第十章 閲覧禁止の部屋
百八番の封印補助記録と、三十年前の暴走事件報告書。その二つを並べて改めて読んだとき、わたしは一つのことに気づいた。
報告書には、暴走終息後の対応として「別区画への移送」という記述があった。暴走に関わった書物の一部を、通常の書庫とは別の場所へ移したと書かれている。その移送先の名称が、記録の中で一度だけ使われていた。
第三封鎖区画。
閉架書庫の台帳に、その名称は存在しなかった。
わたしはミレイユ先輩に聞いた。
「第三封鎖区画という名称を、ご存知ですか」
先輩は少し間を置いた。
「聞いたことはあります」
「どういう場所ですか」
「詳しくは知らない。わたしが書庫に配属されたときには、すでに正式記録から外れていました」
「存在はしているんですか」
「館長に聞きなさい」
先輩の答え方が、少し慎重だった。知らないのではなく、言えないことがあるのかもしれなかった。
館長室に行った。
エドガルド館長は、わたしが持参した報告書の該当箇所を見て、しばらく黙っていた。
「館長、第三封鎖区画というのは」
「……あります」
「図書館の台帳に記載がないのはなぜですか」
「正式な管理対象から外れているからです」
「外れている、というのは」
「ある時点から、王宮の管轄に移った。以降は図書館の台帳には載らない」
わたしは手帳を出した。
「王宮のどこにありますか」
館長はわたしを見た。穏やかな顔だったけれど、その奥に何かを測るような目があった。
「フォルナーさん、なぜそこを調べようとしているのか、聞いてもいいですか」
「三十年前の暴走事件と、今書庫で起きていることが繋がっている可能性があります。その繋がりの一部が、その場所にあるかもしれない」
「危険です」
「承知しています」
「危険だと言っています。物理的な意味だけではなく」
「館長」
わたしは少し息を吸った。
「消された記録がある。消された人物がいる。それを調べることが、なぜ危険なんですか」
館長はしばらく黙った。
「……場所だけ、教えます。ただし、必ずアルヴェイン騎士と一緒に行くこと。そしてわたしへの報告なしに、何も持ち出さないこと」
「分かりました」
「フォルナーさん」
立ち上がりかけたわたしに、館長が言った。
「あなたがそこで見つけるものは、誰かを傷つけるかもしれない。覚悟しておきなさい」
わたしは館長を見た。
「記録を残すことは、誰かを傷つけることもある、という意味ですか」
「真実というものは、そういうものです」
ゼノに話すと、一瞬置いてから「分かった」と言った。
それだけだった。行くかどうか迷う様子もなく、危険だと止める様子もなかった。
「セレナ書記官に黙認してもらうと館長が言っていました」
「ユーヴェルが絡むのか」
「封鎖区画は今、王宮の管轄なので。彼女が知らせを受けているはずです」
「……セレナが黙認するということは」
ゼノは少し考えた。
「向こうも、そこに何があるか、確認したいのかもしれない」
「わたしたちを使って」
「可能性としては」
「それでも行きますか」
「行く。向こうの思惑と、こちらの目的が重なっていても、得られるものがあるなら同じだ」
それがゼノらしい判断だと思った。
翌日の夕方、王宮に向かった。
セレナが待っていた。場所は王宮の中でも奥まった棟で、普段は人の行き来が少ない区画だった。
「こちらです」
セレナの案内で廊下を進んだ。いくつかの扉を通り、石造りの階段を降りた。地下に近い場所だった。
最後の扉の前でセレナが足を止めた。
「わたくしはここまでです」
「入らないのですか」
「中については、わたくしも詳しくありません。ただ、この扉の先にあるものは、長い間誰も手をつけていないはずです」
セレナはゼノを見た。
「アルヴェイン騎士、何かあったらすぐ戻ること。中の封印状態は確認していません」
「分かった」
「それと」
セレナは一瞬だけ、何かを言いかけた。でも結局、「お気をつけて」とだけ言った。
ゼノは鍵を使って扉を開けた。
中は、暗かった。
ゼノが持参した燭台に火を入れた。光が広がって、部屋の輪郭が見えた。
広くはなかった。書庫というより、保管室という感じの空間で、壁際に棚が並んでいた。棚には書物と、巻物と、金属製の容器に収められた何かが並んでいた。天井の隅に古い封印術式の跡があり、一部は崩れかけていた。
空気が重かった。
閉架書庫の空気とも違う。もっと古くて、もっと密度がある。長い時間ここに閉じ込められていた何かが、部屋の全体に満ちているような。
わたしは一歩踏み出した。
感じた。
書物から漂う感情の残り香が、ここでは閉架書庫より数段強かった。一冊一冊が、それぞれ違う重さを持っている。恐れ、焦り、悲しみ、そして強い何か。強い何かは怒りに近かったけれど、怒りよりもっと根が深い、長年かけて積み上がったような。
「大丈夫か」
ゼノが横に来た。
「大丈夫です。ただ、ここにある書物は、閉架書庫のものより感情が濃い気がします」
「長く閉じ込められていたからかもしれない」
ゼノは棚を確認し始めた。
わたしも棚を見た。書物の背表紙に番号があるものとないものが混在している。番号があるものは、図書館の台帳形式とも、王宮の記録形式とも少し異なる。別の管理体系で動いていたのかもしれない。
「これ」
ゼノが棚の一角を指した。
金属製の容器が三つ、並んでいた。容器の表面に紋章が刻まれていた。
ゼノが紋章を見た瞬間に、わたしには分かった。
彼の呼吸が、少し変わった。
「ゼノ様」
「……見たことがある」
「この紋章が」
「この形は……」
ゼノは紋章から目を離さなかった。視線が固定されていた。
先日、棚の封印札の紋章を見て頭痛が起きた。今回は頭痛ではなかった。もっと静かな、しかし深い反応だった。
「体は大丈夫ですか」
「今は平気だ。ただ、この紋章は……」
「既視感がありますか」
「既視感ではない。もっと」
ゼノは少し間を置いた。
「知っている、という感覚だ。でも、どこで知ったかが出てこない」
わたしは容器の紋章を見た。
三つとも同じ紋章だった。円形の中に、特定の植物の葉を模した文様が組み込まれている。調べればどこかの家門の紋章かもしれなかった。
「持ち出しは館長への報告後と約束しました。今日は記録だけします」
「ああ」
わたしは紋章を手帳に書き写した。できる限り正確に。
棚の他の部分を確認した。書物の中に、禁書指定の台帳と同じ時代のものが複数あった。そして棚の奥まった場所に、改竄前の記録の束があった。
「先輩、これは」
ゼノが来た。
「改竄前、というのは」
「台帳に残っているものと、形式は同じですが、内容が違います。こちらの方が記述が詳しい。王宮側で書き換えが行われる前の、元の記録の可能性があります」
「それは重要だ」
「はい。ただ今日は」
「記録だけだな」
「はい」
わたしは必要な部分を書き写した。番号、日付、記述の要点。
作業を続けていると、部屋の奥の棚の前で、突然空気が変わった。
封印が、崩れる感覚だった。
棚の上段の書物が、ひとりでに動き始めた。表紙が開き、頁が激しく波打つ。一冊だけではなく、連鎖するように隣の本も動き始めた。
「離れろ」
ゼノがわたしの腕をつかんだ。
引かれて後退した。棚から距離を取りながら、ゼノは腕の封印術式を発動した。閉架書庫で先輩が使うものとは形式が違ったけれど、効果は同じだった。書物の動きが少し鈍くなる。
でも完全には止まらなかった。
「封印が足りない」
「補助します」
わたしは封印札を取り出した。普段は先輩の補佐として使う程度のものだったけれど、今は使うしかなかった。
ゼノの術式に合わせて、封印札をかざした。
二つの封印が重なった瞬間、書物の動きが鈍くなった。完全には止まっていないけれど、暴走の勢いが弱まった。
「このままここを出るぞ」
「記録は」
「今じゃない」
「でも」
「出てから考えろ」
ゼノに引かれながら、扉に向かった。書物の一冊が棚から落ちた音がした。扉に手をかけた。
そのとき、部屋の中で、頁の波打ちが一瞬止まった。
静止した頁に、何かが見えた気がした。
文字ではなかった。図だった。地図のような、あるいは系譜のような。円と線が組み合わさった図形の中に、先ほど容器に刻まれていた紋章と同じものが、中央に描かれていた。
「ゼノ様、あの図」
「見た」
「あの紋章が、中央にあります」
「分かっている。出るぞ」
扉を抜けた。ゼノが外から扉を閉めて、封印を施した。
廊下に出ると、セレナが待っていた。
音を聞いていたのか、すでに立ち上がっていた。
「封印が崩れましたか」
「一部暴走した。扉は封印した」
「中に残した書物は」
「そのままだ。ただ」
ゼノはセレナを見た。
「あの中に、改竄前の記録がある。それと、特定の紋章が付いた容器が三つ」
セレナの表情が、わずかに動いた。
「紋章を、見ましたか」
「見た」
二人の間に、短い沈黙があった。
わたしはその沈黙の重さを感じた。ゼノとセレナの間に、言葉にならない何かが通った気がした。
「……急ぎ、封印の専門家を手配します」
「頼む」
セレナは一度だけわたしを見た。何かを確認するような目だった。
「フォルナーさん、怪我はありませんか」
「ありません」
「そうですか」
セレナはそれだけ言って、廊下を足早に進んだ。
王宮を出て馬車に乗り込んだとき、ゼノは窓の外を見たまま動かなかった。
しばらくして、ゼノが言った。
「あの紋章が、どこかの家門のものだとしたら」
「調べますか」
「調べる必要がある」
「ゼノ様の記憶と関係がある可能性が、高くなりましたね」
「……ああ」
「怖いですか」
聞いてから、また踏み込みすぎたかと思った。でもゼノは黙っていただけで、怒りはしなかった。
「怖いというより」
少し間があった。
「知りたいという気持ちと、知ることで何かが変わる気持ちが、両方ある」
「変わることが、怖いんですか?」
「変わることより、知った後で何も変えられない方が怖い」
わたしはその言葉を、手帳に書きたいと思った。書かなかったけれど、忘れないと思った。
馬車が夜の王都を走った。
閉架書庫の棚に、まだ百三十九番の本がある。封印札のないまま、誰かの気配を残したまま。
そしてあの封鎖区画に、暴走しかけた書物と、三つの紋章付きの容器と、改竄前の記録が残されていた。
点が、少しずつ線になりかけていた。
線の先に何があるかは、まだ見えていなかった。




