第二章 本に触れる手、剣を抜く手
翌朝、閉架書庫に出勤すると、ミレイユ先輩はすでに台帳を広げていた。
作業机の上に積み上げられた記録類、その横に並ぶ封印札の束、インクと羽根ペン。昨日と同じ、無駄のない配置。先輩はわたしが扉を開けた音で顔を上げ、時計に目を向けてから「ちょうどいい時間ね」と言った。ただの確認だった。
「今日から実務に入ります。まず蔵書点検の手順を覚えること」
「はい」
「昨日渡した手順書は読んできた?」
「一通り、読みました」
「一通り、ね」
先輩の目が少し細くなった。
「どこか分からなかったところは?」
「封印札の交換基準のところで、劣化の判定を目視と数値の両方で行うと書いてあったんですが、数値の測り方が具体的に書いていなくて」
「よく読んできた」
先輩は台帳の一冊を手に取り、こちらに向けた。
「そこは実際に見ながら覚えるほうが早い。来なさい」
蔵書点検というのは、地味だけれど緊張する作業だった。
一棚ずつ、背表紙の番号と台帳の記載を照合する。封印札の状態を確認する。劣化の兆候があれば記録する。ここまでは普通の図書管理と同じだけれど、閉架書庫ではそこに一手間加わる。
「封印検印器をここに当てる。数値が基準値を下回ったら交換。基準値は台帳の冒頭に書庫ごとに記載してある」
先輩が手元の小さな器具を棚の封印札に当てた。目盛りのついた小さな金属器で、魔力の充填量を測るものだという。
「えっと、この棚の基準値は……十四、ですか?」
「そう。今の数値は」
「十七。問題なし」
「記録して、次へ」
わたしは手帳に書きながら、先輩の後をついた。
棚を三列ほど進んだところで、わたしは一冊の本の背表紙に目が止まった。
「……先輩」
「何?」
「この本なんですが」
台帳を確認した上で、わたしは先輩に本を示した。
「記載では三年前に封印更新済みとなっているんですが、背表紙の革の状態が他の同時期の本よりずいぶん古びているような気がして」
先輩が近づいてきた。
本を眺め、台帳を確認し、封印検印器を当てる。
「……数値は基準内ね」
「はい。でも、何というか、表面の、質感が」
「触れていないのに分かるの」
「目で見て、なんとなく」
先輩は本をゆっくりと取り出した。手袋をした指先で革表紙を確認する。しばらく沈黙してから、先輩は穏やかに指示した。
「……経年劣化にしては速い。台帳に記録しておきなさい。要観察で」
「はい」
「よく気づいたわ」
それだけ言って、先輩は本を棚に戻した。
表情は変わらなかった。でも「よく気づいた」という言葉は、昨日の「一通り読んできた」より、少しだけ温かみがある気がした。わたしの思い過ごしかもしれないけれど。
午前中の点検が終わったのは、昼を少し過ぎたころだった。
書庫の外の休憩室に戻ると、書庫補佐のノア・フェルデンが弁当箱を広げていた。栗色の髪、柔らかな顔立ち。昨日の顔合わせのときに「よろしくっす、何でも聞いてください」と屈託なく言っていた、まだ十九歳の、わたしより七つ下の青年だ。
「お疲れ様でした。大丈夫でした、今日?」
「何とか、一通りは」
「最初は大変ですよね、点検。僕も最初は台帳の見方が全然わかんなくて」
「ノア、口より手を動かして」
ミレイユ先輩が書類を持ったまま通り過ぎながら言った。
「は、はい」
ノアは素直に弁当箱を脇に寄せて、資料の整理を再開した。
わたしは椅子に座って、午前中に気になったことを手帳に書き出した。要観察の本のこと、台帳の記録の書き方でまだ迷っているところ、昨日の三号棚のこと。
「リシェルさん、メモ魔なんですね」
ノアが手を動かしながら言った。
「几帳面なのはいいことだって言われてきたんですが、書きすぎるとも」
「いや、それは大事ですよ。ここ、覚えることが多いので」
ノアは少し声を落とした。
「昨日の奥の区画の件、聞きました。大丈夫でしたか」
「ご迷惑をおかけしました」
「いや、そういうことじゃなくて。あそこ、結構やばいとこなんで。初日で入ることになるとは思ってなかったと思って」
「騎士の方がいらしていたので」
「ああ、アルヴェインさん」
ノアの声のトーンが少し変わった。
「ゼノ・アルヴェイン騎士です。王宮の近衛で、魔導書絡みの事件があるとたまに来る人なんです」
「そうなんですね」
「怖かったでしょ、あの人」
「……怖い、というより、無愛想、という感じで」
「同じじゃないですか」
「そうかな」
わたしはそこで考えた。昨日のゼノ・アルヴェインのことを。確かに愛想はなかった。言葉も最小限だった。でも、棚の確認の仕方は丁寧だったし、わたしが指摘した棚に向かうとき、疑わずに動いてくれた。
それが怖い人の行動かどうか、よく分からなかった。
「あの騎士さま、ここには定期的に来てるんです。魔導書絡みの事件があると王宮から来る、特務護衛役って感じで。でも毎回怖い顔してるから、書庫の本も怖がってるんじゃないかって僕は思ってます」
「本を怖がる人が魔導書の護衛役をするの?」
「いや、そういうわけじゃないんでしょうけど。なんか、本に対してあんまり興味なさそうというか。司書的な人間とは別の生き物っていうか」
ミレイユ先輩が戻ってきた。
「ノア、余計なことを教えない」
「すみません。でも本当のことじゃないですか」
「本当のことでも余計なことはある。フォルナーさん、午後は台帳の照合に入ります。午前中の記録を整理しておいて」
「分かりました」
午後は台帳照合だった。
閉架書庫の蔵書目録と、封印管理記録と、修復記録の三つを突き合わせて、食い違いがないか確認する作業だ。これもまた地味だけれど、集中しないとすぐにずれを見逃す。
わたしは机に三冊を並べて、一つずつ照合していった。
一時間ほど進んだとき、手が止まった。
封印管理記録の一ページに、書式が違うところがあった。
ほんのわずかな違いだった。他の記録は同じ様式で書かれているのに、このページだけ、日付の書き方が少し違う。月日の順序が逆になっている。
書き間違えてそのままにしたのかもしれない。
でも、何かが引っかかった。
日付だけではなく、筆跡も、微妙に違う気がした。同じ人が書いていれば筆圧や字のくせは似てくるはずだけれど、このページだけ少し違う。
わたしは隣のページ、前後のページと見比べた。
前後は同じ書き手に見える。このページだけ、別の人が書いたような。
「ミレイユ先輩」
「何」
「封印管理記録の、この部分なんですが」
わたしは台帳を持って先輩のところへ行った。
先輩はわたしが示したページを見た。しばらく沈黙した。
「……筆跡の違い、ね」
「日付の書き方も、ここだけ逆になっています」
「気づいたのはいいことだけど、今は記録しておくだけでいい。それ以上は動かないこと」
「理由を聞いてもいいですか?」
先輩はわたしを見た。
「今は判断材料が少なすぎる。記録の食い違いかもしれないし、単純なミスかもしれない。一ヶ所見つけたからといって結論を出すのは早い」
「……分かりました」
「記録しておきなさい、日付と箇所を。それだけ」
わたしは手帳に書いた。
先輩の言うことは正しいと思った。でも、この引っかかりが気になることも確かだった。筆跡の違い、日付の様式の逆転。些細に見えるけれど、記録というものは細かい一致から崩れる。
父の蔵書室にあった古い文書を読みながら育った自分の、長年の感覚が言っていた。
これは、ミスではないかもしれない、と。
日が傾きかけた頃、書庫の扉が開いた。
アルヴェイン騎士だった。
昨日と同じ制服、同じ無表情。手に薄い報告書らしき紙を持っている。
「昨日の件を王宮に報告した。追加の確認が必要になった」
ミレイユ先輩が顔を上げた。
「三号棚の件ですか?」
「それと、おまえが今日指摘した本についても」
わたしは思わず立ち上がりかけた。
「わたしが今日気になった本のことを、もうご存じで」
「報告が来た」
「ミレイユ先輩が」
「書庫内の異常は王宮に報告する義務がある」
先輩がわたしに目を向けた。
「そういう仕組みになっています。特に封印絡みのものは」
「そうなんですね。知りませんでした」
「手順書の最後のほうに書いてあるわ」
一通り読んだと言ったけれど、最後まで読み切れていなかった部分がそこだったらしい。わたしは内心で反省した。
アルヴェイン騎士は棚のほうへ歩いた。
「三号棚から再確認する。案内を」
「分かりました」
ミレイユ先輩が立ち上がった。わたしはどうすべきか判断しかねて、その場に立っていた。
アルヴェイン騎士が振り返らずに言った。
「おまえも来い」
「わたしがですか」
「今日気づいた本の、どこでそれを感じたか確認したい」
先輩がわたしに目で合図した。ついていっていい、という意味だと受け取って、わたしは三人で棚へ向かった。
三号棚で、アルヴェイン騎士は昨日より時間をかけて確認をした。一冊一冊を封印検印器で測り、数値を手帳に控える。
ミレイユ先輩が脇で補足説明をした。わたしは少し離れた場所から見ていた。
「昨日と同じ傾向が続いている」
「ええ。劣化のペースが通常より速い」
「外部からの干渉を疑っている」
先輩が少し間を置いた。
「干渉、というのは」
「誰かが意図的に封印を弱めている可能性がある。偶発的な劣化にしては、対象が特定の書物に集中しすぎている」
先輩の顔が少し硬くなった。
「……そうなると、書庫への出入り記録を確認する必要がありますね」
「今日、もらった」
アルヴェイン騎士は報告書のような紙を先輩に渡した。
「目を通してくれ。気になる点があれば教えてほしい。書庫の人間が見たほうが気づくこともある」
先輩が紙を受け取る。
わたしはそのやり取りを見ながら、今日照合した台帳の筆跡のことを思った。
「あの」
二人が向いた。
「台帳照合で気になったことがあって」
「何」
「封印管理記録の、ある一ページだけ筆跡と日付の様式が違っていました。先輩には報告したんですが、今おっしゃっていた出入り記録との照合で、何か出てくるかもしれないと思って」
アルヴェイン騎士の目が少し動いた。
「どのページか」
「台帳を持ってきます」
作業机まで戻り、台帳を持ってきた。アルヴェイン騎士に示したページを、彼はしばらく無言で見た。
「……日付の逆転、か」
「はい。単純な書き間違えとも取れるんですが、筆跡も前後と少し違っていて」
「先週の出入り記録と突き合わせる必要があるな」
先輩が言った。
「アルヴェイン騎士、その日付の時期の出入り記録は入っていますか」
「……確認する」
アルヴェイン騎士は手元の紙を見た。そして短く、こちらを向いた。
「この日付の時期、記録がない」
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
「記録がない、というのは」
「出入りの記録が抜けている。その日だけ」
わたしは息をのんだ。
それは、単純な記録の空白ではないかもしれなかった。抜けているのではなく、抜かれた可能性がある。
先輩が言った。
「……それは、問題ね」
「ああ」
アルヴェイン騎士はもう一度台帳のページを見てから、
「おまえ」
わたしを見た。
「これを今日見つけた」
「はい」
「照合作業の途中で気づいたのか」
「筆跡の違いが引っかかって。記録の食い違いがないか確認しながら作業していたら、日付の書き方も逆になっているのに気づきました」
「それを指摘した」
「はい。ただ、先輩からは今は記録だけしておくように言われたので、それ以上は」
「正しい判断だ」
アルヴェイン騎士はそれだけ言って、台帳から目を上げた。
「ただし、気づかなかったよりはずっといい」
昨日と似た、短い言葉だった。
褒めているのか、ただ事実を述べているのか判断しかねる言い方だったけれど、わたしは静かに「ありがとうございます」と答えた。
その後、アルヴェイン騎士と先輩の間でしばらく確認作業が続いた。
わたしは台帳の記録を補佐しながら、二人の言葉を聞いていた。封印の劣化ペースと日付の空白、それが重なる時期がもう一箇所あることをアルヴェイン騎士が指摘した。先輩がそれを台帳で確認した。
「同じ時期に、二度。それも特定の棚に集中している」
「偶然の確率は低い」
「館長に報告が必要ですね」
「今夜中に上げる」
アルヴェイン騎士は記録を閉じ、封印検印器を仕舞った。
「一点、確認したいことがある」
彼はミレイユ先輩を見た。
「この書庫の管理に、王宮の記録とつながっている部分はあるか」
先輩が少し間を置いた。
「禁書指定の照合は、王宮書記官との確認が年に一度あります」
「それ以外は」
「通常はありません。閉架書庫は図書館の管轄です」
「そうか」
アルヴェイン騎士は何か考えるような顔をした。長い沈黙ではなかったけれど、その数秒の間に彼が何かを測っているのは分かった。
「今日の調査結果は報告する。追加で何か分かったら教えてくれ」
「承知しました」
アルヴェイン騎士が書庫の出口へ向かった。
わたしは少し迷ってから、声をかけた。
「あの、アルヴェイン様」
足が止まった。
「この書庫の封印劣化が、意図的なものだとしたら、目的は何だと思われますか」
振り返った。
「何が言いたい」
「特定の書物だけを選んで劣化させている、もしそうだとしたら、それは何かを取り出そうとしているのか、それとも何かを壊そうとしているのか。どちらだと思われますか」
アルヴェイン騎士はわたしを見た。
何も言わなかった。
ただその沈黙は、昨日のような「余計なことを言うな」という空気ではなかった。
「まだ分からない」
短く、しかしきちんと答えた。
「だから調べている」
「そうですね。失礼しました」
「……おまえは、司書として調べたいのか」
「はい」
「それは、本が心配だからか」
少し意外な問い方だった。
わたしは一瞬考えてから答えた。
「本が心配というより。記録が壊されるのが嫌なんです。本というのは、誰かが何かを残そうとして作ったものなので。それが意図的に傷つけられているとしたら、そのことが」
言葉が続かなかった。うまく言えない気がして、止まった。
でも、黙ったままにするのも違う気がした。
わたしは小さく息を吸った。
「大事に残されたはずのものが、誰かの都合で消されるのは、見ていて苦しいんです。残らなかったものは仕方がないと思えても、残っているものまでなかったことにされるのは、たぶん、我慢できません」
アルヴェイン騎士は、まだわたしを見ていた。
「……続けろ」
「そのことが、気になります。誰が何のために、という以上に」
「感情論だ」
「そうかもしれません」
「ただ」
アルヴェイン騎士はそこで一度、視線を床に落とした。
「間違いだとは思わない」
それだけ言って、今度こそ扉へ向かった。たったそれだけの言葉だったのに、胸の奥のどこかが、少しだけ軽くなった。
足音が遠ざかる。扉が閉まる。
ミレイユ先輩が横に立ってわたしを見ていた。
「何を見ているの、フォルナーさん」
「いえ、その。あの方は、もう少し何も答えてくれない人かと思っていたので」
先輩は少し口元を緩めた。珍しい表情だった。
「あなた、昨日より声が大きくなったわね」
「……そうですか」
「初日はもっと縮こまっていたから。案外しぶとい」
からかいとも評価とも取れる言い方だった。
わたしは「ありがとうございます、たぶん」と答えた。
先輩は小さく笑って、台帳に向き直った。
帰り道、王立図書館の正面玄関を出たとき、空が夕焼けで橙色に染まっていた。
今日一日のことを頭の中で繰り返した。蔵書点検の手順、封印検印器の使い方、台帳照合の方法。覚えることはまだ山ほどある。
でも、今日一番頭に残っているのは、それではなかった。
出入り記録が抜けている日付と、台帳の筆跡が変わったページが重なっていること。
アルヴェイン騎士が「偶発的な劣化ではないかもしれない」と言っていたこと。
昨日の本の中に感じた、あの重くて古い何か。
それらがひとつの輪郭を持ちかけているような気がして、でもまだ形にはなっていなかった。
手帳を開き、今日の気づきを書き足した。
封印劣化の時期と、台帳筆跡の乱れの時期が重なる可能性あり。出入り記録に空白。偶発的ではない? 目的は「取り出す」か「壊す」か、それとも別の何か。
橙色の空の下、王立図書館の高い石壁がそびえていた。
その奥の、閉架書庫の奥の、誰かが選んで劣化させようとしている何冊かの本が、今も棚に静かに立っていることを思った。
あれは何を抱えているのだろう。
記録を守る仕事というのは、こういうところから始まるのかもしれない、とわたしは思った。
何かが失われる前に、気づくこと。
気づいた手帳を閉じて、石畳の道を歩き始めた。




