第三章 消えた目録、書き換えられた記録
閉架書庫に勤めて五日が経ったころ、目録の一冊がなくなっていた。
気づいたのはミレイユ先輩だった。
朝、いつもの点検前に棚の確認をしていた先輩が、作業机に戻ってきたときの顔が、普段より少し硬かった。わたしとノアが揃って顔を上げると、先輩は書庫管理用の棚を指した。
「十四番の目録が見当たらない」
ノアが立ち上がった。
「え、どこかに移しましたっけ」
「移した覚えはない。昨日の退庫時にはあった。今朝はない」
わたしも立ち上がって棚を確認した。
管理棚には書庫の蔵書目録が年代順に並んでいる。一番古いものから順に整然と収められているけれど、確かに十四番と背表紙に書かれたものだけが抜けていた。前後の十三番と十五番の間に、一冊分の隙間がある。
「搬出記録に記載はありますか」
「ない。通常の貸し出しもここの目録は行わない。外部への持ち出しは許可制で、届出が必要」
「昨日の退庫後に誰か入りましたか?」
「記録上はいない」
先輩は短く言ってから、少し間を置いた。
「ノア、退庫後の鍵の管理を確認して。わたしは館長に報告する。フォルナーさん、昨日の入庫記録をもう一度確認しなさい」
「分かりました」
入庫記録を確認したけれど、昨日の書庫への出入りは通常の範囲内だった。わたしと先輩とノア、それとアルヴェイン騎士が一度。それ以外の記録はない。
ノアが戻ってきて、鍵は所定の場所にあったと報告した。
「鍵は管理棚の施錠されたボックスに入っていました。鍵のボックス自体も、異常なし」
「鍵を使わずに入る方法は」
「図書館スタッフの合鍵があります。あとは……」
ノアが少し言い淀んだ。
「館長が持っている予備鍵。それと、王宮からの特別許可状があれば、管理者立ち会いなしでも開けられる特殊錠があるとは聞いていますが、使ったことはないです」
わたしはそれを手帳に書いた。
館長が戻ってきた。ミレイユ先輩と一緒だった。
エドガルド・ヴァレント館長は、白髪混じりの穏やかな顔をした人で、普段は少し飄々とした空気がある。しかし今朝の顔は、いつもより少し真剣だった。
「目録十四番の件、確認しました」
館長はわたしとノアを見渡してから、穏やかな声で伝えた。
「捜索は続けます。ただ、内部の者が持ち出した可能性も排除できないため、今日中に王宮へ報告することになります」
「王宮へ、ですか」
「閉架書庫の目録は、王宮記録保管庫と一部情報を共有しています。管理上の義務があります」
館長は一瞬置いた。
「アルヴェイン騎士にも連絡を取ります。今後しばらく、書庫への立ち入りがさらに増えるかもしれません」
午前中は書庫内の確認作業に費やした。
目録が入っていた管理棚の周辺、隣の棚、作業机の引き出し、床の隅。考えられる場所はすべて見たけれど、十四番目録はどこにもなかった。
昼になって、ノアが弁当を広げながら言った。
「盗まれたんですかね」
「断定できない」
先輩が書類に目を落としたまま答えた。
「でも自然になくなることもないですよね、目録って」
「だから確認している」
「十四番って、いつごろの目録でしたっけ」
わたしは手帳を繰った。
「確認したところ、三十二年前から二十八年前の蔵書を記録したものです」
「三十年くらい前か」
ノアは少し考える顔をした。
「その時代に何かありましたっけ?」
「禁書指定が数件あったはずよ。詳しくは記録にある」
先輩が答えた。
「今その記録を確認するなら、控えの台帳を見ること。本体がないなら控えで調べる」
「控えがあるんですか」
「目録の控えは別の棚に保管してある。ただし」
先輩がわたしを見た。
「控えは要確認事項にしてあるから、今日の午後はそちらも確認しなさい。わたしも一緒に見る」
「分かりました」
午後から、わたしとミレイユ先輩で控えの確認に入った。
控え台帳は管理棚の奥の別区画にあった。本体の目録と同じ内容が写されているはずの、予備記録だ。
十四番に対応する控えを取り出した。
広げて、最初の数ページを確認した。
そこで、わたしの手が止まった。
「……先輩」
「何」
「この控えなんですが」
先輩が手元を覗き込んだ。
「書式が、途中から変わっています」
最初の数ページは整然とした記録だった。同じ書き手によるきれいな字が並んでいる。ところが、ちょうど真ん中あたりのページから、字が変わる。同じような様式を真似てはいるけれど、筆圧が違う。字間のとり方が違う。
そして、ある一行で、記述が不自然に途切れている。
「ここ、記述が抜けています」
「……」
先輩は無言でそのページを見た。
「抜けているのは、蔵書番号で言うと」
「百三十七番から百四十二番。五冊分、記載がありません」
「前後は」
「前後はあります。この五冊だけ飛んでいます」
先輩はしばらく控えを見たまま動かなかった。
「写し間違えた可能性は」
「書式が変わっている箇所と、記述が飛んでいる箇所が重なっています。偶然の写し間違えにしては、都合がよすぎる気がします」
「……そうね」
先輩は控えを机に置いた。
「フォルナーさん、この前後の記録で、その五冊に相当する蔵書を他の台帳で確認できるか調べてみて」
「はい」
「ただし」
先輩の目が真剣になった。
「今日はここまで。何が分かっても、今日のうちに結論を出さないこと。情報を集めてから、館長とアルヴェイン騎士を交えて確認する」
「分かりました」
わたしは手帳に、確認すべき蔵書番号を書き写した。
百三十七番から百四十二番。その五冊が何であるか、今はまだ分からない。
夕方近く、アルヴェイン騎士が書庫に来た。
今日は午前中ではなく、夕方に来るとミレイユ先輩が聞いていたらしく、驚きはなかった。
先輩が目録紛失と控えの記述欠落を説明した。アルヴェイン騎士は短い相槌を打ちながら、報告を聞いた。
「控えを見ていいか」
ミレイユ先輩が台帳を差し出した。
「どうぞ」
アルヴェイン騎士は台帳を手に取り、問題のページを確認した。
しばらく無言だった。
「筆跡が変わっている」
「はい。おそらく別の人間が、元の記録の一部を書き直した可能性があります」
「いつ書き換えられたか分かるか」
「インクの乾燥具合や紙の状態から、ある程度は判断できますが、正確には専門の確認が必要です」
「依頼できるか」
「館長に相談すれば、王宮の文書鑑定士に依頼することは可能だと思います」
「した方がいい」
アルヴェイン騎士は台帳を閉じた。
「目録本体がなくなり、控えにも改ざんの痕跡がある。本体を持ち出した理由は、控えを書き換えた後に本体も合わせる必要があったか、あるいは本体だけに残った何かを消すためか」
わたしは思わず口を開いた。
「本体だけに残った何か、というのは」
アルヴェイン騎士がこちらを見た。
「控えには写されなかった記録が、本体にだけ残っていた可能性がある。書き換えがあったとしたら、本体にはその前の状態が残っていたはずだ。それを消すために持ち出した」
「……なるほど」
「ただ、これも今の段階では仮説だ」
「五冊の蔵書番号について、今日他の台帳で追おうとしていました」
「一人でやるな」
短く、言い切った。
「え」
「何が見つかるか分からない段階で、一人で動くな」
わたしは少し間を置いた。
「それは、危険だということですか」
「記録を探る人間が、邪魔になる場合がある」
アルヴェイン騎士の言い方は淡々としていた。感情的ではなかった。だからかえって、その言葉の重さが真直ぐに届いた。
「……分かりました」
「確認するなら、先輩司書か俺が同席しているときにしろ」
ミレイユ先輩が小さく補足した。
「アルヴェイン騎士の言う通りよ。フォルナーさん、単独行動はしないこと」
「はい」
わたしは素直にうなずいた。昨日の奥の区画での一件を思い出した。本が暴れたあのとき、腕をつかまれて引かれた。あのときのアルヴェイン騎士の動きに迷いはなかった。
この人は、守るための判断と行動が早い人なのだと思った。
アルヴェイン騎士が帰り際に、出入り記録を確認していたとき、ふとノアが尋ねた。
「アルヴェインさん、王宮の記録のほうに、この時代の禁書事件についての記録は残っていますか」
アルヴェイン騎士が少し間を置いた。
「何を知りたい」
「いえ、その、今回なくなった目録の時代って、確か禁書の指定がいくつかあった時期だって先輩に聞いたので。もし王宮の記録に詳しいことが残っていれば、照合に使えるかなと思って」
「確認してみる」
それだけだった。
ノアがわたしに小声で言った。
「意外と、聞いたら答えてくれますよね」
「そうね」
「最初、もっと怖い人かと思ってた」
「まだ三日しか話してないでしょう」
「まあそうですけど」
ノアは少し首をかしげた。
「でも、リシェルさんには結構話しかけてきません? 僕にはほとんど用件だけなのに」
わたしは答えに困った。
確かに、アルヴェイン騎士はわたしに対して「こっちへ来い」とか「一人で動くな」とか、用件以外のことも言ってくる。それが自分に対してだけなのかどうか、まだよく分からなかった。
「気のせいじゃないの」
「どうかな」
ノアはそれ以上言わなかった。
夜、書庫を出る前に、わたしはもう一度管理棚の前に立った。
十四番の隙間は、まだそのままだった。
一冊分の空白。
その向こうに何があるのか、まだ分からない。でも、目録が消えて、控えが書き換えられて、出入り記録に空白がある。それだけのことが重なるのは、偶然ではないはずだ。
わたしは棚を見たまま、少し考えた。
記録というものは、残されることで意味を持つ。逆に言えば、消されることで誰かの都合が守られる。今ここで起きていることは、誰かが何かを消そうとしているということかもしれない。
三十年前に、この書庫に何があったのか。
五冊の本は、何を記録していたのか。
棚の隙間を見ていたら、書庫の奥のほうで、かすかな音がした。
紙をめくるような、あの音。
わたしは息を止めた。
先輩もノアも、今日はもう退庫している。書庫にいるのはわたし一人だった。
一人で動くな、とアルヴェイン騎士に言われた言葉が頭をよぎった。
でも。
わたしは足を踏み出した。
音のした方向は、三号棚の奥、封印管理エリアの端だった。
近づくにつれて、また感じた。重い気配。古い感情の残り香。怒りでも悲しみでもない、もっと切迫した何か。
棚の前に立って、わたしは目を凝らした。
最下段の一冊が、少しだけ前に出ていた。他の本と揃っているはずが、一冊だけ棚から数センチ突き出ている。誰かが取ろうとして、途中でやめたような。
わたしは屈んで、その本の背表紙を見た。
金色のインクで、かすかに文字が残っていた。
読めない古い文字が並ぶ中、一箇所だけ、見覚えのある書体で書かれた文字があった。
番号だった。
百三十九。
わたしの心臓が、一度強く打った。
控えで記述が飛んでいた五冊の番号のひとつだった。
手を伸ばしかけて、止まった。
そのとき、後ろから声がした。
「一人で動くなと言った」
跳び上がりそうになった。
振り返ると、アルヴェイン騎士が棚の間に立っていた。
表情はいつもと変わらなかったけれど、書庫の奥まで来たということは、音を聞いたか、あるいは最初からこちらを見ていたか。
「戻り忘れた書類を取りに来た」
わたしが聞く前に、短く言った。
「そうしたら、おまえがまだいた」
「……すみません」
「何を見ていた」
「この本です。棚から出かかっていて、番号が」
わたしは本の背表紙を示した。
アルヴェイン騎士が近づいてきた。背表紙を確認する。その目が、わずかに動いた。
「百三十九番」
「はい。控えで記述が飛んでいた五冊の、三番目です」
アルヴェイン騎士はしゃがんで本を確認した。手袋をした手で、慎重に背表紙に触れる。
「封印札がない」
「え」
「他の本には封印札が貼られているのに、これにはない」
わたしは周囲の本を見た。確かに、隣の本には小さな封印札がある。でもこの一冊だけ、何もなかった。
「いつから、ないんでしょう」
「台帳を確認する必要がある」
アルヴェイン騎士は立ち上がり、本を見たまま言った。
「触れるな。今夜は確認だけだ」
「分かりました」
「今日の退庫時間は過ぎている。戻れ」
「でも、この本は」
「今夜は動かさない。明日、先輩司書と館長が揃ってから確認する」
「明日まで待って、そのあいだにまた消されたらどうするんですか」
思っていたより強い声が出て、自分でも少し驚いた。
アルヴェイン騎士はすぐには答えなかった。ただ、わたしをまっすぐ見た。その沈黙が、怒っているというより、こちらの焦りごと受け止めようとしているように見えて、わたしは口を閉じた。
「だから一人では動かさない」
低い声だった。
「今ここで触れて、おまえまで巻き込まれたら、明日確かめる人間が一人減る」
わたしは少し迷ってから、うなずいた。
「……分かりました」
分かったと言いながら、胸の奥ではまだ熱が引かなかった。見つけたのに手を伸ばせない悔しさは、正しさとは別のところでわたしをせかしていた。
アルヴェイン騎士は棚の前に立ったまま、本から目を離さなかった。
「本当に、分かったな」
「はい」
「なら行け。出口まで送る」
わたしは荷物をまとめて、アルヴェイン騎士の後ろについて書庫を出た。廊下を歩きながら、さっきの感覚がまだ手の先に残っていた。あの本に感じた、切迫した何か。ただ古いのではなく、まだそこに在り続けているような感じ。
「アルヴェイン騎士――いえ、ゼノ様」
出口の手前で、つい声が出た。
アルヴェイン騎士が振り返った。
「あの本、何かを閉じ込めているように感じました。残っている感情が、他のものより、ずっと、新しい」
「新しい?」
「三十年前の本のはずなのに。まるで最近まで、誰かが触れていたみたいな気配で」
アルヴェイン騎士は少し間を置いた。
「感覚として、確かか」
「確かとは言い切れませんが、今まで感じたものとは違いました」
「……報告しておく」
「はい」
出口に着いた。外は完全に暗くなっていた。
アルヴェイン騎士は扉の前で立ち止まり、わたしを見た。
「一人で動くなというのは、お前のことを現場で使えないと思っているわけではない」
少し、意外な言葉だった。
「……分かっています」
「分かっているなら、今夜みたいなことはするな」
「はい。ただ」
「ただ?」
「あの音がしたとき、引き返すことができませんでした。本に何かがあると思ったら」
「それは分かる」
アルヴェイン騎士は短く言った。
「分かるから、余計に一人では行くな。そういう時のおまえは、たぶん自分で思っているより先に足が動く」
わたしは息を止めた。
叱られているのに、不思議と責められている感じはしなかった。危ないから止めるのではなく、見つけてしまう人間だと分かったうえで止めているように聞こえた。
「……気をつけます」
「気をつけるだけじゃ足りない。次は呼べ」
それだけ言って、アルヴェイン騎士は踵を返した。低い声だったけれど、その短い言葉は、命令というより約束に近く聞こえた。
廊下へ戻る背中を見送りながら、わたしはさっきの「次は呼べ」という言葉を胸の内でそっとくり返した。
短い、ぶっきらぼうな言い方だったのに、不思議と冷たくは聞こえなかった。
むしろ、ひとりで抱え込むなと言われたような気がした。
誰かに頼れと言われたことは、これまでにもあった。
けれど、それはたいてい、わたしを何かから遠ざけるための言葉だった。
ゼノ様のそれは、同じ場所に立つための言葉に聞こえた。
外は完全に暗くなっていた。
王立図書館へ続く石畳の道も、閉架書庫の棚も、今はもう静かなはずなのに、胸の奥だけがまだ落ち着かなかった。
目録の紛失。控えの書き換え。棚から出かかっていた百三十九番の本。封印札がない。残っている感情が、新しい。
点と点はまだつながっていない。
けれど、確かに何かが動いている。
それも、今日始まったことではなく、もっと前から、長い時間をかけて。
わたしは無意識に、手帳の入った鞄の口を押さえた。
記録を消そうとする誰かがいるなら、残そうとする側もいなければならない。
そう思って、わたしは一歩だけ、家へ向かう足を踏み出した。
その何かが三十年前から続いているのだとしても、見つけた以上、もう見なかったことにはできなかった。




