が理由だった。封印の不安定化、保管中の自発的な頁めくり、閲覧者への精神的影響。
閉架書庫で起きていることと、よく似ていた。
三十年前も、今と同じようなことが起きていたのかもしれない。
「フォルナーさん」
セレナが近づいてきた。
「少しよろしいですか」
「はい」
「昨日、棚で薄い冊子が見つかったと聞きました」
わたしは手帳を持つ手を止めた。
「誰から聞かれましたか」
「担当の者から報告が来ました。棚の端に表示のないものが置かれていたと」
「はい、ありました」
「中を確認されましたか」
「数字と記号の一覧でした。詳しくはアルヴェイン騎士が確認しています」
「そうですか」
セレナは少し間を置いた。
「誰が置いたか、心当たりはありますか」
「ありません。昨日、この保管庫に出入りした人物の記録を確認すれば分かるのではないですか」
「そうですね。確認します」
セレナは引き下がった。
わたしは手帳に短く書いた。セレナ書記官、冊子について確認してきた。置いた人物を知っているか、知りたいのか、どちらか分からない。
昼を過ぎたころ、作業の区切りがついた。
セレナが席を外したタイミングで、ゼノが近くに来た。今日は部屋の端で書類を確認する時間が多かったけれど、作業の進みを定期的に確認していた。
「進み具合は」
「取り寄せできた記録の確認が終わりました。所在不明の記録については、移管先が分からないものがこの時代に集中しています」
「集中している」
「他の時代の記録と比べると、明らかです。偶然の散逸にしては多い」
「意図的に所在を分からなくした可能性がある」
「はい。それと、禁書指定の理由の中に、今の閉架書庫と状況が似た記述がありました。封印の不安定化、自発的な反応」
「三十年前にも同じことが起きていたか」
「少なくとも、記録の上では」
ゼノは少し考える顔をした。
封印の不安定化。抜け落ちた記録。特定の書物に偏った異常。
ひとつずつなら不備で済む。けれど、同じ種類の欠落が、同じような偏りで三十年前にも残っているなら、それはもう偶然ではなく意図だ。
三十年前の書庫で起きたことは、終わったのではなく、形を変えて今も続いているのかもしれなかった。
「冊子の解析が少し進んだ。日付と番号の羅列は、書物の管理記録に似た形式だ。ただし、一般的な形式とは異なる独自の記号が混じっている」
「暗号ですか?」
「暗号というより、特定の人間にしか読めない略記かもしれない。作成者が誰かを特定できれば、内容も分かる」
わたしは冊子の頁をもう一度見た。
数字と記号の並びそのものより、空白の入り方と、同じ記号が置かれている位置の揃い方が気になった。
「……違うかもしれません」
二人がこちらを見た。
「これは、隠すためだけの書き方ではない気がします。隠したいなら、もっとばらばらに崩したほうが見つかりにくい。なのにこれは、消した痕跡だけは分かるように揃いすぎています」
ゼノが目を細めた。
「どういう意味だ」
「書き手は記録を捨てていないんです。捨てる人なら、こんなふうに痕跡の残り方を揃えません。残したい気持ちと、消さなければならない事情が、同じ頁の上で喧嘩しているように見えます」
少しの沈黙が落ちた。
「本を隠したかったのではなく、隠したという事実ごと、別の形で保存していたんだと思います」
ゼノは冊子に視線を落とした。
「……そう読むのか」
低い声には、確かめるだけではない響きが混じっていた。
「はい。記号の意味より先に、記録の作り方がそう言っている気がします」
短い沈黙のあと、ゼノは冊子の端を指で押さえた。
「筋は通る」
ゼノの声は低いままだったけれど、行き止まりではなくなったときの響きが、わずかに混じっていた。それは大きな賞賛ではなかった。でも、思いつきを思いつきのまま流さず、調べる価値のある仮説として受け取る声だった。
「作成者を絞り込む手がかりは」
「記号の中に、王宮の特定部署でしか使わない略称が含まれている。書記官の仕事に近い」
わたしはセレナの方を見た。
ゼノも同じ方向を見た。
「決めつけるな」
「決めつけていません。可能性の一つとして」
「ああ」
ゼノは短く言って、元の位置に戻った。
午後の作業を再開しようとしたとき、廊下から声がした。
扉が開いて、入ってきた人物を見て、部屋の空気が少し変わった。
男性だった。
銀に近い淡い色の髪、整いすぎた顔立ち。物腰が柔らかく、歩き方に無駄がない。年齢はゼノよりいくつか上だろうか。
ゼノの表情が、わずかに変わった。変わったというより、固まった、という方が近かった。
「やあ、アルヴェイン騎士。今日も来ていたんですね」
男性の声は穏やかだった。敵意がない。でも、その穏やかさの奥に、何か別のものがある気がした。
「グレイヴ補佐官」
ゼノの返事は短かった。
「図書館からも担当者が来ていると聞いて、挨拶にと思って」
男性がわたしを見た。
「フォルナーさんですね。王宮魔導顧問補佐のルシアン・グレイヴです」
「リシェル・フォルナーです」
「今回の件、なかなか複雑そうですね。記録の欠落が多くて、追いかけるのが大変でしょう」
「少しずつ整理しています」
「何かあれば言ってください。この時代の魔導書の管理については、わたしも少し専門的に調べたことがあります。お役に立てることがあるかもしれない」
柔らかい言い方だった。親切に聞こえた。
でも、背中に視線を感じた。
ゼノがこちらを見ていた。何も言わなかったけれど、目が「距離を置け」と言っていた。
「ありがとうございます。必要があればお声がけします」
わたしはそう答えた。
ルシアンは微笑んで、セレナに何か短く話しかけてから、部屋を出た。
沈黙が少し続いた。
「アルヴェイン騎士、グレイヴ補佐官とは」
「仕事上の接点があるだけだ」
「そうですか」
セレナはそれ以上言わなかった。
帰り道、王宮の廊下を歩きながら、ゼノがわたしの横に並んだ。
「グレイヴに何か聞かれたら、答えなくていい」
「理由を聞いてもいいですか」
「信用するなということだ。ああいう相手は、先にこちらを量る」
低い声だった。言い慣れた忠告というより、一度知ってしまったことを確かめるみたいな言い方だった。この人はただ慎重なのではなく、何かを失わせないために慎重なのだと、そのとき少しだけ分かった。
「信用できない理由は」
「……感覚だ。今は説明できない」
いつもより言葉が少なかった。
馬車に乗り込んで、王宮を出た。
しばらく走ったとき、ゼノが口を開いた。
「おまえは、守られるためにここにいるわけじゃないと言っていたな」
以前言った言葉を、覚えていた。
「はい」
「今日の動き方は、そう言うだけのことはあった」
「ただ」
ゼノの声が少し固くなった。
「王宮は閉架書庫より複雑だ。何が危険かが見えにくい。今日みたいに一人で判断しなければならない場面が増える」
「分かっています」
「分かっているなら」
「でも、下がってばかりもいられません」
ゼノはわたしを見た。
「分かっている、と言いながら、同じことを言うのか」
「分かっているから言っています」
「どういう意味だ」
「危険を無視するつもりはありません。でも記録を追うためにここにいるのに、危険だから下がれと言われるたびに下がっていたら、何も見つけられません。守られるためじゃなく、調べるためにいるんです」
ゼノは少し間を置いた。
「……それは、俺の言い方が悪かった」
予想していなかった答えだった。
「ゼノ様が」
「危ないから下がれという言い方をした。それでは、おまえを現場から外すことになる」
「では、どう言いたかったんですか」
「危ないと思ったら言え。一人で抱えるな」
馬車が揺れた。
窓の外に夕暮れの街が流れていた。
わたしは少し考えてから言った。
「それなら、できます」
「ならそうしろ」
短い沈黙が続いた。
噛み合わなかったのに、噛み合った。そういう感じがした。
手帳を開いて、今日のことを書こうとして、やめた。
今日のことは、もう少し後で書こうと思った。




