第一章 閉架書庫へようこそ
王立図書館は、思っていたよりずっと静かだった。
石造りの高い壁に囲まれた正面玄関をくぐった瞬間、外のざわめきが一枚薄い布を隔てたみたいに遠のく。磨かれた床には朝の光が淡く落ち、天井近くまで届く窓の向こうで、白い雲だけがゆっくり流れていた。
本の匂いがする。
乾いた紙と革表紙と、長い時間そのものが沈んだような、ひんやりした匂い。
胸の奥が、少しだけほどけた。
ここなら、息がしやすいかもしれない。
そう思ったのも、ほんの束の間だった。
「本日から司書見習いとして勤めます、リシェル・フォルナーです。どうぞよろしくお願いいたします」
声が上ずらなかったことに、内心で少しだけ安堵した。今朝きちんと結い直した淡い蜂蜜色の髪も、明るい茶色の瞳も、少なくとも見習いとしてだらしなくは見えていないはずだった。背は高くないし、華やかな顔立ちでもないけれど、せめて落ち着いて見えればいいと思った。
挨拶を終えたわたしに、机の向こうの女性は書類から目を上げ、眼鏡の奥の目を細めた。
きっちりと結い上げた赤みのある茶髪、無駄のない所作、少しも隙のない声。
「フォルナー伯爵家の」
確認するような口調だった。
うなずくと、彼女――ミレイユ・サーヴァン先輩司書は、感心したようでも呆れたようでもない顔で言った。
「では、先に申し上げておきます。ここは、本が好きというだけで務まる職場ではありません」
やわらかい声音だった。
けれど、その言葉は、冬の朝みたいにきっぱりと冷えていた。
「特にあなたが配属されるのは、閉架書庫ですから」
閉架書庫。
その言葉を聞いた瞬間、なぜか背筋に小さな震えが走った。
知らないはずなのに、知っているものの名を聞いたような、不思議な感覚だった。
閉架書庫は、図書館のいちばん奥にあった。
閲覧室の明るさが途切れ、細い廊下を曲がるたび、空気が少しずつ重くなる。壁際の燭台に落ちる火は昼だというのに頼りなく、鍵の束を鳴らしながら先を歩くミレイユ先輩の背中だけが、やけにはっきり見えた。
「古い魔導書、禁書指定の書物、封印管理中の記録類。ここには、表に出せない本が集まっています」
淡々とした説明に、わたしは思わず息をのむ。
「ですから、勝手に触れないこと。ひとりで棚の奥へ入らないこと。異変を感じたら、すぐに報告すること」
「異変、ですか」
「ええ」
ミレイユ先輩は足を止め、重い扉の前でこちらを振り返った。
「たとえば、閉じているはずの本が、ひとりでに頁をめくるようなことがあれば」
「……それは、どのくらいの頻度で」
「あなたが思っているより、多いわ」
錠を開ける金属の音が、石の廊下に響いた。
扉の向こうから漂ってきたのは、さっき感じた図書館の匂いよりずっと濃い何かだった。古い紙の乾いた気配に、何か別のものが混じっている。湿ったというより、重い。空気そのものに、長い年月が凝り固まっているような。
「どうぞ」
ミレイユ先輩が扉を大きく開いた。
わたしは一歩踏み出した。
書庫は想像よりずっと広く、天井まで届く本棚が左右に並んでいた。奥へ続く棚の列は暗がりに溶けてどこまで続くか見えない。棚のところどころに、金色や赤の光を放つ小さな封印札が貼られており、その光がゆらゆらと揺れている。普通の書庫なら書名が書かれた案内板があるはずの場所には、代わりに「取り扱い注意」「単独接触禁止」「要許可」といった貼り紙が並んでいた。
「……すごい」
声が出たのは、感嘆というより、ほとんど反射だった。
ミレイユ先輩が横目でわたしを見た。
「ここで感心している場合ではないでしょう。足を動かして」
わたしはあわてて後に続いた。
案内されるままに書庫の中を歩きながら、わたしは小さな呼吸を繰り返した。書庫の空気には、確かに何かが満ちている。普通の本屋や図書室で感じるそれとは違う。もっと密度があって、こちらの皮膚に触れてくるような。
父の蔵書室で育ったわたしは、本というものにそれなりの親しみがある。活字の匂いも紙の手触りも好きだ。でもここにあるのは、それとは少し別の何かだった。
言葉にするなら。
悲しみの残り香、とでも言えばいいのだろうか。
「フォルナーさん」
ミレイユ先輩の声に、ぼんやりしかけていた意識が戻った。
「ぼうっとしていると落ちますよ、魔力の膜に。魔導書の近くでは気を引き締めること」
「は、はい。失礼しました」
「慣れれば平気になるわ。最初はみんな多少、酔ったような感覚になる。あなたは少し感度が高そうだから、余計に」
感度が高い、という言い方が引っかかった。
「それは……どういう意味でしょうか?」
「そのまま来なさい。一通り見せてから説明します」
返事を待たずに、彼女は先へ進む。
わたしは口を閉じて後をついた。
一時間かけて書庫を一周した。
封印管理エリアには、それぞれの書物に対応した台帳があり、週に一度の点検と月に一度の封印更新が義務だと説明を受けた。禁書指定書物はさらに厳重で、目録の照合には上位司書の立ち会いが必要なこと。棚の奥の特定区画には見習いだけでは立ち入れないこと。
ミレイユ先輩は一切の無駄がなく、すべてを正確に話した。聞けば答えてくれるけれど、必要以上に補足はしない。質問するなら今のうちだと思いながらも、情報量が多すぎてどこから聞くべきか整理できない。
書庫の端まで来て、先輩は振り返った。
「とりあえず、今日はここまで。まず覚えるべきことを覚えてから、実務に入ります」
「わかりました」
「何か今すぐ確認したいことはある?」
わたしはすこし迷ってから、聞いた。
「先ほどの、感度が高いという話は」
ミレイユ先輩の眉が、わずかに動いた。
「館長に聞きましたよ。あなた、本に残った感情の痕跡を感じ取れるそうね」
「……感じ取れる、というより、その、ときどき、うっすらと」
「あいまいに濁さなくていい。館長が認めた資質なら、仕事で使えるものとして扱います」
きっぱりした言い方に、少し気持ちが楽になった。
「それで、この書庫に配属されたのですか?」
「そう。禁書や古い魔導書には、長年の扱いの中で様々な感情が刷り込まれている。真贋判定や状態確認に、そういう感覚は使える。ただし」
先輩の目が少し鋭くなった。
「それは補助です。本来の仕事は台帳管理、封印の確認、記録の照合。感覚に頼りすぎないこと。いいですね」
「はい」
「では今日は」
そのとき、音がした。
棚の奥のほうから。
乾いた紙をめくるような、かすかな音。
ミレイユ先輩が振り返った。わたしもそちらを見た。
書庫の奥、封印管理エリアの端の棚に、一冊の本が立っていた。他の本と同じように背を向けて並んでいるはずのそれが、ひとりでに動いている。革製の表紙がゆっくりと持ち上がり、頁が開こうとしていた。
「……ミレイユ先輩」
「分かってる」
先輩は素早く棚に近づき、封印札の入った革の小袋から一枚を取り出した。慣れた手つきで本の表紙に手を当て、短い詠唱を口にする。ゆっくりと持ち上がりかけていた表紙が、ぴたりと止まった。
沈黙。
それから、先輩はため息をついた。
「三号棚の十二番。先週も、その前にも同じ反応があった」
「これは、よくあることなんですか?」
「よくはない。あっていい頻度じゃない」
先輩は手の中の本を確認しながら、難しい顔をした。
「封印の劣化が早い。それも特定の何冊かだけ。原因が分からないのが、今の懸案事項のひとつよ」
わたしは棚に近づいた。
今は静かになった本の背表紙を、目で追う。
皮革の表紙には、金色のインクで文字が刻まれていたけれど、その大半は読めないほど色あせていた。古い言語か、それとも別の何かか。
ただ、そこからほんのわずかに。
感じた。
重い、何か。怒りともちがう、恐れとも違う。長い年月のあいだに積み重なって、出口を探しているような、そういう気配。
「フォルナーさん、触れないで」
先輩の声でわたしは手を引いた。気づかないうちに指を伸ばしていた。
「す、すみません」
「悪いとは言っていない。でも今はまだ、ひとりで近づかないこと」
先輩は再び封印札を確認してから、本を棚に戻した。
「今日のところはここで終わりにします。明日から実際の点検業務に入る。今夜は手順書を読んでおくこと」
「分かりました」
わたしは一度だけ、棚の本に目を向けた。
静かになったその一冊は、他の本と同じように並んでいた。ただ佇んでいるだけに見えた。
けれどまだ、あの重さの残り香が、わたしの指の先にあった。
書庫を出て、廊下を歩いていたときだった。
反対側から、足音が来た。
軽くない。重心の低い、均一なリズム。石の廊下に響くその音に、わたしは思わず立ち止まった。
曲がり角から現れたのは、騎士の制服を着た男だった。
黒髪。長身で引き締まった体格。青みのある灰色の瞳は前を向いたまま、こちらを一瞥もしなかった。三十代前半から半ばくらいだろうか。端正だけれど近寄りがたい顔立ちで、若さよりも先に、長く張りつめたものだけを削ぎ落としてきたような静けさがあった。わたしより明らかに年上だったけれど、年齢そのものより、迷いなく歩いてくる気配のほうが強く印象に残った。
ミレイユ先輩が足を止めた。
「アルヴェイン騎士。本日もこちらへ」
「封印の状況確認に来た。先週の報告を受けて、上から指示が出た」
短い、言い切った口調。挨拶も前置きもなかった。
「三号棚の件ですか?」
「それも含めて」
アルヴェイン騎士は廊下を歩き続ける気配だったけれど、このとき初めてわたしのほうに目を向けた。
一秒ほど、視線が合った。
「新顔か」
「本日から配属された司書見習いです、リシェル・フォルナーと申します」
わたしは礼をした。
アルヴェイン騎士は特に何も言わなかった。ただ「そうか」と一言だけ言って、ミレイユ先輩に向き直った。
「三号棚の封印劣化、何か心当たりは」
「今調べているところです。ただ、今日も同様の反応がありました」
アルヴェイン騎士は短く尋ねた。
「見ていいか」
「どうぞ」
二人は書庫へ向かい始めた。
わたしは少しためらってから、後ろについた。
書庫に戻ると、アルヴェイン騎士は迷いなく三号棚へ向かった。先ほどミレイユ先輩が手当てをした十二番の本を、手袋をはめた指先で確認する。
「封印札は新しい。それでも反応する」
「ええ。これで三度目です」
「外側の原因ではないかもしれない」
アルヴェイン騎士は棚を横に流れるように見ていった。その動きは丁寧で、怠りなかった。
わたしは少し離れた場所に立って見ていたけれど、棚のひとつに、また微かなものを感じた。
隣の列、一番上の段。
「……あの」
声に出してから、まずかったかもしれないと思った。
二人がこちらを向いた。
「あそこの、一番上の棚。二番か三番のあたり、少し気になるところがあります」
ミレイユ先輩の眉が上がった。アルヴェイン騎士は表情を変えなかった。
「感じたのか」
「はっきりとではないんですが、さっきの本と、少し似た、重さのようなものが」
アルヴェイン騎士は無言で棚に近づいた。
上段を確認し、手を伸ばして一冊を抜き取る。古い羊皮紙を束ねたような本で、封印札の色が他のものより沈んでいた。
「……札の劣化が早い。こちらも」
ミレイユ先輩が素早く近づき、確認する。
「同時期に劣化しているわね。おかしい」
「棚全体を見直す必要がある。今日中に上へ報告する」
アルヴェイン騎士はわたしをちらりと見た。
「さっきのは、どこで感じた」
「あの、本のほうから、ではなく。正確には棚の、空気が、少し……うまく言葉にできないんですが」
「いい」
アルヴェイン騎士は短く言い、また棚に向かった。
会話の切り上げ方が唐突で、少し戸惑う。
わたしの感じ取ったことが役に立ったのか、それとも的外れだったのかも、分からなかった。
ミレイユ先輩が小声で言った。
「アルヴェイン騎士は、言葉が少ない方です。気にしなくていい」
「い、いえ、大丈夫です」
正確には大丈夫かどうか分からなかったけれど、今はそれよりも棚のことが気になっていた。
その後、アルヴェイン騎士が棚を確認していく横で、ミレイユ先輩がわたしに封印確認の基本手順を説明してくれた。封印札の色の変化の見方、劣化の判断基準、異常を発見したときの記録の取り方。
聞きながら、わたしは手帳にメモを取り続けた。
一通り確認が終わったところで、アルヴェイン騎士が突然振り返った。
「おまえ」
わたしのことだと気づくのに少し間があった。
「は、はい」
「棚の奥、今から確認する。一緒に来い」
ミレイユ先輩が少し顔を上げた。
「アルヴェイン騎士、彼女は今日が初日で」
「その感覚が本物かどうか確かめる。来い」
言い方に迷う余地がなかった。
わたしはミレイユ先輩に目を向けた。先輩は一瞬考えてから、小さくうなずいた。
三人で棚の奥へ進んだ。書庫の一番奥、重い扉の先にある区画だった。鍵をミレイユ先輩が開ける。ここは見習いが単独で入れない場所で、今日の説明でも「立ち入り禁止」と言われた区画だ。
中は先ほどよりさらに空気が重かった。燭台の火がある、けれどそれが届かない暗がりが、棚の奥に積み重なっている。
アルヴェイン騎士が端の棚を指した。
「そこ。何か感じるか」
わたしは促されるまま、棚に近づいた。
感じた。
さっきより、ずっと。
これは怒りではなかった。恐怖でもない。もっと静かで、しかし根の深い何か。長い時間をかけて積み上がった、言葉にならないまま閉じ込められた何か。
「……悲しみ、のようなもの、でしょうか。違うかもしれないんですが、深くて、古いような」
アルヴェイン騎士は目を細めた。
「どの本か分かるか」
「この一冊から、特に、強く」
わたしが指を向けたのは、角の黒ずんだ古い一冊だった。
アルヴェイン騎士は手袋をしっかり確認してから、慎重に本を取り出した。
その瞬間だった。
本が、開いた。
開いたというより、弾けた。頁が激しく波打ち、黒ずんだ文字がふわりと浮いて、渦を巻いた。書庫の空気が急に重くなり、燭台の火が大きく揺れた。
「下がれ」
アルヴェイン騎士の声が響いた。
わたしは一歩後退しようとした。でも足が止まった。
渦巻く文字の中に、何かが見えた気がしたから。
形ではない。意味ではない。ただ、そこに誰かの声がある、という気配。
「フォルナー」
「で、でも、この本は」
「危険だと言っている。下がれ」
アルヴェイン騎士がわたしの腕をつかんで引いた。
強い力で、よろける。棚から大きく離れた場所で、アルヴェイン騎士が素早く印を結ぶ。ミレイユ先輩も手際よく封印札を取り出し、空中に向かって押しつけるようにかざした。
文字の渦が、しぼむように静まっていった。
本が、ゆっくりと閉じた。
静寂が戻ってきた。
三人とも、しばらく動かなかった。
「……怪我はないか」
アルヴェイン騎士がわたしを見た。
「ありません。すみません、言う通りにしなくて」
「なぜ止まった」
「本の中に、何か声のような、気配が……あの、ちゃんとした声ではなくて。ただ、誰かがそこにいる感じがして」
アルヴェイン騎士の目が細くなった。何かを考えているような、測るような目だった。
「確認を取る必要がある。この本は当面封印管理に回す」
ミレイユ先輩が言った。
「フォルナーさん、今日はここまで。区画を出なさい」
「はい」
わたしは促されて区画を出た。扉が重く閉まる音がした。
廊下に出ると、さっきまでの重い空気が嘘みたいに薄れた。
手が微かに震えていた。
呼吸を整えながら、今起きたことを頭の中で繰り返す。本が暴れた、アルヴェイン騎士に引っ張られた、それよりも、あの一瞬に感じたもの。
あれは何だったのだろう。
扉の向こうで、アルヴェイン騎士の低い声が聞こえた。
「新入りの感覚は本物だ。ただし、制御できていない。今日みたいなことが続くなら、危険にさらすことになる」
ミレイユ先輩の声が返った。
「分かっています。それはこちらで見ます」
「向こうには報告する。今日の本の反応も含めて」
短い沈黙があった。
「アルヴェイン騎士、一つ聞いていいですか?」
「何か」
「この書庫の封印劣化、偶然ではないと思っていますか?」
今度の沈黙は、さっきより少し長かった。
「……まだ、確かなことは言えない」
それだけだった。
わたしは廊下の壁に背をもたせかけ、天井を見上げた。
入庁初日、半日も経たないうちに、こういうことになるとは思っていなかった。
あの日、向かいに座った彼は、申し訳なさそうな顔だけをきれいに作っていた。君は悪くない、と言いながら、その実、わたしを人生の予定から穏やかに外していく声だったことを、今でも覚えている。
二十六歳で婚約破棄のあと、父の紹介で試験を受け、ようやくここまで来たのだ。遅すぎる再出発かもしれないと思ったことも、一度や二度ではなかった。婚約していたころ、本が好きだと言っても、役に立たない趣味のように扱われることが多かった。
好きなものを、好きだと言うたびに、少しずつ声が小さくなっていった。
だから今日、誰かの残したものに自分の感覚が届いたことが、思っていた以上に嬉しかった。無駄ではなかったのだと、ほんの少しだけ思えた。
この書庫ではじめて、それが仕事になるのだと思えた。だからこそ、この場所で起きていることを、見過ごしたくないとも思った。
でも閉架書庫というのは、自分が思っていたより、ずっと深いところにある場所らしかった。
扉が開いて、アルヴェイン騎士が出てきた。
わたしが廊下にいることに気づき、一度足を止めた。
「帰るのか」
「今日はこれで上がりだと言われたので」
「そうか」
彼は通り過ぎようとした。
わたしは思わず口を開いた。
「あの、先ほどは、引っ張っていただいてありがとうございました」
アルヴェイン騎士は立ち止まって、振り返った。
「礼はいい。危ないと言ったら動くこと」
「はい。ただ」
「ただ?」
わたしは少し息を吸った。
「本の中に何かがある、と感じた判断は、間違っていなかったと思っています。止まったことは迷惑をかけました。でも、感じたこと自体は」
「現場では判断より行動が先だ」
「……それは、分かります」
「分かったなら次から動け。感じたことをどう使うかは、生き残ってからでいい」
それだけ言って、アルヴェイン騎士は廊下を歩いていった。
足音が遠ざかり、曲がり角の向こうに消える。
わたしはその背中を見送った。
ひどく無愛想な人だ、と思った。言い方も、切り上げ方も、こちらの言葉を待たない感じも。
ただ、一つだけ気になったことがあった。
廊下の角を曲がる直前、アルヴェイン騎士の歩調がほんのわずか、ゆっくりになった気がした。それだけだった。何かを言うわけでも、振り返るわけでもなく、すぐに元の速さに戻っていった。
気のせいだったかもしれない。
わたしは手帳を開いた。今日書いたメモの最後に、一行だけ書き足した。
三号棚・封印劣化。偶然ではない可能性あり。
それから手帳を閉じて、廊下を歩き始めた。
外の光が、もう少し傾いていた。
閉架書庫の最初の一日は、こうして終わった。




