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伯爵令嬢のわたし、婚約破棄されたので司書になったら、呪われ書庫で無愛想騎士の秘密に触れました  作者: 明石竜


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第十三章 仕事の痕跡

 翌朝、閉架書庫に入ると、紙と革の匂いに混じって、少しだけ糊の匂いがした。

 修復室から流れてくる匂いだと気づいて、わたしは足を止めた。昨日、王宮の記録保管庫から戻ってからも、手帳の中の数字が頭から離れなかった。百三十九番。百四十一番。控えで記述の飛んでいた五冊のうち、二冊だけが、別のところから浮かび上がってきている。残りの三冊も、どこかに痕跡を残しているはずだった。

「フォルナーさん」

 呼ばれて顔を上げると、ミレイユ先輩が作業机の向こうで台帳を閉じた。

「今日の午前中は、修復室の旧記録を確認します。消された記録を追うなら、残された手仕事を見なさい。目録から消えていても、修復依頼票や搬入帳の端には残ることがある。仕事の痕跡まで全部は消せないから」

 胸の奥が、少しだけ強く打った。

「ノアもつけます。あなた一人で記録の山に埋もれられても困るから」


 修復室は、閉架書庫のさらに奥まった場所にあった。紙と革と糊、それに薬品のような匂いがする。長机の上には、古びた台帳が三冊と、ばらばらの依頼票を綴じた厚い束が並んでいた。

「五冊の番号を確認していいですか?」

ノアが手帳を開く。

「百三十七から百四十二番。今まで痕跡が出たのが百三十九と百四十一。残りは百三十七、百三十八、百四十、百四十二」

 わたしは台帳を開いた。修復受付日、蔵書番号、状態、補修内容、担当者名。書き手が変わるたびに字の重さが変わる。そこには、誰かが本を守ろうとした手順が、そのまま残っていた。

 三冊目に入ったところで、手が止まった。

「……あった」

 台帳の右端、少し薄くなったインクで、蔵書番号一四〇と書かれている。受付日は、なくなった目録十四番が扱っていた時期とほぼ重なっていた。

「表紙の裂け補修と、綴じ糸の交換依頼。状態欄に、保存中に破損拡大の恐れあり、とある。ただ……」

 次の欄に、修復完了日と処置内容、返却先が書かれているはずだった。けれどそこだけ、妙に空いている。罫線の上に薄い擦れ跡だけが残り、あとから何かを削ったようにも見えた。

「完了記録がないの。受付はされているのに、その後がない」

「ほんとだ。空白ですね、ここだけ」

ノアも身を乗り出す。

「だったら仮札とか残ってないかな」

 紙の束をめくっていたノアが、「あ」と声を上げた。差し出されたのは、小さな厚紙だった。修復中の本に仮で結びつける札らしく、片側に糸の切れ端が残っている。紙の端は黄ばんでいたけれど、中央の文字はまだ読めた。

 一四〇。

 わたしは息を止めた。台帳に一度だけ出てきて、その先が空白になっている番号。その同じ数字が、いま、ノアの手の中にある小さな札に残っていた。

「きれいに消したつもりでも、全部は消しきれなかったのね」


 ノアが依頼票の束からさらに一枚の票を見つけたのは、仮札を机に置いてすぐだった。右上に古い書式の略号が書かれ、末尾にだけ、小さく一四〇と追記されている。通常書庫でも修復室でも使わない記号だった。

「先輩に見せたほうがいいかもしれないわね」

 わたしがそう言いかけた瞬間、廊下から聞き覚えのある足音がした。重心の低い、迷いのない足取り。次の瞬間、戸口にゼノが現れた。

「何か出たのか」

 挨拶より先に、それだった。わたしは台帳の空白欄と仮札、保管票の三点を説明した。ゼノは票を手に取り、灰色の瞳をわずかに細めた。

「この略号……見覚えはある。ただ、通常の書庫では使わない」

「やっぱり」

ノアが小声で言う。

「消すつもりなら、最初から処分扱いにした方が早い」

 ゼノはそう言って票の端を指先で押さえた。

「記録ごと消したい本があるなら、破損が激しい、保存不能、処分済み――そういう形にして流せば、それで表向きは終わる。それなのに処分にしなかった。移送に近い書式が使われているなら、実物をどこかへ動かしたかったかだ。消すのではなく、別の場所へ寄せた」

「どこへ、ですか?」

ノアが身を乗り出す。

 ゼノがそこで少し間を置いたとき、ノアが修復室の棚から古い見本帳と保管記号一覧を持ってきた。三人で机を囲み、不明な略号を照合し始める。通常書庫でも修復室でも一致しない。略号はむしろ印に近く、見せる相手を限るための表記のように見えた。

 わたしが見本帳を後ろへ繰ったとき、綴じ目の奥に挟まっていた薄い紙が、するりと落ちた。古い覚え書きの切れ端だった。保管記号とその用途が手書きで補足されている私的な控え。上から視線を滑らせたところで、手が止まる。

「ありました」

 不明札とよく似た略号が、紙の下から三行目に書かれていた。脇に添えられた文字はまだ読める。

「封鎖蔵書区画」

ゼノの声には確信があった。

「古い王宮書庫で使われていた呼び方だ。閉鎖された保管区画で、表向きの記録から外した蔵書を一時的に寄せる場所として使われたことがある」

 百四十番は修復室に来て、それからその区画へ動かされた可能性がある。

「少なくとも、その可能性が出た」

ゼノはうなずいた。

「修復受付のあとに動かしている。破損本として処理したのではなく、扱いを変えた上で隠したと見る方が自然だ」

 机の上の仮札に目を落とす。たった三桁の数字が、急に手の届くところへ来たような気がした。


 修復室の戸口に控えめなノックがあり、ミレイユ先輩が姿を現した。机いっぱいに広がった台帳と札を一目見渡すと、穏やかな声で言った。

「何か見つかったようね」

 わたしとノアが順に説明すると、先輩は台帳の空白欄、仮札、保管票、見本帳の覚え書きと、必要なものだけを順に拾い上げていった。

「修復受付のあと、通常の返却ではなく、別区画へ流した可能性が高いわね」

「処分ではなく移送に近い。王宮側でも似た書式の搬送許可証が一件見つかっている」

ゼノが補足する。

「なら、図書館側だけの判断では動いていない。少なくとも当時、王宮側の意向が絡んでいる」

先輩はそう言い、それからわたしへ向き直った。

「フォルナーさん、ここまでの流れを口頭で整理してみなさい」

 わたしは一度息を整えた。

「目録十四番がなくなっていて、控えでは百三十七番から百四十二番までの五冊分の記述が飛んでいました。その後、百三十九番は実物が書庫で見つかり、百四十一番は王宮側の禁書指定記録で浮上しました。今、百四十番については修復受付記録と仮札、封鎖蔵書区画への移送を示す可能性のある票が見つかりました。つまり、五冊はただ記録から消えたのではなく、それぞれ別の段階で痕跡を薄くされている可能性があります」

「いい整理ね」

先輩はうなずいた。

「今の時点で重要なのは二つ。百四十番が修復後に通常返却されていないこと。そして封鎖蔵書区画という通常外の保管先が出てきたこと」

 先輩はノアに修復室の旧搬送一覧を探すよう指示し、館長への中間報告に立った。


 ノアが戻ってきたのは先輩が出ていったあとだった。

両腕に薄い帳面を抱え、

「旧搬送一覧がありました」

と少し弾んだ声で言う。

「修復室の裏棚の箱に入ってました。正式な台帳じゃなくて、たぶん控え帳なんですけど」

 机の上へ開いてみせた頁に、走り書きのような日付と番号が並んでいた。ノアの指先が一行を示す。わたしは身を乗り出した。

 一三九。 一四〇。 一四一。

「……三冊」

声が漏れた。

 別々のところから痕跡が浮かんできた三冊が、ここではひとつの流れの中に置かれている。行き先の欄の略号は、見本帳の覚え書きで見たものとよく似ていた。さらに、箱の底から見つかった木札にも同系統の記号が入っている。

「番号が連続してるし、札の紐穴の位置も同じで、たぶん同じ時期に使われたものです。三冊を続けて動かした可能性があります」

 ノアがそう言うと、

「少なくとも三冊は欠けたんじゃない。移された」

ゼノが低い声で返した。

 それから、控え帳の後ろを当たると、百三十七、百三十八、百四十二の痕跡を探すため、わたしたちは第二記録棚へ向かうことにした。


 第二記録棚は、廊下を二つ曲がった先の、目立たない扉の奥にあった。ミレイユ先輩が戻ってきて合流し、四人で中へ入る。正式台帳になる前の処理が積もった場所で、天井まで届く棚に布張りの箱や記録束が押し込まれていた。

「番号順ではないから気をつけて。処理別に積まれている。まずは保管替え前と搬送保留から」

 わたしは一番手前の控え帳を開いた。散漫な走り書きばかりで、番号が空欄のものもある。焦りを感じながらも、先輩の言葉を思い出す。番号だけを追うと、抜ける。処理区分と日付も見ること。

 二冊目を開いたところで、手が止まった。

「……あ」

 紙の中央より少し下。百四十二という番号が、かすれたインクで書かれている。その右側には、処理区分として「封印確認後、保留」。見覚えのある閉じた形の略号が続いていた。

「百四十二番です」

声がわずかに上ずる。

「封印確認後、保留。略号は木札と同じ系統です」

 ゼノが低い声で促す。

「その先は」

「略号だけで追記なし。次の行に別の番号が入っていて、百四十二番の続きはないです」

「保留のまま流したか、別帳簿へ移したか。ただ、記号が同じなら行き先は近い」

「これで少なくとも、三冊連続の後ろにもう一冊つながった」

ミレイユ先輩が落ち着いた声で言った。

「残るは百三十七か百三十八のどちらかだけ」

 ノアが少し息をついた。

「ここまで来ると、逆に残り二冊が見つからない方が変ですね」


 棚の前側へ移り、一時留めの控え箱を引き出した。正式台帳より散漫な記録ばかりだ。番号の空欄、途中で止まった控え、板紙だけが挟まったもの。わたしは紙の束を一枚ずつ開いた。

 修復待ち。返却保留。封印札交換後、棚戻し。どれも違う。

 薄い控え帳の一冊で、手が止まった。紙質が少し粗く、端に赤い線が引かれている。処理欄を見る。

「一時留め、札差替え」

「同上、別箱へ」

 その下の備考欄に、さらに小さく、

「続番二点」

 と書かれている。

「……続番」

 声に出した瞬間、胸の奥がひとつ強く打った。番号はない。でも、二点で、続番で、処理が二行ともほとんど同じ。連番の二冊をまとめて動かした記録ではないか。

「どうした」

ゼノの声がした。

「番号はありません。でも、たぶん」

息が少し詰まる。

「百三十七番と百三十八番かもしれません」

 四人が同じ紙の上を見下ろす形になった。

 前後の行には、百三十九から百四十一の控えと同じ書き手らしい字があり、「後送分と合わせる」と書かれていた。

「先に二点だけ札を差し替えて別箱へ移し、その後で百三十九以降と合流させた。そう読める」

ミレイユ先輩が言う。

「百三十七と百三十八を先に分けたのか」

ゼノが低い声で言う。

「最終的には同じ箱へ寄せた」

 わたしがそう伝えると、

「番号がなくても、痕跡としては十分よ」

ミレイユ先輩が確信のある声で言った。

「続番二点、札差替え、別箱へ、後送分と合わせる――ここまで揃えば、この二行は五冊の前側と見ていい」

 ノアが、ほとんど息のような声で言った。

「……五冊、全部つながりましたね」

 誰もすぐには答えなかった。でもその沈黙は、否定ではなかった。


 館長室の扉を叩いたのは、第二記録棚を出てからすぐのことだった。

 エドガルド館長は四人を見渡し、机の上の写しと木札が増えたのを認めると、

「何か見つかりましたね」

と穏やかに言った。

 ミレイユ先輩が全体を報告し、わたしが前側二冊の痕跡を補足し、ノアが木札を示し、ゼノが王宮側照合の必要性を述べた。館長は旧搬送一覧の写し、百四十二番の控え、前側二冊の二行を順に手に取り、それぞれの位置を静かに並べ直した。ばらばらに見つかったものを、館長自身の手でもう一度一本の線へ結び直しているみたいだった。

「百三十七と百三十八を先行処理。百三十九、百四十、百四十一を後送。百四十二は封印確認後に保留を経由……」

 そこで初めて、館長の表情の奥に緊張が差した。

「なるほど。これはもう、単なる紛失でも、管理の乱れでもありませんね」

 胸の奥で何かがひとつ落ち着く。拾ってきた小さな痕跡が、ようやく館長の言葉の中で事実になった。

「五冊すべてが、意図的に動かされた。その前提で、以後は動きましょう」

 それから館長はそれぞれに役割を告げた。ミレイユ先輩は記録の保全と閲覧制限。ノアは同時期の箱・札・控えの周辺洗い出し。ゼノは封鎖蔵書区画の正式名称と運用権限の確認。そしてわたしには、五冊の時系列整理を一枚で追える形にまとめることを求めた。

「あなたはそれができる」

館長はそう言って、さらに付け加えた。

「もうひとつ、大事なことがあります。誰が、どの段階で、記録から五冊を外そうと判断したのか。その判断の切れ目を探してください。五冊が消えたのではなく、消すことが決まった瞬間がどこかにあるはずです」

 閉架書庫の記録机に着くと、昼の名残の光が窓から細く差し込んでいた。

 机の上を空け、写しを順に並べる。百三十七と百三十八の番号のない二行。百三十九、百四十、百四十一の旧搬送一覧。百四十二の「封印確認後、保留」。百四十番の仮札。封鎖蔵書区画の略号。

 新しい紙を一枚取り出し、中央に線を引いた。上に日付欄、左に番号欄、右に処理内容。それから少し考えて、いちばん下にもうひとつ欄を作る。根拠。

「まずは確実なところから」

 小さく呟いて、最初の行に書く。続番二点/札差替え/別箱へ/後送分と合わせる。番号欄には、百三十七・百三十八(推定)と控えめに添えた。次の行に、百三十九、百四十、百四十一。百四十二の欄ではペン先が止まった。封印確認後、保留。その言葉だけが他の番号より少し違う影を落としている。

 紙の上に並んだ文字を、もう一度上から見直した。ここまでは事実だ。問題は、どこで、誰が、五冊を「普通の本ではない」として正式な流れから外したのか。

 わたしはペン先で、処理名だけをなぞった。

 札差替え。別箱へ。後送分と合わせる。封印確認後、保留。搬送。

「……違う」

 百三十九から百四十一は、もう動かすことが決まったあとに処理された記録に見える。百四十二は封印確認のあとで留め置かれている。けれど、百三十七と百三十八だけは違う。この二冊には最初から番号が書かれていない。そして出てくるのは「札差替え」という言葉だ。

 札を差し替えた。それは、ただ移したという意味ではない。元々付いていた分類や扱いを、途中で別のものに変えたということだ。

 思考が、一気にその一点へ集まった。

 百三十七と百三十八は最初に札を替えられている。そのあと別箱へ。そして後送分と合流。百三十九から百四十一は、すでに替えられた流れの中でまとめて運ばれている。百四十二は封印確認で一度止められたあと同じ側へ寄せられた。

 ならば五冊が正式な流れから外れた切れ目は、封鎖蔵書区画へ入った時ではない。

「札を替えた時点で……その時点で、もう別扱いにしていたんだ」

 胸の奥が強く打った。

 わたしは新しい紙を引き寄せ、今までの時系列表の横に、もう一本細い線を引いた。今度は処理順ではなく、判断順だ。

 一 分類変更(札差替え)。

 二 一時隔離(別箱へ)。

 三 後送分と合流。

 四 封鎖蔵書区画系略号で搬送。

 五 一部は封印確認後に保留を経由。

 そこまで書いて、わたしはようやく息を吐いた。

 移送されたという事実は大事だけれど、それは結果に近い。その前に、誰かが「この五冊は通常書庫の扱いから外す」と決めている。その判断がなければ、札差替えは起きない。

 机の上の百四十番の仮札に目が留まる。正式台帳から消されても、途中で使われた札は残る。そこに残るのは本の中身ではなく、人がどう扱いを変えたかだ。

 わたしは時系列表の下に、少し強く線を引いた。

 切れ目=搬送ではなく、札差替え。ここで通常分類から外された可能性。

 書いた瞬間、それまで散っていた断片の重心が変わった気がした。五冊は消えたのではない。まず別の名前で呼ばれ、別の札を付けられ、別の流れへ押し出されたのだ。

 廊下から足音がした。誰かがこちらへ近づいてくる。でも、顔を上げる前に分かっていた。

 今すぐ、これを伝えなければいけない。

 見つけたのは新しい証拠ではない。けれど今までの証拠の意味を変える、確かな気づきだった。

 わたしは「切れ目は搬送ではなく、札差替えです」と書いた紙を手に取り、椅子から立ち上がった。

 五冊は、ただ見えない場所へ運ばれたのではない。

 その前に、別の札を与えられ、別の流れへ押し出されている。

 だとすれば、知るべきなのは搬送先だけではない。

 誰が、何を見て、この五冊を“通常の本ではないもの”として扱い直したのか。

 閉架書庫の記録机の上で、ばらばらだった痕跡は、ようやくひとつの流れになった。

 けれど同時に、その流れの上流には、まだ見えていない判断がある。

 札を差し替えた手。

 その変更を認めた記録。

 あるいは、最初に「外す」と決めた誰か。

 廊下の向こうから近づいてくる足音が、今度ははっきり聞こえた。

 迷いのない、早すぎない足取り。

 この歩き方を、わたしはもう知っている。

 顔を上げる。

 次に確かめるべきことも、もう分かっていた。

 封鎖蔵書区画へ送られた、では遅い。

 その前に、五冊の名前を変えた記録があるはずだ。

 扉の向こうに人影が差す。

 わたしは紙を握りしめたまま、一歩、そちらへ向かった。


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