第五章 王宮書庫の沈黙
翌朝、閉架書庫に戻ったわたしは、昨日の照合結果を台帳と突き合わせた。
王宮の禁書指定記録と一致しなかった四件。それぞれの指定番号と時期を書き出し、閉架書庫の蔵書台帳と並べる。
三件は一致しなかった理由が見当たらなかった。王宮側だけに記録があり、図書館側には対応する記録がない。単純に図書館への移管がなかったのかもしれないし、あるいは記録そのものが消えているのかもしれない。
四件目で、手が止まった。
禁書指定の番号が、控えで記述が飛んでいた五冊の範囲に入っていた。
百四十一番。
わたしは手帳に丸をつけた。
百三十九番と百四十一番。五冊のうち、二冊について何らかの痕跡が出てきた。残りの三冊は、まだ何も分かっていない。
「フォルナーさん、今日の点検を始めます」
先輩の声で、わたしは台帳を閉じた。
午前中の点検を終えたころ、ゼノが書庫に来た。
今日は珍しく、書類を持っていなかった。
「王宮から追加の依頼が来た」
ミレイユ先輩に言った。
「昨日の照合で出た、禁書指定の不一致について、王宮書庫でもう一度確認したいという話になった。今日の午後、もう一度来てほしい」
「今日の午後、ですか」
「急で申し訳ないが、上の判断だ」
先輩は少し考えてから、わたしを見た。
「フォルナーさん、行けますか」
「はい」
「では午後から出ます」
ゼノがわたしに目を向けた。
「昨日の照合結果で、何か追加で気づいたことはあるか」
「四件目の禁書指定番号が、控えで記述が飛んでいた五冊の範囲に入っていました。百四十一番です」
「昨日確認した百三十九番と合わせて、二冊が重なる」
「はい」
「残りの三冊については」
「まだ何も。台帳からは追いかけられていません」
ゼノは短く頷いた。
「今日の確認でそこも押さえたい」
午後から再び王宮へ向かった。
今日はミレイユ先輩は来なかった。書庫を長く空けられないという判断で、わたしとゼノの二人だった。昨日より人数が少ない分、馬車の中が静かだった。
ゼノは今日も窓の外を見ていた。
わたしは手帳を見直していた。
「フォルナーさん」
珍しく、向こうから声をかけてきた。
「はい」
「昨日のユーヴェル書記官の件だが」
「表情が変わった件ですか」
「今日も来る。話しかけてくるかもしれない」
「それは問題ですか」
「問題というわけではない。ただ、彼女は頭がいい。こちらが何を探しているか、話の中から読もうとする」
「昨日も感じました。言葉の置き方が、少し計算されているような」
「気づいていたなら、今日も同じように動けばいい」
「聞かれたことだけ答える」
「ああ」
馬車が王宮の門に差し掛かった。
「一つだけ聞いていいですか」
「何か」
「ユーヴェル書記官は、ゼノ様とは以前から面識がありますか」
ゼノは少し間を置いた。窓の外を見たまま答えた。
「ある」
「どのくらいの」
「王宮内で仕事上の接点が何度かあった。それだけだ」
それだけだと言ったけれど、昨日の廊下でのすれ違いで、セレナがゼノに向けた目は、初対面の人間に向けるものではなかった気がした。
でも今は、それ以上聞く場ではないと思った。
王宮の記録保管庫に入ると、セレナが待っていた。
「お越しいただきありがとうございます、フォルナーさん」
昨日と同じ穏やかな声。わたしとゼノを順に見て、わずかに微笑んだ。
「アルヴェイン騎士も」
「ユーヴェル書記官」
ゼノの返事は短かった。礼を保っているけれど、親しくもない、という距離感。
昨日と同じ作業机に案内され、追加の資料が並べられていた。禁書指定の詳細記録と、時代に対応した別の系譜資料。
照合を始めた。
わたしは昨日からの続きとして、一致しない四件のうち詳細が確認できていなかった三件について記録を追った。
一件目は、禁書指定の理由が「魔力の不安定化による危険性」とだけ書かれていた。具体的な書物名が記載されていない。
二件目は、指定後に「処分済み」と記録されていた。処分の日付と担当者の記名があったけれど、担当者の名前が途中で別の字に上書きされていた。
「この担当者の名前、上書きされています」
わたしは声に出した後、セレナを見た。セレナは近くの棚を確認していたけれど、こちらに来て記録を見た。
「以前から確認されていた箇所です。担当者が異動になったため、記録上の名義を変更したと聞いています」
「変更する場合は、元の記載を残した上で訂正を入れるのが通常の書式ではないですか。上書きは、元の記載が読めなくなります」
セレナは少し間を置いた。
「おっしゃる通りです。この記録については、正式な訂正手続きが踏まれていない可能性があります。確認いたします」
「お願いします」
答え方は丁寧だった。でも、確認しますと言いながら、何かを保留している感じがした。
三件目の確認に移った。
そこで、わたしの手が止まった。
記録そのものがなかった。
禁書指定の番号だけがあり、対応する詳細記録が欠落している。台帳の目次には番号が載っているのに、実際のページが存在しない。
「このページが、ありません」
「……」
セレナが来て確認した。今度は間を置かなかった。
「申し訳ありません。該当の記録を確認します。少々お時間をいただけますか」
「はい」
セレナは別の担当者に何か指示を出して、部屋を出た。
わたしとゼノだけになった。
ゼノが棚の端に立ち、わたしの方に少し近づいた。声を低くした。
「欠落か」
「目次には番号がある。でも実際のページがない」
「意図的に抜かれた可能性がある」
「はい」
「記録しておけ。ただし今は待て」
わたしは手帳に書いた。
それから部屋の中を見渡した。
整えられた棚。整えられた記録。でもその中に、欠落と上書きと修正が、少しずつ混じっている。
この部屋の空気に、感情の残り香はほとんどない。でも今日は、棚の一角から微かに何かを感じた。昨日の系譜記録の修正痕があった辺り。
そちらに目が向いた。
昨日と同じ棚。系譜記録が並ぶ区画。
その奥に、昨日は気づかなかった薄い冊子が差し込まれていた。他の記録と同じような外観だったけれど、背表紙の表示がなかった。
「ゼノ様、あの棚の奥、昨日はなかったものがあります」
ゼノが目を向けた。
「どれだ」
「表示のない薄い冊子。端に差し込まれています」
ゼノは棚に近づいた。わたしも後に続いた。
棚の端、他の記録の影になった場所に、確かに一冊の薄い冊子が差し込まれていた。背表紙には何も書かれていない。
「昨日はなかったか」
「少なくとも、わたしは見ていません」
「今日、誰かが置いた可能性がある」
ゼノが手袋をして、冊子を取り出した。
開いた。
中は、文章ではなかった。数字と記号が並んでいた。一見すると暗号のようだが、記録の形式に似ている。日付と番号と、短い記号の組み合わせ。
「これは」
「分からない。持ち帰って確認する」
そのとき、ゼノの顔色が変わった。
突然だった。
手に持った冊子を棚に戻し、額に手を当てた。目を細めて、片手で棚の端を支えた。
「ゼノ様」
「……平気だ」
「平気に見えません」
「少し待て」
わたしは近くに椅子を引き寄せた。ゼノはそれを見て、わずかに眉を上げたけれど、何も言わず腰を下ろした。
額に手を当てたまま、しばらく目を閉じていた。
わたしは棚の前に立って、ゼノを見た。顔色が悪かった。
「頭痛ですか」
「……ああ」
「このあたりに来たとき、よくあることですか」
ゼノは答えなかった。
答えないということが、答えだった。
「冊子に触れたときに起きましたか」
「……そうかもしれない」
「前にも、封印が弱まった魔導書に反応していましたね」
「関係ない」
「関係ある気がします」
わたしが意見すると、ゼノがわたしを見た。目が鋭かった。でも、否定の言葉は出なかった。
「……古い紋章を見ると、たまに出る。それだけだ」
「その冊子の中に、古い紋章に似た記号がありましたか」
ゼノは冊子を見た。
ページを繰り、一箇所で手が止まった。
「……ある」
「覚えがありますか、その紋章に」
「分からない」
分からないという言葉は、知らないとは少し違う響きがあった。
「見たことがあるような、でも思い出せない」
「記憶に引っかかっているんですね」
「……うるさい」
短く言ったけれど、怒りよりも困惑に近い声だった。
しばらく沈黙が続いた。
わたしは棚の端を見ながら、この部屋の空気のことを考えた。整えられた記録の中に仕込まれた欠落。今日突然現れた表示のない冊子。そしてゼノの頭痛。
これは偶然ではないと思った。
「ゼノ様」
「何か」
「今日、この冊子が置かれたとしたら、置いた人間はわたしたちが来ることを知っていた可能性があります」
ゼノが顔を上げた。
「つまり」
「わたしたちに見つけさせようとした。あるいは、ゼノ様に見せようとした」
ゼノの目が少し動いた。
「……それは、誰の得になる」
「分かりません。でも、置かれた場所が昨日セレナ書記官と話した棚の近くです」
「ユーヴェルが」
「断定できません。ただ」
わたしは言葉を選んだ。
「昨日、わたしが系譜記録の修正痕を指摘したとき、彼女の表情が変わりました。今日、その棚の近くに表示のない冊子がある。偶然かもしれませんが」
ゼノはしばらく黙っていた。
頭痛は少し落ち着いてきたようで、棚の端から手を離した。
「今日の件は全部報告する。冊子のことも、欠落のことも」
「はい」
「おまえの見立ては、今日も外れていなかった」
「まだ確認できていないことの方が多いです」
「それでも、目の付け所は合っている」
ゼノは立ち上がった。まだ少し顔色が戻っていなかったけれど、姿勢は元に戻っていた。
そのとき、セレナが戻ってきた。
「お待たせしました。該当の記録について確認したところ、保管場所が別区画に移されていたようです。お時間をいただければ取り寄せることができますが」
「今日は時間がない。後日にします」
ゼノが答えた。
セレナはゼノを見た。一瞬だけ、その目が変わった。昨日わたしに向けたような、確認の目。ゼノに向けたそれは、少し違う色を帯びていた。
心配、とも違う。知っている、に近い何かだった。
「体調が優れないようでしたら、無理をなさらず」
「問題ない」
ゼノの返事は短かった。
セレナはそれ以上言わなかった。
帰りの馬車の中で、ゼノはずっと窓の外を見ていた。
頭痛はほぼ収まったようだったけれど、何か考えているような沈黙だった。
「ゼノ様」
「何か」
「無理していませんか」
「していない」
「……冊子の中の紋章、今も気になっていますか」
ゼノは少し間を置いた。
「見たことがあるはずなのに、思い出せない。それが気持ち悪い」
「記憶に、欠けているところがありますか」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。でも、言葉は出てしまっていた。
ゼノはわたしを見た。
「……なぜそう思う」
「反応が、記録を見たときの反応ではなかった気がして。何かを知っているのに取り出せない、という感じに見えました」
ゼノはしばらく黙った。
馬車が石畳を走る振動が続く。
「……俺のことを分析するな」
「すみません」
「ただ」
ゼノは短く息を吐いた。
「間違いではない」
それ以上は言わなかった。
わたしも、それ以上は聞かなかった。
でも、その短い言葉が、馬車の静けさの中にずっと残っていた。




