第十一章 やさしい声のする危険
紋章の調査は、翌日から始まった。
手帳に書き写した図を館長に見せると、館長は少し目を細めてから「調べてみます」と言った。それ以上は何も言わなかった。いつもの館長なら少し飄々とした補足があるのに、今日はそれがなかった。
知っているのかもしれない、とわたしは思った。
ゼノは王宮側の紋章記録を当たると言っていた。家門の紋章であれば、王宮の紋章台帳に記載があるはずだ。
その日の午前中、わたしは閉架書庫で百三十九番の本を改めて確認した。
封印札はまだなかった。棚からわずかに前に出たままの状態で、触れてはいないけれど、気配は続いていた。昨日の封鎖区画で感じたものと、どこか似た種類の重さを持っている気がした。
「フォルナーさん」
ノアが声をかけてきた。
「さっきアルヴェインさんが来て、午後に王宮から人が来ると言っていました」
「王宮から? ゼノ様ではなく」
「別の人みたいです。魔導顧問補佐の方だって」
わたしは手を止めた。
「ルシアン・グレイヴ補佐官が、ここへ来るんですか」
「名前はそんな感じでした」
王宮の記録保管庫で一度顔を合わせていた。銀に近い淡い髪、物腰の柔らかい男性。ゼノが「信用するな」と言っていた人物だ。
「先輩には伝えましたか」
「今伝えに行くところです」
ルシアン・グレイヴが閉架書庫に来たのは、昼を過ぎたころだった。
前回と同じ、穏やかな歩き方だった。書庫の入口で一度立ち止まり、空気を確かめるように少し目を閉じてから、中に入ってきた。
「お邪魔します、サーヴァン司書。それとフォルナーさんも」
「グレイヴ補佐官、本日はどのような用件でしょうか」
ミレイユ先輩が立ち上がった。声は丁寧だったけれど、目が警戒していた。
「昨日の封鎖区画での件を聞きました。封印が崩れかけたということで、魔導的な観点から現状を確認したいと思いまして」
「それはアルヴェイン騎士経由で王宮に報告が上がっているはずですが」
「ええ。ただ、書庫側の状態も直接確認したほうが正確だと思いまして。今日は情報収集が目的です」
先輩はルシアンをしばらく見てから、「どうぞ」と言った。
ルシアンは棚の間を歩いた。書物への接し方が、ゼノとは全く違った。ゼノは本に近づくとき必ずわずかに身構えるような慎重さがある。ルシアンは棚を見ながら歩く様子が、まるで旧知の場所を確認するようだった。
「フォルナーさん、少しよろしいですか」
わたしのところへ来た。
「はい」
「昨日の封鎖区画で、書物が暴走しかけたということですが、どういう状況でしたか」
「棚の奥の書物が連鎖的に反応しました。封印が崩れていたようです」
「何かの拍子に崩れたのか、あるいは以前から崩れていたのか、感じましたか」
「突然でした。一瞬で空気が変わった感じがしたので、外部からの刺激ではなく、内側から崩れた可能性が高いと思います」
ルシアンは頷いた。
「さすがですね。感覚が鋭い」
「先生か何かのように言わないでください」
思ったより直接的な言い方になってしまった。
ルシアンは少し目を丸くしてから、静かに笑った。
「失礼しました。評価のつもりでしたが、上から目線に聞こえましたね」
「いいえ、こちらこそ言い方が」
「いや、あなたの反応の方が正直でよかった。わたしは時々、意図せず評価するような言い方をするらしい。指摘してもらえると助かります」
柔らかい受け答えだった。
でも、その柔らかさの中に、何かが見えた気がした。わたしの出方を確かめた、という気配。
「フォルナーさんは、今回の件をどこまで追っていますか」
「照合作業の担当として、記録の確認をしています」
「記録の欠落は、かなりの範囲に及んでいるようですね」
「そうですね」
「三十年前の暴走事件との関係も、おそらく視野に入れているでしょう」
わたしは少し間を置いた。
「何かご存知ですか」
「少しだけ」
ルシアンは棚に目を向けた。
「三十年前の事件については、王宮側でも完全な記録が残っていません。わたしも調べようとしたことがありますが、辿れる範囲に限界がありました」
「辿れなかった理由は」
「記録が、あるべき場所にない。それだけです」
「消された可能性を考えましたか」
「もちろん。ただ証明できなかった」
ルシアンはわたしを見た。
「あなたには、書物に残った感情の痕跡を読む力があると聞いています」
わたしは答えなかった。
「否定しなくていい。館長から聞いたわけではありません。あなたが書庫で動く様子を見ていれば、分かります」
「見ていたんですか」
「王宮の記録保管庫で、一度。それと先日の往復でも」
ということは、意識してわたしを観察していたということだった。
「その力があれば、封鎖区画の書物が何を抱えているか、読めたのではないですか」
「感じることと、読むことは違います」
「なるほど、輪郭だけを拾うということですか」
わたしが言っていない言葉を、正確に補った。どこかから詳しい情報を得ているか、あるいはかなり観察眼が高いか、どちらかだった。
「フォルナーさん、一つ提案があります」
「提案」
「封鎖区画の書物の解析に、協力していただけませんか。わたしは魔導的な観点から、あなたは感覚的な観点から。両方合わせれば、記録の欠落を補える可能性があります」
悪い提案ではなかった。
むしろ合理的だった。
でも、合理的すぎた。
「考えさせてください」
「もちろんです。急かすつもりはありません」
ルシアンは先輩の方へ移動した。
わたしは手帳を握ったまま、ルシアンの背中を見た。
知識がある。観察眼がある。話し方が上手い。敵意を感じさせない。
怖い人ではないかもしれない。でも、ゼノが「信用するな」と言ったのは、こういう人のことを言うのかもしれなかった。危険が見えにくい。
ルシアンが帰った後、ゼノが来た。
書庫に入った瞬間、ゼノはわたしの顔を見た。
「グレイヴが来たな」
「分かりますか」
「おまえの顔が、考えている顔をしている」
「いつも考えています」
「今日のは違う」
わたしは今日のやりとりを伝えた。協力の提案のことも含めて。
ゼノは聞きながら、少しずつ表情が硬くなった。
「断ったか」
「考えると言いました」
「断れ」
「理由を教えてくれますか。感覚で信用するなと言われても、判断できません」
ゼノは少し間を置いた。
「グレイヴは三年前から王宮魔導顧問補佐の職にある。その前は王宮外の研究機関にいた。禁書や封印術式の研究を専門にしていた」
「それ自体は問題ではないですよね」
「問題は、彼が研究していた術式の一部が、今回崩れかけている封印の術式と同じ系統だということだ」
「つまり」
「封印を崩す方法を、知っている可能性がある」
わたしは黙った。
「証拠はない。俺の推測だ。だが、彼が書庫の封印に干渉できる立場と知識を持っていることは確かだ」
「封印を崩す動機は何だと思いますか」
「まだ分からない。ただ、封鎖区画の中にある改竄前の記録に、彼が近づきたい理由があるとしたら」
「消された記録の内容を、確認したいか、さらに消したいか」
「どちらかだ」
わたしはルシアンの顔を思い出した。穏やかな笑い方、こちらの出方を測るような柔らかさ。
「ゼノ様、一つ聞いてもいいですか」
「何か」
「ルシアン・グレイヴ補佐官は、今回の件の黒幕だと思いますか」
ゼノはわたしを見た。
「今の段階では言えない」
「でも、関与している可能性はあると思っていますか」
「……ある」
「なぜ、今まで教えてくれなかったんですか」
「証拠がない推測を言っても、おまえを混乱させるだけだと思っていた」
「混乱させる方が、知らないよりずっとましです」
ゼノは少し間を置いた。
「……それは、俺の判断が間違っていた」
わたしはゼノを見た。
この人は、守ろうとする範囲の中に情報の遮断も含めてしまうことがある。危険から遠ざけるために、知らせないことを選ぶ。
「危ないと思ったら言え、と言いましたよね」
「言った」
「それは情報についても同じです。危ないと思ったら、教えてください。知らない方が危ない場合があります」
ゼノはしばらく黙った。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「でも言います」
ゼノはわずかに目を逸らした。
先輩がこちらを見ていた。何も言わなかったけれど、口元が少し動いた気がした。
夕方、ノアが作業の合間に言った。
「グレイヴ補佐官って、感じのいい人でしたね」
「そう見えましたか」
「なんか、怖い感じがしないというか。アルヴェインさんと全然違うというか」
「ゼノ様は怖いですか、やっぱり」
「怖くはないけど、近寄りにくい。グレイヴさんはなんか、話しかけやすそうで」
ノアは少し考えてから言った。
「でもなんか、話しかけやすすぎる気がしました。会ったばかりなのに、ずっと前から知ってたみたいな感じで話してきて」
「それが気になりましたか」
「うーん、なんとなく。リシェルさんはどう思いました」
わたしは少し考えた。
「知りたいことを刺激するのが上手い人だと思いました」
「知りたいことを?」
「わたしが気になっていることを、こちらが言う前に言ってくる。だから話しやすいと感じる。でも、それはこちらのことをよく調べているか、読んでいるかのどちらかです」
「それって、怖くないですか」
「怖いですよ」
ノアはしばらく考えてから、「なるほど」と言った。
「じゃあアルヴェインさんは、怖いけど怖くない感じですかね」
「どういう意味ですか」
「近寄りにくいけど、何考えてるか分からない感じはない。言いたいことはそのまま言うから」
わたしは少し笑った。
「それは、なかなか正確だと思います」
ノアが照れたような顔をした。
「僕、意外と人を見るの得意なんですよ」
「知ってます」
ノアはそれが嬉しかったのか、少し背筋を伸ばして資料の整理に戻った。
わたしは手帳を開いた。
今日ルシアンが言っていたことを書き出す。提案の内容、観察眼の鋭さ、封印術式との関係をゼノから聞いたこと。
最後に一行書いた。
やさしい声のする場所に、近づきすぎないこと。
優しい言葉は、いつも相手を助けるためだけにあるわけではない。
こちらの弱いところを、静かに探るためにも使われる。
それを、わたしは少しだけ知っている。
それは自分への注意書きだった。
知りたいという欲は、扱い方を誤ると、危ない方向へ引っ張られる。
ルシアンはそれを知っている。だから柔らかく、知識を並べ、協力を申し出る。
真実を知りたいという気持ちは本物だった。でもそのためにどこへ近づくかは、自分で選ばなければならない。




