第十二章 誰のために真実を読むのか
翌朝、館長室に呼ばれた。
今度は一人ではなかった。ゼノも呼ばれていた。
館長の机の上に、昨日調べていた紋章についての資料が広げられていた。
「紋章の件、分かりました」
館長は資料を二人の前に置いた。
「アルヴェイン家の旧紋章です」
静かな声だった。
わたしはゼノを見た。ゼノは資料を見ていた。表情は変わっていなかったけれど、動きが止まっていた。
「アルヴェイン家は、三十年前に家名を変えています。それ以前の旧家名と旧紋章が、これです」
「なぜ家名を変えたんですか」
「記録上は、当主の死去に伴う家督整理とされています。ただし」
館長は少し間を置いた。
「同じ時期に、王宮内で起きた禁書事件の関係者として、アルヴェイン家の名前が記録に出てきます。その後に家名変更。時期が重なっています」
「関係者として、というのは」
「被害者として、です。家の中で禁書に関わる事故があったという記録が、王宮文書に残っています。詳細は記録されていませんが」
ゼノはまだ資料を見ていた。
「アルヴェイン騎士」
館長が静かに呼んだ。
「はい」
「これについて、何か知っていることがあれば、教えてもらえますか」
「……知らない」
「知らない、というのは」
「記憶にない。ただ」
ゼノは館長を見た。
「家名変更の前後の記憶が、俺にはない。その時期より前のことは、ほとんど思い出せない」
館長はしばらくゼノを見てから、静かにうなずいた。
「そうですか」
「館長は、これを前から知っていましたか」
ゼノの問いは、冷静だったけれど直接的だった。
館長は少し間を置いた。
「薄々、察していました。確証はありませんでしたが」
「なぜ言わなかった」
「確証のないことを伝えることで、あなたを不必要に揺さぶりたくなかった」
「それは館長の判断だ。俺が選ぶことではなかった」
「……そうですね。申し訳ありませんでした」
館長が謝るのを、わたしは初めて聞いた。
館長室を出た後、ゼノは廊下でしばらく動かなかった。
わたしは横に立っていた。何か言うべきか迷いながら、黙っていた。
ゼノが先に口を開いた。
「アルヴェイン家が、三十年前の事件に関わっていた」
「はい」
「俺の記憶がない時期と、重なっている」
「重なっています」
「そして封鎖区画に、アルヴェイン家の旧紋章が付いた容器があった」
「ゼノ様がその容器の紋章に反応したのは、記憶の奥にあるものが引き出されそうになったからかもしれません」
ゼノは少し間を置いた。
「おまえは、俺が三十年前の暴走事件の現場にいた子どもだと思っているか」
「可能性はあると思っています」
「その場合、俺は事件の当事者ということになる」
「当事者というより、被害者だと思います。子どもだったんですから」
「被害者でも、事件の核心に近い存在になる」
「それは、怖いですか」
昨日と同じ問いだった。
ゼノは今日は少し違う答えを返した。
「怖いというより、覚悟が必要だということだ」
「覚悟」
「自分が事件の中心に近い場所にいるとしたら、この調査を続けることで、俺自身の過去が明らかになる。それが何であっても、受け入れる覚悟が要る」
「受け入れられると思いますか」
「分からない。でも、知らないままでいることの方が、今は耐えられない」
それはゼノらしい答えだと思った。
その日の午後、王宮から呼び出しがあった。
ゼノではなく、わたし宛てだった。
呼び出し元は、王宮記録保管庫の管理官を名乗る人物で、閉架書庫の記録に関する確認事項があるという理由だった。
ミレイユ先輩がその呼び出し状を読んで、少し目を細めた。
「管理官名義だけど、こういう呼び出しは通常、アルヴェイン騎士を通します。直接来ているのは変ですね」
「行かない方がいいですか」
「確認してから判断します」
先輩がゼノに連絡を取った。ゼノからの返答は早かった。
「俺の知らない呼び出しだ。管理官が単独でこういう動きをする権限はない。上からの指示がある」
「上、というのは」
「王宮の、記録管理に関わる部署の上位の者だ。今回の調査を、図書館側に任せたままにしておきたくない動きが出ている可能性がある」
「どういうことですか」
「おまえの能力が、王宮側に知られている。書物の残滓を読める人間を、自分たちの管理下に置きたいと考える者が出てきてもおかしくない」
わたしは少し黙った。
「わたしを、道具として使いたいということですか」
「可能性としては」
「行きます」
「行くな」
「なぜですか」
「危険だと」
「ゼノ様」
わたしは少し息を吸った。
「危ないと思ったら教えてくれと言いましたよね。わたしも同じです。危ないから行くな、ではなく、何が危ないか教えてください。その上で判断します」
少しの沈黙があった。
「……王宮の記録管理部署には、今回の記録改竄に関与している可能性がある人物がいる。呼び出しに応じることで、こちらが何を知っているかを相手に測られる」
「測られることの、具体的な危険は」
「こちらが持っている情報の範囲が分かれば、相手は証拠を隠す動きを加速できる。あるいは、おまえ自身を事件から遠ざける圧力をかけてくる可能性がある」
「分かりました。では、行きますが、何も話しません」
「何も話さないで、呼び出しの意図だけ確認してきます。そこで判断します」
「一人で行くな」
「ゼノ様に同行をお願いできますか」
「……行く」
先輩がわたしを見た。
「アルヴェイン騎士の言っていることを、もう少し聞きなさい。あなたの能力が知れ渡っているということは、あなた自身が今後、この件の関係者として王宮に目を付けられる可能性があるということです」
「先輩もそう思いますか」
「ええ。仕事として動くのと、利用されるのは別のことです。その線を自分で引きなさいと言ったでしょう」
以前先輩が言っていた言葉だった。
王宮の呼び出しに応じた。
ゼノと一緒に記録保管庫の隣にある会議室に通されると、管理官と名乗る年配の男性と、もう一人の文官が待っていた。
管理官は丁寧な言い方で話し始めた。閉架書庫の記録の照合作業について、王宮側でも正式な担当体制を整えたい、フォルナー見習い一人に任せるのは負担が大きいだろうから、王宮側の担当者と連携して作業を進めてほしい、という内容だった。
言葉は親切だった。
でもその言葉の中に、いくつかのことが含まれていた。王宮側の担当者を入れることで、こちらの作業内容を把握したい。連携という名目で、わたしが見つけた情報を共有させたい。
「ご提案の内容は、館長に伝えます。図書館側の判断になりますので」
わたしは答えた。
「もちろんです。ただ、フォルナーさん個人として、この件を続けるご意志はありますか」
「個人の意志ではなく、館長の判断に従います」
「そうですか」
管理官は少し間を置いた。
「フォルナーさん、率直に聞きますが、書物の残滓を感じ取れるとのことですね」
「誰からそれを」
「王宮内では、様々な情報が入ります」
「その能力について、王宮が関心を持っているということですか」
「関心と言いますか、今回の件の解決に役立てていただければと思いまして」
「役立てる、というのは、具体的にはどういう意味ですか」
管理官は少し言葉に詰まった。
わたしは続けた。
「わたしが感じ取れることは、書物に残った感情の輪郭です。それを何かの判断材料に使うとしたら、どういう場面で、誰のために使うことを想定していますか」
「それは、記録の真贋判定に」
「記録の真贋判定であれば、文書鑑定士の仕事です。わたしの感覚は補助にしかなりません。補助として使うために、王宮の担当者との連携が必要な理由は何ですか」
管理官は答えなかった。
ゼノが横で、微動だにしていなかった。でも、わたしの言い方を止めなかった。
「今日のご提案は、館長に伝えます。以上です」
会議室を出た。
廊下を歩きながら、ゼノが短く言った。
「よかった」
「何がですか?」
「向こうの言いなりにならなかった」
「言いなりになる気はありませんでした」
「館長の判断に従うと言い続けていた。それが正しかった」
「でも、腹は立ちました」
「どこに」
「能力のことを、こちらが言う前から知っていて、それを使いたいというだけのために呼び出した。本を守ることへの関心が、その人たちには見えなかった」
「……そうだな」
「ゼノ様も、そういう扱いをされることがありますか」
少し間があった。
「騎士というのは、使われる立場だ。使われることには慣れている。ただ」
「ただ?」
「誰のために使われるかは、自分で選べる。それだけが、俺が守ってきたことだ」
廊下の窓から、王宮の中庭が見えた。整えられた植栽、計算された均衡。
わたしは今日の呼び出しを思い返した。管理官の言葉、その裏にあった意図、ゼノとのやりとり。
「わたしは、誰のために真実を読むのかを、自分で決めなければいけないですね」
「ああ」
「消された記録を残すために。ファルク・ベルンのような人の痕跡を見つけるために。それが今のわたしの理由です」
「十分だ」
「でも、それで通りますか。王宮の圧力に対して」
「通らないことがあるかもしれない。それでも、理由を持っている方が、持っていないよりずっと強い」
図書館に戻ると、ミレイユ先輩が待っていた。
報告を聞いてから、先輩は少し黙った。
「王宮が直接動いてきた」
「はい」
「館長と相談して、今後の対応を決めます。フォルナーさん、あなたは今日どう判断しましたか」
「続けます。誰かに使われるためではなく、自分の判断で」
「その判断を、誰かに変えさせないこと」
「はい」
「よろしい」
先輩はそれだけ言って、書類に向き直った。
ノアがわたしにそっと耳打ちした。
「先輩、褒めましたよ今」
「そうですか」
「あの人の『よろしい』は、最上級の褒め言葉です」
わたしは少し笑った。
手帳を開いて、今日のことを書いた。
最後に一行。
誰のために真実を読むのか。自分で選ぶ。
消えた記録のために。記録から消された人のために。そしてゼノの失われた過去のために。
それでよかった。




