第二十章 秘密を読んだそのあとで
翌朝、王宮からの報告が届いた。
ルシアン・グレイヴ補佐官が、昨夜のうちに王宮内で事情聴取を受けていた。容器に残された術式痕の解析が早い段階で終わり、遠隔干渉の証拠として認定されたためだった。セレナが夜通し動いてくれたらしかった。
館長が報告書を読みながら言った。
「グレイヴ補佐官は、当面の職務停止と調査対象になりました。完全な決着にはまだ時間がかかりますが、これ以上の干渉はできない状態です」
「封鎖区画への干渉も、止まりますか」
「止まります。ただし、記録の扱いについては今後も王宮内で議論が続くと思います。すぐに全部が解決するわけではない」
「それは分かっています」
「分かっていますか」
「ええ。でも今日より明日、明日より明後日と、少しずつ動いていけると思います」
館長は少し目を細めた。
「あなたが来た頃より、ずいぶん言い方が変わりましたね」
「そうですか」
「最初の頃は、もう少し遠慮があった」
「なくなりましたか」
「なくなったわけではないと思います。ただ、芯が出てきた」
わたしは少し考えた。
「芯は最初からあったと思います。ただ、使い方が分かっていなかっただけで」
「そうかもしれませんね」
館長は書類を閉じた。
「フォルナーさん、一つ伝えておきたいことがあります」
「はい」
「あなたの採用について、見習い期間の終了を待たずに正式採用の申請を出しました」
わたしは少し間を置いた。
「見習い期間はまだ」
「あと二ヶ月あります。ただし、通常の見習いが一年かけて習得する内容を、あなたは二ヶ月で動きながら身につけました。申請が通れば、来月からの正式採用になります」
「先輩は」
「ミレイユからの推薦も入っています。本人は言わないと思いますが」
わたしは手帳を持ったまま、少しの間動けなかった。
先輩が推薦を出してくれていた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。申請が通ってからにしなさい」
「それでも、ありがとうございます」
午前中、封印師が来て、ゼノの診察が行われた。
診察というより、術式の確認だった。封印師の年配の女性が、ゼノの記憶に施されていた封印の状態を確認した。
わたしは書庫の外の廊下で待った。ミレイユ先輩も一緒だった。
「緊張していますか」
先輩が聞いた。
「緊張、していますね」
「どちらの結果でも、大丈夫です」
「どちら、というのは」
「封印が完全に解けた場合でも、部分的だった場合でも」
「そうですね。どちらでも」
わたしは廊下の窓から外を見た。
「先輩、正式採用の推薦、ありがとうございました」
「館長に聞きましたか」
「はい」
「口が軽い館長ですね」
「そういう意図で話されたんじゃないかと思います」
先輩は少し間を置いた。
「あなたは、最初から素質がありました。ただし、素質があることと、仕事ができることは別です。この二ヶ月で、仕事ができることを見せてくれました」
「先輩に認めてもらえることが、一番うれしいです」
「大げさです」
「大げさではありません」
先輩はわずかに目を逸らした。照れているのかもしれなかった。ミレイユ先輩が照れた顔をするのは、初めて見た気がした。
「仕事の話をします」
「はい」
「今後、王宮と図書館の往復が正式な業務として続きます。照合作業もまだ残っています。封鎖区画の記録の整理も、本格的に始まります。やることは増えます」
「やります」
「体調管理も仕事のうちです。今夜は早く帰りなさい」
「昨夜徹夜でしたか、先輩も」
「あなたよりはましです」
「わたしは徹夜ではないです」
「だいたいそれに近かったでしょう」
わたしは少し笑った。
廊下の扉が開いた。
封印師の年配の女性が出てきた。
「確認が終わりました」
「結果は」
「昨夜の術式発動で、記憶の封印に相当な亀裂が入っていました。完全に解けてはいませんが、今後の治療で段階的に解除できる状態です」
「段階的に、ということは」
「一度に全部を解除しようとすると、記憶が一気に戻って負担が大きすぎます。専門の封印師が段階的に施術することで、安全に解除できます。時間はかかりますが、最終的にはほとんどの記憶を取り戻せる可能性が高い」
「可能性が高い、ということは」
「完全には確約できません。封印の深い部分については、まだ不確定な要素があります。ただし、今の状態は昨日より明らかに良い状態です」
「ありがとうございます」
封印師が帰った後、ゼノが出てきた。
いつもの顔だった。いつもと変わらない無表情。でも、何かが少し違う気がした。目の奥の色が、以前より少し軽い。
「聞きましたか?」
「はい」
「段階的な治療が必要だそうです」
「それはよかった。必要な治療があるということは、治療ができるということですから」
ゼノはわたしを見た。
「そういう受け取り方をするんですね」
「そうじゃないですか」
「……そうかもしれない」
先輩が言った。
「アルヴェイン騎士、今日はゆっくりしてください。体への負担が大きかったはずです」
「任務があります」
「任務は今日は休みにしてもらいなさい。館長から上へ話を通せます」
「……そうします」
ゼノがそれを受け入れたことが、少し意外だった。いつもなら任務を優先するところだった。
「今夜は休んでください、ゼノ様」
「ああ」
「今夜、少し話せますか。今日一日のことを整理したいので」
「夕方に来る」
「ありがとうございます」
午後は、書庫の後片付けと記録整理に費やした。
昨夜の暴走で乱れた棚を元に戻して、封印の状態を確認して、数値を記録した。ノアが手伝ってくれた。
「昨夜、すごかったですね」
「すごかったです」
「僕は外で待っていただけでしたけど、数値が急に安定したとき、何か感じました」
「何を感じましたか」
「うまく言えないんですけど、重いものが降りたような」
「そうだったかもしれません」
ノアは棚を整えながら言った。
「ファルク・ベルンって、どんな人だったんでしょうね。今となっては確かめようがないですけど」
「記録を大事にする人だったと思います。欄外に書き残すくらいですから」
「欄外に名前を書くのって、どういう気持ちだったんですかね」
「消えても、どこかに残るように、という気持ちだったんじゃないかと思います」
「残りましたよね、ちゃんと」
「残りました。三十年後にわたしが見つけるまで残っていた」
「それ、すごくないですか」
「すごいです」
ノアは棚を見ながら、少し考えるような顔をした。
「僕、後半で思わぬ情報を握っている役にもできるって言われていましたよね、最初に自己紹介したとき」
「言っていましたか」
「自分で言いましたよ。あながち外れてなかったと思いませんか、百八番の件で搬入記録を調べたときとか」
「ノアさんがいたから気づけたことは、いくつもあります」
「ですよね」
ノアは少し満足した顔をした。
「僕も記録に残りたいですね。欄外でもいいので」
「残ります。今日ここにいた人間の一人として、この記録に」
「それでいいです」
ノアは棚の整理を再開した。
わたしも手を動かしながら、今日のことを頭の中で整理した。
グレイヴ補佐官の職務停止、封印師による診断、正式採用の申請。一日で多くのことが動いた。
でも、まだ終わっていないことも多い。封鎖区画の記録整理、消された記録の復元、王宮内での議論。それらはこれから始まる仕事だった。
夕方、ゼノが来た。
書庫の外の廊下で、二人で話した。先輩とノアは退庫していた。
「今日の診断の後、何か思い出しましたか」
「少しだけ」
「どんなことですか?」
「父の手の感触に近いものが、一瞬だけ。形のある記憶ではなく、感覚として」
「それでも、あったんですね」
「ああ。今まではそれすらなかった」
わたしは少し間を置いた。
「ゼノ様、一つ聞いてもいいですか?」
「何か」
「記憶が戻っていくにつれて、今まで知らなかった自分の過去が明らかになっていきます。それは、怖いですか。今、怖いですか?」
ゼノはしばらく考えた。
「今は、怖くない」
「なぜですか?」
「昨夜、父が守ろうとした記録と一緒に動いた。父がしていたことと、同じことをした。それで十分だと思った」
「十分というのは」
「記憶がなくても、つながっていたということだ。つながっていたと分かった今は、記憶が戻ることを恐れる理由がない」
わたしは手帳を握った。
「覚えていることと、覚えていないことが、どちらも自分だということですね」
「おまえが以前言っていたことだ」
「言いましたね」
「その言葉が、ここ数週間ずっと頭にあった」
廊下の燭台が揺れた。
夕方の光が、窓から細く差し込んでいた。
「ゼノ様」
「何か」
「わたしはこれからも、閉架書庫で働きます。正式採用の申請が通れば」
「通る」
「まだ確定していませんが」
「通る。間違いなく」
断言だった。
わたしは少し笑った。
「ゼノ様は引き続き、王宮付き近衛騎士として、ここへ来ることがありますか?」
「ある。この書庫は、今後も管理が必要な場所だ。関わる理由は続く」
「仕事として来る?」
「仕事として来る」
少し間があった。
「それだけですか?」
聞いてから、少し大胆だったかもしれないと思った。でも、言葉は出てしまっていた。
ゼノはわたしを見た。
しばらく、何も言わなかった。
廊下の外で、夕暮れの鳥の声がした。
「それだけ、ではない」
静かな声だった。でも、揺れていなかった。
「おまえに会いに来る」
それだけだった。
短い言葉だった。飾りも、回り道もなかった。
ゼノらしい言い方だと思った。
わたしは手帳を持ったまま、少しの間、何も言えなかった。言葉を探したけれど、今日は出てこなかった。
いつも手帳に書き留めるわたしが、今日は何も書けなかった。
書かなくても、忘れない。
そう思ったから。
「……分かりました」
わたしはやっと言った。
「来てください」
「ああ」
それだけだった。
でも、その一言の重さは、今夜の書庫を満たすくらいあった。
廊下の外が、少しずつ暗くなっていた。
ゼノは「では、また明日」と言って、廊下を歩いていった。
足音が遠ざかって、曲がり角を曲がって、消えた。
わたしはその後しばらく、廊下の窓から外を見ていた。
暗くなっていく空を見ながら、今夜起きたこと、今日一日のこと、この二ヶ月のことを、頭の中で繰り返した。
婚約破棄のあとで、自分の力で生きていこうと思って、王立図書館の試験を受けた。閉架書庫に配属されて、魔導書が動く書庫で、厳しい先輩と、寡黙な騎士と、気さくな補佐と、謎めいた書記官と、危うい補佐官と、関わってきた。
消えた記録を追って、消された人の名前を見つけて、封鎖区画に入って、昨夜の暴走を止めた。
選ばれる側ではなく、選ぶ側として。
誰かのためではなく、自分の意志で。
手帳を開いた。
今夜のことを、書こうとした。
でも結局、一行だけ書いた。
記録は残る。
ファルク・ベルンが欄外に書いた言葉だった。
でも今夜は、自分の言葉として書いた。
手帳を閉じて、書庫の扉を確認した。鍵がかかっていることを確かめて、廊下を歩いた。
明日、ゼノが来る。
明日も、仕事がある。
それだけで、わたしは満足だ。




